1組 大内  孝

 

 「浮世の月見過しにけり末二年」
 一六九三年元禄六年五十二才で死んだ西鶴の辞世の句である。十八篇とも八十作とも云はれる傑作に様々な複雑微妙な人の世を書きつくし見尽くして生涯を終えた彼としては思ひ残すこともない満足度の高い、晩年の清澄な心境であらうか。

 我々はさきに三十周年記念文集を五十才代で出し、ついで四十周年文集「波濤」を六十才代で出した。今回古来稀と云はれた七十才を越えて五十周年文集を出したわけである。恐らく次の六十周年文集は難かしいだらう。だが我々は既に別の六十周年記念(論)文集を持って居る。それは我々が予科へ入学した昭和十一年十二月に一橋会から出版した東京商科大学六十周年記念論文集である。

 冠頭に三浦、上田(貞)両先生の論文があり、可さんや高島さんがヒュームやリストを熱っぼく論じて居られるのだが、之を手にするとあの予科入学当初に感じた白票事件や学長辞任(三浦から上田へ)でザワザワした学園内外の雰囲気を、檄文「紛擾茲に解決……」の学生大会声明と共に思ひ出すのである。我々の七十年は確かに古来稀な激動の年月であったと思ふ。大正初期の共産主義革命の誕生から昭和、平成に至り崩壊する迄の間に関東大震災、五・一五、二・二六、繰上げ卒業、開戦、敗戦、軍隊.財閥の解体、戦後の復興迄、二度の世界大戦を経験したのだから。

 此の間に僅か二十才代で悲運にも戦死して了った友人も居り、戦後五十才代で病のためなくなった友も居り、今尚元気な友達も居ることを思ふと、一体何を短いと云ひ何を長いと思へば良いのか、何才迄生きれば幸せと云へるのか、人生の満足度は年齢で計られるのかとつくづく考へさせられるのである。

 翔ぶが如く維新の激動期を五十才にならずして死んで行った西郷や大久保。四十になる前に死ぬのが望ましいと云って居たのに七十迄生きた吉田兼好。老中田沼主殿頭の懐刀土山宗次郎(御勘定組頭)を遊興仲間として持った為に、土山の汚職刑死に危ふく連座する所を免かれ、四十にならずして狂歌の筆を折り以後は俗務に精励し七十五才迄生きた太田南畝。(尤も我々は彼の転向で多くの随筆類に接することが出来たわけである)。又更に近年では、幼い時から病身で三十才迄はとても生きられないだらうと自ら思って居たのに、八十六才迄生きて小学校卒業丈の学歴なのに文化勲章も貰ひ、小説に随筆に渋い味を残して呉れた永井竜男等を思ふと、人生とは何と複雑な展開を見せるものだろうかと改めて考へさせられる次第である。

 『永井氏は漱石と共に神田錦華小学校卒業の私の先輩でその「石版東京図絵」は私の子供の頃の九段招魂社の祭り、神保町すずらん通りや、小川町五十稲荷の夜店のアセチレン灯の臭ひを思ひ起こさせて呉れるなつかしい書物である』

 我々は七十年の間に多くの友人、先輩、先生方と直接出会って来た。只これからは新たな直接の出会ひは殆ど考へられないと思ふが、書物に依る東西古今の色々な人との出会ひは充分望めると思ふ。色々な人の生きざま、それは即ち本人が書いた自叙伝、日記、随筆であり、他人が書いた伝記類である。私は之等のジャンルの書物が好きだ。人物の個人的人格的色彩が濃厚に出て居るもの程面白い。

 私が好きな書物を具体的に云へば「徒然草」、モンテーニュ「エセー」、ラム「エリア」、ギッシング「ヘンリーライクロフトの私記」、フランスのモラリストの一連のもの、ショーペンハウエル「筆のすさびと落穂拾ひ」、「老荘」「諸子百家」、南畝、荷風の随筆類。

 之等の書物はここ拾数年来私の毎日を楽しませて呉れた本であるが、今回は何れも福岡に来てからデパートの古本市で入手した一寸ばかり珍しい二冊の本について興味を覚えた点を書いて見たい。珍しいと云ふ意味は、読んだ人が割合少いだらう位の軽い積りである。
 一つは「上田貞次郎日記」、今一つは大塚幸男著「閑適抄」。

