2組  貞廣達次郎

 

 ここ数年親しい友人の訃報に接する機会が急に多くなったようだ。それも生前、私よりもずっと頑健に見え、健康に余り関心を払う必要のないような人が割合多く、天命とはいえ、果して仏の心情で他界できたのであろうかと一沫の疑念が残る方もある。

 私の友人は大体次の三グループに入る。大学、海軍主計短期現役及び東京海上時代の人達である。今、手許に届いた海軍の名簿によると、昭和十七年の経理学校補修学生として入学した同期生が三一九名であった。この戦友のうち戦死者五七人、戦後の死没者七一人、併せて一二八人は既にこの世になく、現在の生存者は僅か全員の六割の一九〇人になってしまった。又その中の何人かは闘病中とか身体不調の状態にあると聞いている。勿論戦争という異常事態を経過しての話であるから正常な状況下の生存率とは異なるであろうが、間もなく日本人の平均寿命年齢に達する我々の厳しい現実の姿を顯しているといえるであろう。この冷厳な事実を前にして、残り少ない人生のあり方について、真剣な模索をいやでもせざるを得まい。

 そこでこの機会を把え、私の余生観の一端を次の駄文に託してみた。
 先ずその筆頭に挙げねばならないのが、万人の一致した考えと思われる所の「健康至上主義」である。私の場合は、中学卒業時の大病以降、健康に関する意識を人一倍持たざるを得なかったが、これが幸いして、今日でいう「一病息災」となり、今日迄の私の生命保持の妙薬となったことは疑いもない事実であったと思う。この考えは妻を喪ってからは一層強くなり、又私の今の生活環境下においては絶対的な重みを持っている。私の二四時間の生活の総てがこの目標達成に帰結しているといっても過言ではない。仕事、食事、或いは遊び迄総ての行動が全部最終的にはこの目的に結びついていよう。

 第二は「孤高の貴さを知る」ことである。世間にはよく、「我身、家庭を省みず、社会の為に奉仕し、遂に自身迄損う人」があるが、その精神は多とするものの、もっと自己の姿を直視する必要があるのではないだろうか。既に第二、第三の人生に入った現在では「人生害せず損わず、人からも煩わされない」のが社会、家庭生活を送る際の基本信条であると思っている。「過去の栄光に執着し夢を追う愚を捨てよ」。老害を撒き散らすのは、政界の某長老の醜態を見る丈けでたくさんである。

 最後に「心の自由を満喫しよう」。如何なる世にあっても、心の自由は洋の東西を問わず人間誰にでも与えられた特権であろう。然しこれが、「貧すれば貧する」の譬にもあるように、思う儘に享受できないのが現状であろう。今は誰に憚ることも無くこの宝物を大切にしたいと思っている。「天衣無縫にして天上天下唯我独尊。喪うものも無く、又与うるものも無し」。喪った妻以外は家族に恵まれ、憂うべきものも皆無。「自由にして潤達なる余生万歳」と叫んでよい。

 上記の心境の中、人生のゴールを目前にして、なお我身に残された宿題の消化に精を出している毎日である。そんな現状から今後も旧友に義理を欠くことも多々あることと思うが、どうかお許し願いたい。

 




卒業25周年記念アルバムより