3組  大串 隆作

 

 数年前、会社の仕事からやっと解放された時、私は嘗て愛読した『ドストエフスキー全集』をもう一度ゆっくり読んでみようと思った。想えば学生時代私は、自分が読んだどの本よりも、ドストエフスキーの文学作品から受けた印象は鮮烈であった。それは私にその後の心の歩みを変えさせる程、強い影響を与えたものである。それだけに、暇が出来たら是非もう一回読み返してみたいというのが、私の予てからの念願であった。併しドストエフスキーのような内容の重い作品は、どうせの事なら、翻訳ではなくロシア語で読んでみようと、その時は極めて軽く考え、ロシア語の全集を買い込んだ。これが私のロシア語に取り組むきっかけとなった。

 最初に私がロシア語を習い始めたのは、神田駿河台の、ニコライ堂と同じ構内にある、ニコライ学院という語学専修学校の教室であった。ニコライ学院はロシア語と英語と各進度別のクラスがあったが、どちらかというと、本家のロシア語より英語教室の方が盛況のようであった。

 私の入った昼間・週二日授業の『ロシア語初級』は受講生が十名を僅かに超える程度の、小じんまりしたクラスである。早稲田大学の学生二人と、新進の文芸評論家だという未だ四十才には間がありそうな中年の男性と私以外は、全部女性であった。白髪の老人が通うには余りふさわしくない雰囲気で、特に最初の日教室に入った時は、居合わせた女性達から一斉に丁寧なお辞儀をされた。何か恥ずかしい気がしたが、或いは私を講師だと思ったのかも知れない。

 ロシア語のアルファベットは、それ自体では発音出来ない記号二を含めて、三十三文字から成り立っている。ギリシャ文字のようなものがあるかと思えば、Rを裏返したような?(適切なロシア語文字なし)という文字もある。更にHは(エヌ)Pは(エル)、Cは(エス)、Xは(ハー)と発音するなど、久しく英語に馴染んで来た者には、面喰うことが多い。その上、名詞・代名詞・数詞・形容詞・動詞夫々が、性(男・女・中)、数(単・複)、格(日本語で言う『て・に・を・は』に当る)、時制(過去・現在・未来)、命令法などに応じて、目まぐるしく語尾を変化させるので、初学者はいい加減往生して、大方やる気を失って了うのである。

 私のクラスもその例外ではなかった。学び始めて暫くすると、やがて二人減り三人減りし、十ケ月目位になるともう、受講者は私一人になることがよくあった。週二回授業のクラスであったので、受持講師は二人居た。一人は私と年齢が余り違わない男性の講師であり、もう一人は三十才台の女性講師である。老講師の方は全くのベテランらしく教え方も手馴れたものであった。女性講師は講座を受持って未だ日も浅いように見受けられたが、それだけに授業は極めて熱心であった。二人の講師から夫々一対一のさしで教わる私は、まるで個人教授を受けているようで、本来なら感謝しなければならない筈である。処が、或る寒い冬の日、私はこの女性をすっかり怒らせて了った。

 事の起りは、私のP(エル)と?(エリ)の発音が悪いということで、何回となく立て続けに発声させられたことにあった。之は英語で日本人が最も不得手とするR(アール)とL(エル)の発声の違いのようなものである。始めの五回か六回位までは私も、素直にその指示通り発声を繰返して来たが、十回も十一回もとなって来ると、さすがに我慢出来なくなってきた。御本人は熱心さの余りからか、或るいはさっぱり発音の改善がみられないことにすっかり業を煮やしたのか、まるで憑かれたように、私の坐っている席の傍に立った儘、手を振り振り何回も言い直しを命ずるのである。私は常々、どの国の言葉でもネイティブ・スピーカーでなければ、うまく発声出来ないものがあって、それは仕方のないことだと考えて居たので、思わずこう言って了った。

 「もういい加減に止めてくれませんか。私はここに発音の練習に来ている訳ではない!!会話を習おうとも思っていません。会話をやる積りなら、最初からロシア人について習います。私はロシア語で本を読めるようになるためここに来ているのです。もう少し考えて授業して下さい」。

