2組 折下 章 |
十年前に三途の川で閻魔大王との問答を了え、本来ならば今頃は川の向岸で、裁きによる行き先が地獄であろうと極楽であろうと、輪廻の一里塚をてくてく歩いている筈である。それが未だに渡るべき川にも辿り着けないで、石のごろごろ散乱している賽の河原を相も変らずうろついている。そのいつ果てるとも知れない彷徨の記録である。 六十五才での引退は、かねての持論でもあったので、何の抵抗も感じなかったし特別に変化する必要もなかった。しかし、それから数年後愈々一切の社会的組織から離れるに当り、「見受けるところ無粋、無趣味のようだが、これからは毎日をどの様に過すのか」と問われ、もとより自分の有姿は自覚するところであったが、更めて考えさせられた。これからは好きなことを勝手気儘にやっていくのだという漠然たる期待感、喜びの中で、余計なお世話だと反撥しながらも、「年も年だから世に言う晴耕雨読さ、晴れては山野を跋渉したり、庭師のような仕事をしたり、降っては好きな本に耽溺したり、身辺の整理をしたりすることになるさ」と答えはしたが、具体的に何をやるのか誠に以って暖昧模糊としており、内心忸怩たるものがあった。
(一)山野の跋渉 1. 四国八十八寺巡拝 もともと無信心者である。省みて生活に余裕がなく、心にゆとりがない所為だと思う。(無趣味の由来も同じことかと反省する)。だから、どうして四国巡拝かと問われたり、ご信心の深いことでと椰楡されると返答に窮した。 それでも齢七十才を越えるに当り、何か節目となる行事をと考えたとき、八十八寺巡拝を思い立つということは、宗教就中仏教に満更無関心だったとは言えないだろう。 四国は空海生誕の地であり、禅定に籠った深山幽谷荒海の厳しい修練の地である。多くの山寺、海浜寺の中から、空海との縁の深いものとして八十八寺が選び出されている。同行二人の所以である。 十日間位宛三回に分けて歩いたが、四国の山は深く清く、野は長閑で美しかった。人情も亦篤かった。四国は死国、詩国、巡拝は遍路(へんろ)と、そして妻が嫌った白装束は死出の旅装という。 山岳信仰と補陀落信仰との綯い交ぜの中で、仏式に則って四国を右廻りする。総道程は約千四百粁である。近頃はブームの中で団体バスほか乗用車による巡拝が殆どであるが、これは「おへんろ」とは云い難い。愚作二、三首句を憶面もなく再掲する。 有情の身巡拝しても変らねど数多御霊の供養いたさん 2. 丹沢山塊縦走 座間に定住してから丹沢のとばくちの山々は何回か歩いたが、東から西への主稜縦走は二、三十年来の念願であった。丹沢山塊背稜の縦走には主脈縦走と主稜縦走とあるが、その後者である。 山塊中何箇処かが自然保護区域に指定されており、今日各地で問題となっている自然林が多く残っている。特に西丹沢は人跡稀れで、嘗て赤軍の隠れ処となったことは記憶に残るが、檜洞丸山頂およびその周辺の山手擧の巨木は見事である。今頃は新芽が萌え始めていることだろう。鹿の鳴き声も谷に木魂していることだろう。 動物には老醜ということがあるが、植物にはそんなことはない。年々歳々寿命が尽きるまで何百年でも、何千年でも新芽を出し、美しい花を咲かせ、立派な実を生らせる。植物こそ地球の主であり、空気も水も植物なくしては清新を保つことは出来ない。動物はどうしても地球の主にはなれない。特に人間は如何にも主人公面して勝手気儘な振舞をしているが、知慧があるだけ最も質が悪い。知慧は地球の主である植物の温存育成に向ければ良いのである。 縦走では、やがて湖底に沈む宮が瀬の部落から取り付いた。以前登り口の目標だった小学校も既に取り壊されて土台石のみとなっているのは寂しかった。 3. アルプスハイキング ヨーロッパ資本市場での始めての資金調達に行ったのは一九七五年だった。それから数度の渡欧時に、彼の地で週末を迎える度毎にアルプスの山々を訪ねた。勿論山歩きの何の用意もしていないから乗物を利用しての純観光であった。それでも山の紫外線に陽焼けして、額の皮が剥げる目にもあった。