5組 斉藤 定雄 |
生来、本格的な日記をつけたこともなく、記録を残したものも少ない。従ってTPOの定かでないものが多いので、文集に寄稿をとのことだがしばし戸惑った。三十周年の時は失礼した。四十周年には四行で寄稿者中最短文でお茶を濁した。今回は半世紀にわたる節目でもあり、若干の駄文を物す事にした。 先ず父は秋田県人で医者、小坂鉱山に勤めていたが、先輩の久原房之助氏(後の政友会総裁)が日立に久原鉱業を創業した時に、請われて日立鉱山に転じた。当時、入社した小平浪平氏は後の工務課長時代に、久原社長に電気機械の将来性を進言独立し、今日の日立製作所を創立し初代社長となった。父は無煙、無飲で医は仁術一筋で通し、大恐慌の昭和四年日立鉱山病院長を最後に勇退した。小平家のホームドクターとして長い間お付き合いがあった。私は姉三人、兄三人、妹、弟にはさまれたラッキーセブンで日立鉱山元山で生まれた。 さて予科の入試で作文があった。毛筆で多分「所感」と云う題であったと思うが、何を書いたか忘れた。合格したので、まあまあといったところか。入学早々、文化部と運動部から勧誘があって、熱心に口説かれた陸上競技部に入った。その夏、三商大主催の全国高商大会が国立の競技場で開催され、中距離向き体格と云うことで、千五百メートルにエントリーされたが、予選で落選した。その直後、受験以来の疲労のうっ積のせいか、東北地方に旅行中重い赤痢にかかり、盛岡市民病院の伝染病棟に約一ヶ月隔離され、死線を彷徨した。そのためか、学生時代慢性大腸カタルで悩み続け、マネージャーに転向した。学部三年の時、新坂主将、中牟田、柴沼、前田(南)、松島の諸君と黒住君ほか下級生の活躍で、関東インカレニ部で優勝、初めて一部へ昇格し、高瀬部長の後をつがれた中山部長をはじめ各位に喜んで頂き、よき思い出となった。三商大戦等の遠征費の調達に夏の暑い時、諸先輩に寄付をねだり歩くのも一仕事であったが、特に水上達三、尾本信平、両先輩のご支援が印象深い。今三菱化成会長の鈴木精二君も部の後輩で、社長就任時に訪ねて思い出話ができた。 学部一年の時、筧克彦東大教授の神がかり的憲法講義を聞き、批判的答案を書いて不可をもらったっ翌年、古本屋で買った著書を読み、心ならずも迎合して、優となった。学業成績とはこんなものかと空しさを覚えると同時に、秘かに抱腹絶倒した。 ゼミナールは高瀬ゼミを選んだ。そのわけは競技部の先輩が比較的多く好評であったことと、先生は計理学と社会学とを研究指導されていることを知り、後者に関心をもったからである。一般的には計理学者としての評価が高かったように思うが。 知る人ぞ知るで、ゼミに入った直後に先生から長男の面倒をみてくれとのお話があった。確か小学校三年の頃で、次男が六才近く離れていたので、奥様がその養育に多く手がかかるようになられたかと思い、お役にたつならとお引き受けした。後は奥様と相談しながら、出来るだけ休日にお宅へ伺い、本を読んだり、庭でボール投げをしたり、近くの井の頭公園を散策したり、毎日会館のプラネタリュームに行ったりして約一年経過した。その間先生は昼食を共にされた位であった。翌年一身上の都合で辞めさせて頂いたが、ご主旨に添えたかどうか自信がない。 先生は四十一年九月に亡くなられたが、私は四十五年、東京支社長になって上京して以来、奥様が亡くなられた半年前まで、数回お宅でお目にかかれても、このことにはお話がなかった。 先生は上田学長の後をつがれて、十五年五月学長に就任されたので、ゼミのメンバーは我々の次までで終わり、我々は卒業までご指導を仰いだ。 先生の社会学はフランス留学中に勉強されたサン・シモン、オーギュスト・コント、デュルケームを主体としたフランス社会学で、現代社会にも影響をおよぼす実証的なもので、学長、吉田内閣の四大臣、参議院緑風会政調会長時代の実践にその片鱗がうかがえる。