 彼女は、全く思いも掛けない突然の衝撃に遭ったかのように、がくっと肩を落すと、暫く茫然として居た。顔面も蒼白になった。やがて講壇に戻り椅子に腰を下すと、私の方は一切見ようともせず、力のない声で眩くように言った。
「もうあなたには何にも言いません」
 私は自分の発言が思いの外、相手をひどく傷つけて了ったことに、言いようのない申訳なさを感じたが、遂にあとの言葉が出て来なかった。

 恐らく彼女にしてみれば(語学は習い始めが肝心。最初に正しい発音を覚えないと、一生駄目な儘になる。だから、今、悪い所は徹底的に直してあげる)。この彼女の教育熱心と親切心が、一見執拗とも思える発声訓練になったぐらいは、私にもよく理解出来るのだが、残念乍ら、生徒のこの老人は義歯であった。当人は言われた通りの発声をしている積りでも、相手には全く違った発音に聞こえて了うのも、之亦誠に止むを得ない仕儀なのである。

 とはいえ、こういった経緯のあった後味の悪さから私は、以後この女性講師の授業には一切出なかった。私が出席しないと、或いは受講者が誰一人出て来ない教室になりはしないかと、そればかりが大変気がかりではあったのだが……。

 考えてみれば、若しこの時受講者が、私の他に一人でも二人でも出席して居たら、彼女も私一人にいつまでも発声のやり直しを命ずることもなく、私もあのような発言は絶対にしなかったと思う。講師と受講者の息が合えば、一対一の授業は理想的かも知れないが、歯車がかみ合わなくなると、それは反って大きなマイナスになる。いずれくぎりの良い処で、ここに来るのは止めようと私はその時心に決めた。

 私はロシア語を始めてから、親しい友人には出来るだけ、自分がロシア語をやり出したことを話すようにした。それは人に吹聴するのではなく、人に話すことによって自分が責任を感じ、ロシア語の学習をいい加減で放り出さないよう、自分を縛る為であった。併し乍ら、文字通り『七十の手習』となったこの新しい語学の習得は、私には大きな負担となった。

 先ず第一に記憶力の低下である。もともと物覚えは良い方ではなかったが、ロシア語を始めてみて、よくこうも見事に忘れるものかと、我乍らほとほと惘(あき)れて了った。昨日辞書で引いた単語も、今日になるともうケロリと忘れて、又また辞書を引いているということが始終おきるのである。まるで笊で水を汲んで居るようなもので、桶の中にはさっぱり水は溜らない。よく知人から「年とってから語学の勉強を趣味でなさるなんて楽しいでしょうね」と言われると何とも返答のしようがない。実の処、私にとってロシア語の学習は、楽しいどころか情けない思いの連続なのである。

 第二に語学の才能の問題であった。幾人もの友人達がフランス語やスペイン語を私と同じ頃に始めて、それを楽々と消化していることを聞く度に、自分が如何に語学を習得する能力に欠けているかを痛感せざるを得ない。外国語を学ぶのに大きな役割を果すべき記憶力も語学の才能もないとなれば、私にはドストエフスキーの全作品を原典で読むなど夢の夢かと、次第に諦めの境地になって行った。

 そんなある日、私は三鷹駅から総武線の電車に乗った。始発で週日の昼時だったから、私の乗った車輌には、僅か二、三人の乗客しかいない。がら空きの三人掛けの席に一人でゆったり坐ると、私はすっかり安心して、やおら鞄からロシア語のテキストと辞書を取り出し読み始めた。どの位の時間が経っただろう、ふっと気付いて顔を上げると、私の前に一人の中年の婦人が立っている。服装を見てすぐ、ああこの人はカトリックの修道尼だなと思った。その婦人は、かなり前から私を眺めて居たらしく、二人の視線が合うとニッコリ微笑んで、たどたどしいが確かな日本語で、私にこう言った。
「私はフランス人ですが、ロシア語を、あなたと同じ、(と私の読んでいたテキストを指して)このテキストを使って、習いました。ロシア語は、ほんとうに素晴らしい、美しい言語です。どうか、あなたも、しっかり、勉強して下さい」
 折柄、電車はプラットフォームに滑り込み、その婦人は「有り難うございます」という私の声をその背で聞き乍ら、そこの駅で降りて行った。