先方では誰も特に気にしないので気楽だったが、むしろ帰国してから仲間内の方で気をつかった。向うでは小学生から足腰の弱った老人に至るまで、凡ゆる階層の老若男女が登山靴を履きザックを背に、体力に応じて乗物を利用したり歩いたり、思いのままにアルプスの山道を楽しんでいた。その姿を見て、何時の日にかわれも自由の時間を得て……と、私かに期するものがあった。八九年その時到り、家内と二人で始動した。パックツアーは束縛されるのでこれを避け、二人丈の旅行計画を立てた。 スイスおよびフランス政府観光局での情報 等々を取揃えての計画である。自分で細部スケジュールを作るのは始めてで骨が折れたが、振り返ってみれば楽しいことではあった。若者と同じくリュック姿で行った。 いつも感ずるところであるが、相当の観光設備開発が行われているわりには、自然との調和がうまく取れていて気に障らない、目の邪魔にならないのは立派というほかなく、わが国においても見習いたい点である。 4. ネパールヒマラヤトレッキング 高橋ゼミ一年先輩のアルピニスト大塚武さんから、ネパールヒマラヤに行かれた時の話をお聴きしたのは、北海道日高山系の神威岳で遭難される僅か十日程前だった。大塚さんは高橋先生の愛弟子の一人で、遭難当日の朝、野営地出発直前にセルフタイマーで撮られた写真を持って先生に報告に参上したとき、先生は奥様共々「あの慎重な人が……」と絶句、限りなく惜しまれておられた。 山歩きは玄人でも危険を伴うのだから、素人は猶更気をつけなければならない。あれから八年が経つ。アンナプルナ・ダウラギリビスターリトレッキングのパックツアーに参加した。最高標高は約三二〇〇米であるので高山病対策は不要であったが、七十才超のものは心肺他内臓の健康診断を要求された。メンバー中唯一人の該当者であった。 動機は大塚さんの話を聴いたことにもあるが、やはり八千米超のヒマラヤの山々に直に接したいということであった。 アンナプルナは一九五〇年に人類が初めて登頂した八千米超の山であり、ダウラギリは最も困難な山で、一九六〇年になってやっと八千米超峰十四座中十三番目に登頂された山である。この両山群の麓をテント八泊でトレックするツアーである。プレモンスーンの三〜四月であったので、気温は朝晩O度C±5度Cと低く、標高三千米附近では雪道を歩かなければならなかった。降るような星空も期待通りだったが、寒くてとても長時間眺めてはいられなかった。トレッカー二十名、シェルパ十名、ポーター五十名、総勢八十名の大キャラバンであった。一日の行程は短い日で四〜五時間、長い日は七〜八時間、標高差は最大七〜八百米の登降、トレッカーのザックの重量は三〜五瓩、ポーターが一人で三十瓩位を担いでくれるので大助かりだったが、やはり相当の運動量の連続で難儀だった。 歩けなくなった人は、籠に入れてポーターが一人で急坂をかつぎ上げ、かつぎ降してくれる。大変なことである。どうにもならない病人はヘリコプターを呼んで街へ運んで貰わなければならない。 山岳部落をつぎつぎと通過し、ネパールの山地住民の生活社会に接触できたことも大きな収獲だった。甚しく貧しいがしかし栄養失調の子供は一人も見かけなかった。籠に入れられて路端に置かれた赤子などはむしろ栄養十分でつやつやしていた。耕して天に至るような段々畑は痩地で収量は少ないだろうが、最低の食糧は賄えているようだ。しかし段々畑は裸地で樹木はなく、又少数とは云え山地住民は燃料を残る森林に頼っているらしいので、山肌の荒廃、低地河川の治水は大きい社会問題となっていることだろう。社会問題は他に人口の急増(現在千八百万人)にあるようだ。山は期待通りの雄大壮厳な姿で迎えてくれた。シャクナゲの大木に驚き、昼なお暗い溪あいでは木々に宿る寄生蘭の大きな花がボーッと白く咲いていて、この世とも思えない幻想的な景観であった。 年少者の教育には貧困の中にもかかわらず相当力を入れているらしく、子供の識字率は格段に改善されつつあるようだ。まだまだ大変だろうが、今の子供達の成長の暁が楽しみである。 ネパールを離れる直前に、東欧の変革に呼応するかのような、主として首都カトマンズで起った民主化要求の暴動に遭遇した。不十分ではあったろうが、或程度達成の成果を得たらしい。しかし、勝利を歓喜する民衆の一部にソ連国旗を打ち振って気勢を挙げている姿を目撃して奇異に感じ、まだ幼稚だなと思った。 二日程帰国が遅れたが良い経験だった。