なお先生は東京高商専攻部時代、渋沢栄一翁の事務所で書生をなされ、後年には渋沢青淵記念財団竜門社専務理事につかれたほど、翁を尊敬された。(注)参照、私も座右の書として、翁の著書「処世の大道」を愛読した。 さて、学生時代受講をよくさぼったが、選択科目の刑法牧野英一東大教授、農業政策東畑精一東大教授の講義にはよく出席した。 牧野先生は博学雄弁。穂積陳重先生の教えを受けて、比較法学的立場、特に刑法の泰斗であられ、若い小野清一郎東大教授との論争に関する部分は圧巻であった。即ち、先生は比較法の立場で、目的刑主義、教育刑主義であったのに対し、小野教授は応法刑主義、罪刑法定主義の立場であって、先生はそれを法律における神秘主義ともいわれ、不幸にも我々と大いに趣を異にするものと反論された。(注)参照。 東畑先生は自然に我々の頭にとけ込む淡々とした名調子で、魅了されるところがあった。あるとき社会学のご指南をお願いしたら、米国大学二教授の共著 Rural and Urban Sociology の読書をすすめられ、一読したが、当時では卒論の種本として活用する知恵を持ち合わせなかった。今思えば、我が国都鄙問題のはしりを示唆されたもので、先見の明に応えられなかったのは慙愧に堪えない。その本は東京空襲で焼失し、著者の名前は思い出せない。一人はアンダーソンだったか定かでない。 卒業が早まったので、卒論は不本意ながら、社会学に見切りをつけ、会計学の範疇に属する減価償却時価論に関する内容のものとなった。そのきっかけは、十五年六月発行の阿久津桂一著「減価償却における時価論」であった。著者は英語で有名な阿久津謙二教授の令息で、予科、学部を通じ常に首席を占め、十年卒業直後助手に任命され、吉田良三教授の後継者として嘱望されたが、十三年十二月二十六才で夭折された。この本は著者が助手三年間の研究結晶の主たるものとして、教授会に提出した論文を、吉田教授が故人の遺稿中から選定して出版された貴重なものである。わが卒論はこれにヒントを得て、日本と欧米の諸学者の見解を取捨選択して、早急にまとめ上げたもので、装丁を吉田貞雄君と同じ業者にやらせ、高瀬先生に同時に提出した次第である。 就職のことについて、寄らば大樹は好まなかったので、十六年の夏頃に高瀬先生に話したら、富士通信機?と日本碍子の二つをあげられた。東京に永年住みあきたので後者をお願いした。本社は名古屋で、東京には六時間位で帰れるし、縁もゆかりもなく、先輩もいない電気関連の会社だったからである。先生は学長になられるとすぐに、上田前学長発想の東亜経済研究所(現一橋大学研究所)の大拡張と、その財政的支柱となる東京商大奨学財団(現一橋大学後援会)を創設され、その基金集めに奔走された。そのために名古屋駅近くの日本陶器(現ノリタケ、カンパニー)の学友に会われた際に、同社の碍子部門が独立した日本碍子(現在世界一ガイシ会社)で一橋から人材を望んでいることを耳にされ、帰京された直後に推薦入社と決まった。当時は東大、蔵前、名古屋高商、慶大、早大等の出身者が多かった。爾来、後輩が二十人位入っているが、現在の社長は二十六年卒上田ゼミである。先生は学長になられたとき、白票事件直後でもあり、教授会で派閥をなくせといわれたそうだが、私も後輩に学閥をつくるなといってきたので、今でも日碍如水会はないと思う。 因みにガイシは電線、鉄塔と三位一体の絶縁体で、電灯、電力に不可欠な部品であり、九電力会社、重電機メーカー等で採用されているのに、一般生活者がその有難さをご存知ないのは残念だ。碍子は、硝子とよく間違えられる。念のため。 軍隊生活について掻い摘まんでふれよう。