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7組大橋周次長女 大橋 節子 |
十二月クラブ卒業五十周年記念を迎えられお慶び申し上げます。 亡き父周次は教員養生所からまわりみちをしながら然も私が誕生していての卒業ですから皆様の中で最年長者ではなかったでしょうか。父は上原ゼミでの勉強、教授宅での書生暮し、ボート部の楽しさ等良く学生生活の話をしてくれました。 十二月クラブでは私、主人(信州でご同輩の土田三千雄先生の教えを受けました)、娘の三人家族で国立の校庭での抽選会で多数の景品に特賞の洋服地まで頂戴した際に「学友中で大橋が始めての孫です」と幹事さんに紹介された娘はもはや三十四才で私もまた孫もちです。神田精養軒さんには亡母と出席させていただき楽しい思い出があります。又浅草寺での物故者慰霊祭では立派な法事をしていただきクラブの皆様に深く感謝致しております。 亡父は社会へ出たのが十年位遅かったため、学芸大学、専修大学で七十才の定年を迎えた後も生れ故郷近くの岡山商科大学に行きたいと申しておりました。私達家族は朝一番の東海道・山陽新幹線で行き当日の終列車で帰るスケジュールのため、老いの体にさわるから止めるか、都内でのんびり仕事をしたら良いのではないかと云いましたが、望郷の念が強くしばらく講師で通っていました。新年度から教授として勤務する前日に心筋梗塞でたおれたのでした。この過労が直接原因の死ではなかったが、深夜の執筆や、心の安定をはかるためかの煙草が原因とのことでした。あれ程までの望郷の念に対して、現地に移転するか、マンションを借りれば良かったのではないかと悔やまれます。 戦争、終戦、そして戦後の無からあざやかな経済大国発展とご活躍されてこられた十二月クラブの皆様方のご厚情により、子供の私共まで会合に参加させていただきましたことを深く感謝し、皆様方の今後一層のご健康とご発展をお祈りして、父の思い出の一端を応募させていただきました次第でございます。 |