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7組 岡部 寿郎 |
今卒業記念のアルバムを開き見れば、武蔵野国立の学園で、六年の青春を謳歌した日々が、五十年の歳月を越えて眼前に蘇り来る。懐かしさに胸が打たれる。そのアルバムの下段には学友諸兄の六年の所感、或いは決意が百人多様、夫々に述べられている。その言葉と今日の諸兄の顔とを、引き替えみればこれ亦感慨が新たとなる。 「人生とは生きることであり、生きることとは戦いである。今狂欄の涯頭に立つとき、甘美でありし学園生活の放逸の思いを捨て去り、人生の戦に臨まねばならない。人生とは戦いであり、その戦いには勝たねばならない」 緊迫を増し操り上げ卒業を控えた我々にとっては、誰しもが持った気概ではあり、新味のあるものではなかろう。 私は学友諸兄より三年程遅れている。この三年は幼少にして経験した。人生は戦いなり、の中に費やされた。私は幼少五歳の時母を失った。そして三年の後義母を迎えることなる。この母とは中学校卒業間際まで遂に馴染むことなく、反抗と反逆の日々であり、私にとっては家庭より疎外の年月であった。卒業を間近かにし、遂に家庭よりの離脱を決意した。この離脱と共に私は独立自活を図らねばならない。独立自活は即人生の戦いの中に入ることである。この戦いとは己れの自由と、疎外家庭に対する正義の反抗でもあった。ひたむきな自由の追求とその裏付けとなる正義。これは生涯私を導いた行為の規範ともなるものである。 自活のため私は小学校の代用教員となり一年を過す。その一年間で東京へ出で、自活を図りつつ学ぶ考えを固め、正に笈を負い、津軽海峡を後にした。縁者の力で、当時の東京逓信局、市外電話工事部に職を得た。図面のトレースの仕事である。そして学校はH大学の夜間部を選んだ。学ぶ者には昼間、夜間の差は無いと信じていた。然し私のこのような心の膨みも長くは続かなかった。幸か不幸か、私の選んだ学校の夜間部は大凡学問の場というものではなかった。熱心な学生もいたが、多くは放将の輩の集りであったのだ。教官はまた学問を教える熱意も、権威も持たない。二ヶ月も経たず私は失意の底に落ち込んだ。在京の雰囲気にも馴れ来て改めて方向と方針の見直しを考えた。考えが甘かったのではない。北海道の田舎での考えは大きな世界には通用しないのだ。それにはどうすればよいか。学ぶことへの決意は益々固い。それには学校は官立を選ばねばならぬ。それに昼間の学校を。自活学資はどのようにするか。学資と自活の費は育英基金その他で調達出来る方法も判って来た。それには進むべき方向と学校を定めることが最大の重要事だった。 勤務先、東京逓信局には若い技師連が多く居り親身に相談に乗ってくれる。その中の一人海原氏は殊に先進的な考えで私の気持を支えてくれた。彼は云う。東大へは進むな。そこは権力の亡者の集りであるからと。選ぶなら一橋へ行け。そこには大塚金之助が居ると。私は大塚金之助とは如何なる人かも知らず、また東京商大が一橋という名で呼ばれていることも始めて知った。東京商大は北海道の中学の校長が常に我々に呼びかけ商大入学者の出でんことを願っていた。東北、北海道の予科、高校、専門学校への入学者は多かったが、未だ商大の入学者は居なかったのである。東京商大は我々にとっては雲の彼方に聳える輝く存在であった。私は実業家になる望みはさらさら無かったが、海原氏の「権力の亡者」となるなの一言はまことに私を励ます言葉であった。この言葉に従い、私の進む道は、いささかの迷いも誤りも無かった。 上京四ヶ月後、私は夜間の学校を退き、東京商大専門部を目標に受験勉強にとりかかった。余すところ七ヶ月。昼間の勤務を終えるや下宿へ帰り、夜半へかけての猛勉となった。 人生は戦いである。この卒業アルバムに残した一文の中に私と一橋が結ばれた契機、この契機のもとで私の人生の基が決まり、いささかの迷いもなく今日まで生き延びて来た全容がある。一橋の学恩、師恩、友恩。そしていかなる時も、私の背後にあって支えてくれた一橋。まことに私にとって偉大な光明であった。 人生は戦いである。この一言について私の書くべきこと、書き残さねばならぬことを一応書き記した。今、逗子小坪の一隅で、遥か相模湾の彼方、伊豆の山々が残照に映えて薄れゆく。まさに戦い済んで天の残光を月に残してゆくように。それは又五十数年の昔、一橋に入学を許され、きらめく輝く一橋の門をくぐったときの光の輝きを今また再び現してくれるように。 |