 恐らく彼女は、それまで暫くの間私の前に立って居て、白髪頭の老人が車中傍目も忘れて、せっせと辞書を引き引きロシア語のテキストを読んで居る姿を、興味深く観察していたに違いない。そして何んとなく哀れを覚えて、思わずはげましの言葉をかけてくれたのであろう。だが、ロシア語の学習に行詰りを感じ始めていた私にとっては、之は何より有難い激励の辞となった。大げさに言えば、恰も「汝、諦める勿れ」という天からのメッセージと聞こえた。私が彼女と逆の立場であったらどうであろう。「何も電車に乗ってまで、辞書を引き引き本を読むこともなかろうに」と苦々しげに、見て見ぬふりをするのがおちだったかも知れない。だから私は今でも、この婦人のことは忘れない。

 そして丁度この事と前後して、私を大いに元気づけてくれたもう一つに、千野栄一著「外国語上達法」(岩波新書)という本があった。千野さんは東京外国語大学ロシア語科卒業、現在同大学の言語学教授であるが、この書物は冒頭『私は語学が苦手である』という言葉から始まって居る。御本人は大変な「Polyglot」(多国語に通じている人)と聞いて居ただけに、思わず興味深く読んだ。非常に読み易い本で、語り口は至って明快である。すべて一つ一つ納得のいく論旨であったが、特に共感を覚えたのは『忘れることを恐れるな』という小見出しのついた文中にある次の件である。

 忘れるし、よく覚えないからといって、外国語の学習を始める前からあきらめる人には、七十才を過ぎた今日でも、毎年一つは新しい外国語をものにしておられる私の恩師の話を伝えることにする。「いや、もうだめですね。覚えるそばから忘れていきますよ。見事に、きれいさっぱりです。私たちが若い人たちに対抗していく唯一の手段は、何度も何度も繰り返すしかありませんね」といいながら、先生は一年たつとその言語を習得しているのである。

 それともう一箇所、『まず千の単語を覚える』という小見出しの文中で、

 どの外国語でも、やみくもに千の単語を覚えることが必要である。この千語はその言語を学ぶための入門許可証のようなものであり、これを手にすれば助走成功で、離陸が無事に済んだとみなしていい。

 当時私は果してロシア語を千語も覚えたかどうか頗る疑問ではあったが、日本に於ける語学の第一人者が『忘れることを恐れるな』というアドバイスをしてくれていることに心を動かされた。そして、自分にはロシア語を学ぶ目的がハッキリしているのだから、あとは繰り返ししかない。忘れても繰り返し、又忘れても繰り返して、行ける処まで行ってみようと更めて自分に言いきかせた。

 偶々その頃私は、家を建替える為、何かと身辺雑事が増えて来た。次女から私達夫婦と同居し度いとの希望があったので、家を二世帯住宅向に建替えることにしたのである。私と家内とは、建替期間七ヶ月を、新川崎のマンションに住む長女宅で過ごすことにした。その時既に私は、ニコライ学院をやめていたので、七ヶ月の間にロシア語を忘れて了うことのないようにと、経堂にあるロシア語専修学校、日ソ学院に通い始めた。ここでは若干文法を習ったりしたが、雑事にかまけてさっぱり学習に身が入らない。それに時々ふっと、私の心に影のようなものがよぎることがあった。あと何年の命か判らないこの今、未だに自分のことだけ考えていていいのか。それは私自身に対する反省とも迷いとも言いようのない、何か切ない焦燥の思いであった。「ロシア語でドストエフスキーの小説を読む」それが一体何の意義があるというのか。