 (1) 上田貞次郎日記(上中下三巻)

 上田先生は明治十二年東京麻布飯倉の紀州徳川家の邸内(現在の貯金局内)に生れ、昭和十五年六十二才で逝去された。どう考へても十年は早過ぎた感じである。「日記」は明治二十五年から昭和十五年迄即ち十六才から六十二才迄の四十六年間、上中下三巻、一五〇〇頁に亘る厖大なものであるが、我々に最も興味のあるのは矢張り下巻(大正八年〜昭和十五年)である。

 先ず珍しいのは御夫婦共通の趣味であった長唄の稽古振りである。大正十一年三月から本格的に始められた。週二回自宅に来て貰った師匠は吉住小鶴と云ふ師匠で、奥様は以前から習って居られ、腕前は矢張り先生よりは上であったらしい。尚十二年九月一日正午頃稽古中に大地震に見舞はれ、「きみの庭」をさらって居た最中で、御師匠さんは腰を抜かされたので先生が抱きかかえられて庭に避難した模様が生々しく書かれてあるのも面白い。

 先生の門下生には太田哲三、金子鷹之助、増地庸治郎、山中篤太郎、猪谷善一、等錚々たる先生方が居られるが、之等の方々に対する観察批評は適確で且つ暖かい人物評となって居り、上記諸教授に直接教えを受けた我々に取っては特に興味をそそられる。

 太田先生については、学校の成績はさほどではなかったが頭の良い人と思って居たこと。中央大学の講義を譲ったこと。太田先生は親戚、故旧に対し極めて親切で面倒見が良いので感心したこと。神戸高商小樽高商からの招聘を断って先ず専門部講師として母校へ戻って来た経緯、本人は銀行論貨幣論の研究を専門にしたかったが結局会計学者として一流の人物になったと。

 金子先生については、今後の商大を率いる者は大塚、孫田、金子の三人であると云って居るが、酒のことを強く心配して居られた。

 増地先生については、最初佐野学長共々学校へ残ることをすすめたが、本人が承諾せず住友へ行った。併し実業界が面白くないので学界に投じ度いと私に訴へて来たので、学者生活の経済上の不利等につき注意を与へたけれども、決心を動かさなかったので大正十年四月から助手に採用した。頭の良い真面目な人だから学者として相当な成績を挙げるに相違ない。

 山中先生については、学才があり温和で常識に富んで居るので実業界の方が向いて居ると思って居るが、本人は学者になり度いと云って居る。

 猪谷先生については、頭と口と手と揃った人物で将来必ず一流の学者となることを信じて居る、と迄述べられて居る。(尚中勘介ゆかりの江木妙子さんと猪谷氏との結婚媒酌人は上田先生である。昭和二年十一月三日挙式)。

 昭和十年の杉村白票事件から三浦学長辞任、上田学長登場前後の教授連の動きについての記述は、古い一橋から新しい一橋へ脱皮のための苦悶が想像以上に根が深いことを知らされた感じである。

 尚一橋の長老的教授連に対する批評も直截で表現が面白い。
 即ち一橋の指導的人物は前に関、福田、佐野の三人があり、次いで堀、三浦、上田の三人であった。前の三人は何れも学才、世才、の秀でた人物ではあったが相互に相和せざるが為に無用の混乱を起した。後の三人を之と比較すると、三浦の学問は外面的では福田に及ばず、堀の事務は佐野に及ばず、上田は関の如き辛辣さを欠いているが、然し私心を去って共同事業の為に尽くすと云ふ誠意に於いては三人共、前の三人を凌いで居たと思ふ、と。(尚上田先生と三浦先生とは終始うまが合って居たやうだ。これは日記の全部を通して至るところで感ぜられた)。

 尚年次毎のゼミナリステンに対する個人評や就職先への心配、旧主紀州徳川家の財政建直しに関与した記事、家族特に御子息に対する細かい気配りの記事は興味深いものであったが割愛した。