(二) 仏典渉猟 1. アーガマ 前にも記した無信心者が霊所巡拝をしたり、仏典ほか印哲のテキストを読みはじめたり、関連して写経をしたりということの抑々のきっかけは、ラジオ・テレビ等で中村元博士はじめそのほかの人達の話を聴いたことであったろうか。(博士には同じ小学校の五年先輩で、弟さんとは同年であり、何とはなしの親近感がある)。 仏教徒の条件は、仏法僧の三宝に帰依することとされているから、訳も解らずにではあっても経典を読誦したり、その講義を聴いたり、仏教の唱える法-真理に興味を持ったり、その理法を最初に説いた釈迦に尊敬の念を持ったりということは、自意識の如何を問わず客観的には既に仏教徒になりかけているのかも知れない。まだ世に云う「僧」(的はずれになるかも知れないが寺の坊主)には敬礼する気がないからなまくら仏教信者の域を出ず、従って相変らずの無信心者ということに後戻りして了うのだろうか。それでも毛筆習字の自己流稽古であるとか心の安静を求めてなどと写経をするに到っては、やはり「なまくらだが紛れもなく仏教徒だ」と言われそうだ。 生来というか物心ついてからというか、なんでももの事に対するとその原始に遡りたがる質で、仏教に接するに当っても先ず原始経典であるアーガマ(阿含経)にとりつき、挙句の果はそのとりこになってしまったというところである。と言っても、アーガマの大部分は文献的にマガダ語、パーリ語、そして最終的にはサンスクリット語によって書かれているのに、そのいずれにも全く無知、文盲であるから、どんなに一生懸命に経典を訳文で読誦しても、その実は真意を解するに到らず匂いを嗅いでいるに過ぎないのである。(屋台飲み屋に譬えれば、看板を見て近づいては来たが暖簾をくぐって中へ入り焼鳥を味うというところに辿りつけないでいるのである)。 それでもどうして、どういう点に魅力を感じて原始仏教のとりこになってしまったのか、翻訳者の言葉を籍りて敢えて分析してみると次のようになろうか。 (イ) 原始仏教の教義は、理想の境地を日常生活の中、或いは過程で獲得しようとする真の意味の現実主義で貫かれている。 それでは、そういう考えであり、立場をとる原始仏教の主張する教義の具体的内容はどんなものだったのか、アーガマの中から抽出していると次のようなものになろうか。 (イ) 一貫してこころ(心)の大切さ、尊さを説き、一方その弱さ、汚さを認識してその払拭を説く。 それは結果として真の意味での謙虚さをもてと教えているのだろうか。 2. 付記 その後仏教は宗派の分裂、そして各々が自派教義、主張の優位性を誇示し、仏教内他宗派に対してのみならず他の宗教、思想に対しても論争し生き残るためもあって、壮大絢欄たる心理学上の、哲学上の理論を展開するのであるが、むしろ煩瑣であり、ペダンティックないやらしさをももつようになり、これも原因の一つとなって、インドではそれら理論展開者の意図に反して、宗教としては滅びて行くこととなるのである。 わが国に伝えられた仏教、そしてそれを日本民族の大衆の中に浸透させる過程で更に別な観点、立場から磨き上げられた日本仏教においては、瑜伽行の要素、色彩の濃い禅宗には不勉強でよくは解らないながらも魅力を感ずるものがあるが、念仏、踊りに表現されるような宗派には寄りつき難い。やはり、本当の宗教心が薄弱なためなのか、未熟者の青臭い衒(てら)いが邪魔をするためなのか、今のところ信心者になれないでいる。最後に反省、悔悟をこめて、アーガマの詩句を一つ。 頭髪が白くなったからとて長老なのではない。 |