 新築の家で正月を迎えた一昨年、気をとり直して私は又四月から新たに朝日カルチャーセンターに行き出した。もう一度最初からやり直す積りであった。偶々一橋大学の中村教授が担当していた『初級ロシア語』を受講することにした。夜間週一回である。受講者は十二名、私以外はすべて二十台、三十台の職業人であったが、このクラスは男性が多かった。殆どが仕事上何か、ロシア語の習得を必要とする人達のようであった。それでも六ヶ月経って『中級』に進む時は、最初からの受講生は六名に減り、更に六ヶ月後『上級』に進むときは、私の他には一名しか残らなかった。

 上級クラスには十四名の受講者が居た。大半が、講師は変っても毎年続けて上級で勉強している人達である。ロシア語歴十年を超えるという女性が多い中に、戦前ハルピンに在住していたという私より年上の男性も居て、読書力のレベルは流石に高かった。

 私は初級・中級各六ヶ月、上級一年計二年間、中村教授のクラスで受講を重ねたが、その間テキストとして、プーシキン、トルストイ、チェーホフなどの短篇小説を読んだ。読んだというと如何にも体裁はいいが、実際は出て来る単語、出て来る単語かたっぱしから辞書を引き、それでも猶文意が掴めず、専ら訳本の助けを借りること再三であった。大学ノートに縦に二本罫を引き、之を単語帳代りとして単語と訳語、それに完了体・不完了体・語尾の変化まで書き込むとなると、予習には意外な程時間がかかる。家内からは「まるで受験勉強ね」と笑われる。或る時中村先生に「何か時間のかからない、いい方法はないでしょうか」と尋ねたことがある。先生はその時私のノートを見乍ら「いや、あなたのノートは模範的ですよ。私は語学の習得はやはり、王道が良いと思います」と言われた。斯くして大学ノートは遂に何冊にもなって、正確に数えた訳ではないが、そこに書き込まれた単語は恐らく、優に一万語を超えるであろう(何回も同じ単語を書き込んでいることを考慮に入れても……)。それでいて今私の覚えている単語は、一千語をわずかに上廻る程度でしかあるまい。詩や文学作品を楽しむには、どんなに少くても五千語は必要と言われている。正に前途遼遠である。

 併し乍ら私にとって、中村教授に指導を受けたことは誠に幸せであった。中村先生は名は喜和(よしかず)。一橋大学博士課程修了(ロシア文献学専攻)、現在社会学部の教授であるが、著書『聖なるロシアを求めて』により昨年、大佛次郎賞を受賞されている。大変親切な方で、私は折に触れ適切なアドバイスを戴いている。昨年も先生に「文学作品を読むにも、会話を習うことが必要だと思うようになりました」と話をすると、「一橋大学にロシア人講師の会話の授業があります。出てみたらどうですか」という薦(すすめ)を受けた。早速昨年四月から国立の教室で、学生達に交って露会話の授業に出席させて貰っている。

 講師は二ーナさんという未だ三十台と思われる、誠に人柄の良い女性の先生である。英会話ですら苦手の私が、ロシア語で話せる筈もないのだが、学生気分になれるだけでも有難い。昨年度は、この授業に常時出席する学生は二、三名であったので、先生から名指しで質問される回数は多かったが、気分的には楽であった。併し今年の四月には学生も十名を超え、殆どが男子だが、中に東京外大のロシア語科を出たという年輩主婦の大学院生も居れば、六年間ロシア語会話を習っているというフランス人女性も居たりして、会話力のレベルは上ったように思う。一年間会話の授業に出てはいても、さっぱり進歩のなかった私は、今聊か緊張気味なのである。

 二ーナさんは会話力をつける目的で、私達に屡々ロシア語で作文を書かせ之を提出させた。作文は、自宅で辞書を使って書くことが出来るので、私には会話より寧ろ楽に思われた。あるとき?(ロシア文字)(私の夢)という表題が与えられた。私はレポート用紙二枚に亘って、あらまし次のような作文を提出した。