 (2) 閑適抄(ギッシングと共に) 大塚幸男著

 大塚氏は福岡在住の元九大教授で「フランス文学史」「フランスのモラリストたち」、アミエル、ジューべールに関する著書を始めコンスタン「アドルフ」、アナトールフランス「エピクロスの園」等多くの訳書を有する仏文学専門家であるが、此の閑適抄は副題の「ギッシングと共に」が示すやうに、畑違ひとも云へる英国ギッシングの「ヘンリーライクロフトの私記」に大変な惚れ込み振りを示して居る。言はば閑適抄はギッシングに仮託した大塚氏の随想録でもあり、時にギッシングとアミエルとの酷似を説くかと思へば、時には鴎外にたとへなどして人の意表に出るし、又アナトールフランスの言葉を引いて「私が人生を知ったのは人と接触した結果ではない。本と接触した結果である」とも述べ、博学読書振りを披露して居る。 

 閑適抄は「私記」の順を追って春夏秋冬の各章毎に夫々の章に関連する記事に対し多くの文学書の章句を「フンダン」に引用し乍ら大塚氏の感想なり共鳴点を述べて居るのだが、取り分け書物、友人、人生、自然(雑草、樹木、季節のうつり変り)にまつわるギッシングの思ひと大塚氏の思ひが交錯して爽やかな文学評論となって居るのである。例へば春の章の「このさき幾度春にめぐり逢えるだらうか?楽観的な気持からすれば十度とも十二度とも云へるだらうが私は控え目にせめて五、六度と望み度い。それ丈で既に随分とたくさんだ」これは文体といい内容といい、まさしくアミエル晩年の心境を思はせる一文である、とアミエルの日記の一節を引いて居る。又秋の章の人生に関する一文ではアミエルと共に「人生とは漸進的放棄の修業である……」と諦観を見せて居る。

 大塚氏は最後にヨーロッパのエッセイ随筆の三大作品モンテーニュ「エセー」、ラム「エリア随筆」、ギッシング「ライクロフトの私記」の比較を次のやうに述べて居るが誠に同感である。

 モンテーニュは散漫であり、くどい。「エセー」にないもので「私記」に清々しさを与へて居るのは全巻に吹き通って居る「自然」の息吹と季節感である。此の点ギッシングはアミエルに似ている。

 ラムは気取っていて気まぐれ、風変りである。只ラムにはユーモアがあるがギッシングにはない。
 ギッシングは自ら選んだ苦難と波乱に富んだ生涯を四十六才の若さで終えた。此の「私記」も彼が死んだ年(一九〇三年)に僅か七週間で一気に書き上げられたものである。彼は「私記」の中であるがままの自分を描くだけでは満足せず、かくあらんと望む姿に自分を描いている。云はば自伝的随筆である。

 「私記」は大正十年研究社の英文学叢書に市河三喜博士が註釈を書いて以来、我々より一時代前の旧制高校の英語教科書に長く採用され、戸川秋骨、中西信太郎、平井正穂各氏夫々の名訳で知られて居るが、市河博士も「彼の二十三冊の小説類は極めて地味なものである為に高い文学的価値を有し乍らも一般には顧みられなかったが、「私記」は著者の気質や趣味を親しく語って居る上に極度に洗練された単純で優雅な文体と秋の夕暮の空のやうに静かで澄んだ気分が人をひきつける」のであると云っている。此の「私記」が特に深く印象に残る理由の一つはこの人物が感じている季節感が我々の共感を呼ぶと云ふことで、更にこの季節感の背後に時間の意識が痛烈骨を噛むように鋭く感じられている。

 春夏秋冬の四季に分けてその折々に書かれた自然と人生に関する偶感や随想の短章は一見まことに無造作に配列されているが、然も全篇は四季の推移するままに巧まない自然な変化と統一とを具有している。秋光のやうに清澄な平穏円熟した心境で著者は辿って来た過去の日々の悲しくもなつかしい思ひ出にふけりつつ人生の意味について考へる。高遠な理想とか瞑想とかを説くのではないが読書、散歩、静寂を愛した彼の面影が共鳴と共に快い慰安を覚える。常に淡々として地味である。淡彩清雅であり汲めどもつきぬ滋味がある。清明流暢である。一篇を読み終っても未だ何か読み了へた気のしない真のエッセイの味がある。

 これが「ヘンリーライクロフトの私記」である。大塚氏と共に讃辞を捧げる所以である。