 私は自分が小学校四年生の時『人生』という題で書いた作文を今でもよく覚えている。「僕は将来、総理大臣になり度いとも思わない。陸軍大将になり度いとも思わない。僕は将来、どんな困難の中でも、自分が正しいと思ったことは必ず実行する人間になり度い。たとえ自分がそのために、一生新聞配達をして終ることになるとしても……」之が私の小学生時代の夢であった。中学校に入ってからは、人を病気から守る医者か、子供に夢を与える小学校の先生になり度いと願った。之が中学生時代の夢であった。いずれの夢も、とうとう実現出来ずに終って了った。併し今、私に全く悔いはない。私はこの大学を卒業し、貿易会社に入り、戦後の混乱の中で、日本のために、私達自身のために、精一杯働いたと思うからである。そして現在、私の夢はロシア語のこの諺である。『?(ロシア文字)』(直訳『百年生きよ、百年学べ』生命ある限り学べの意)

 いつも私の提出した作文は、文法的な誤りや、表現の下手な箇所が赤インクで真赤になる程、直されて戻ってくるのであったが、この作文だけは、スペルの誤りが二、三箇所直されているだけであった。そして作文の最後に赤インクで○≡≡葦(非常によろしい)と書かれ、その下に大きなまるがついていた。

 朝日カルチャーセンターでは、今年の四月から中村教授は二年のサイクルを終え、再び『初級ロシア語』を担当することが決っていた。従って私自身は、もうロシア語の受講は止めて、今後は自宅で独学をしようと考えていた。処が、今年の二月になって中村先生から、国立の研究室で、学生達とドストエフスキーの作品を読むことになったと知らされた。四月からとのことであった。私にとっては願ってもないことなので、その場で参加を申出て諒承された。
 先生からドストエフスキーは何を読み度いかと聞かれたので「出来れば『カラマーゾフの兄弟』が読み度いですね」と申し上げて置いた。その後先生から、学生達と相談した結果『罪と罰』に決めた旨通知があった。私にとっては『罪と罰』でも『カラマーゾフの兄弟』でもどちらでもよかった。いずれ劣らぬドストエフスキーの代表作である。今、私としてみれば、予てからの念願であったドストエフスキーの作品を、国立の中村研究室で学生達と一緒に読めると思うだけで、心が弾んでくるのであった。

 四月十八日がその開講日であった。学生四人と私の他に、ロシア語歴何れも十数年という年輩の婦人達も参加し、中村教授指導の下に『罪と罰』の講読が始まった。学生が大きな声で朗読するのを聞き乍ら私は、やっぱりロシア語を続けていて良かったと沁々感じたのである。

 とは言え、今は末だロシア語の勉強のために、テキストとしてドストエフスキーの作品を読んでいる段階に過ぎない。辞書を殆ど見ずに、文学作品を読む醍醐味を経験出来る日はいつのことか。そしていま予習には相変らず長い時間をかけている。

 昔、勉強嫌いで出来の悪い学生だった男が、七十をとうに過ぎた今頃になって、齷齪と辞書を引き、背を丸めて一生懸命ノートに書き込んでいる。そんな姿はどうみても傍目には、全く滑稽としかうつりようがないのだが、当の本人は至ってまじめな顔をして今日も又、桜吹雪の舞う国立の大学通りを、辞書の入った鞄を重そうに抱えて、テクテク歩いて行くのである。

 


参考までに、1993年夏、ロシアに旅行したときのスナップを添付します。
(2001年10月12日)

 
 ドストエフスキーが最後の作品「カラマーゾフの兄弟」を書き上げた住居は現在『記念館』になっていますので、それと同じようなドーム(住居)の中庭で、ロシア人女性ガイドと一緒に撮ったものです。
 
 ドストエフスキーの作品「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフ(老婆を殺す貧窮の学生)が住んで居たと想像される下宿屋の前にガイドと一緒に立って撮ってもらいました。私どもの立っている前の通りを大きな犬をつれて颯爽と歩いて行く美人のお嬢さんが印象に残っています。