徴兵延期をしていたが、真珠湾奇襲の前日、滝野川区役所(本籍地が秋田県だったが)で検査を受け、第一乙種現役となり、翌年二月一日不安と深い積雪にしびれながら、弘前師団輜重兵連隊に入隊した。乗馬隊と自動車隊とがあり前者だったが、後者より一時間早い起床で、初めて馬を取り扱うことで往生した。一ヶ月位たった時、支給された古長靴の融雪洩れで両足の小指が凍傷となり、演習の代りに被服の使役をやっていたら、経理部幹部候補生の通知を受け、ほっとした。教育のため弘前歩兵連隊にびっこをひき乍ら移り、九月経理学校に入校、酒井嚢君と同室で寝食を共にできて心強かった。十八年一月末教育修了、札幌の北部軍司令部で一ヶ月教育を受け、最後に経理部長八代主計少将の面接となった。図々しくも「私は日立鉱山の生まれで、小学校から大学まで東京の生活を送ったので厳寒に弱い」と申したら、凍傷のことを知ってか、電気関連会社に籍があるということからか、北部軍管区で一番南の青森市外の軍司令官直轄電信連隊(有名な八甲田山雪の行軍部隊の跡)に配属された。もし北方に廻されたら、戦死か、今問題のソ連収容所行きだったと思うとぞっとする。最初の部隊長とはアッツ、キスカ両島敗退当時で、現地自活のことなどで意見があったが、後任の通信学校教官から来た部隊長とは反りが合わず、,二十年四月国土防衛の新設電信連隊に廻された。宮城県鳴子温泉の近くで、伊達正宗が青葉城より前に作った岩出山城跡の国民学校に、本部と主中隊を置き、盛岡工兵連隊内と福島駅より西二つ目の庭坂の寺院に夫々一個中隊を展開した部隊で、東部軍司令官直轄であった。岩出山は仙台より約四十キロだったので、仙台市戦災の際、テントを張って通信網復活に貢献した。又敵のグラマン機の照射もたびたび浴びた。ところで、軍司令官直轄部隊は、青森のときは弘前師団経理部、岩出山では仙台師団経理部より、糧秣その他を一切継子扱いで支給されたので大変苦労した。偶然、新設部隊の高級主計が二年先輩吹田ゼミの高橋恒雄主計中尉で、温厚篤実、学究肌だったので、大いに恵まれた。九月に一足お先に復員したが、現在藤沢市に居住。昨年電話をかけたら健在で懐かしかった。 青森で見習士官のときに酒が体質的に強いことを覚え、その後一升酒も屡々であった。酒の上での失敗談は枚挙に遑がないが一つだけしるす。青森当時、料理屋は既に休業状態で、時々酒と魚を持ち込めば、女将は喜んで相手をしてくれたので、部下をつれて行った。又青森憲兵分隊長早大卒大尉も気心があってともに痛飲した。ところが冬の深夜、自転車で下宿に帰ると、指揮刀の刀身がなかった。ハンドルに刀の先をのせて乗っていたが、鞘の鯉口が甘かったためにぬけ落ちたのであろう。早速通り道を逆戻りしたが、降雪で見付からなかった。それ以来指揮刀は既に偕行社でも容易に手に入らなかったので、軍刀を腰に吊って復員まで押し通した。戦地なら当たり前だが、内地では兵科の将校でも平素は指揮刀であった。 終戦後のことを一つだけ。太田哲三先生とのお付き合い。二十五年頃から公認会計士を誰にお願いするかの問題が発生した。同年十二月の或る朝、新聞に目を通すと、先生が名古屋高商に約二週間特別講義に来名されると載っていた。先生には減価計算の科目を受講しただけで、一面識もなかったが、数日たって学校の事務所でお会いでき、変哲もなく即座にお引き受け頂き、亡くなられた四十五年まで御指導を賜った。先生は長浜ゴムの社長をしておられたので、その途次名古屋に寄られるのが楽しみの様子だった。日本中を廻られる機会も多く、博覧強記で、各地の民謡、小唄、長唄、浄瑠璃等もお好きで、お泊りの旅館で、私は前座をつとめ、後は酒に手がいったが、先生は上司や女将ら相手に沢山披露された。又色紙を書く特技をお持ちで、左の二句を即興で書いて頂いた。大切に保存してある。 都鳥上手になって年が明け 拙文が意外に長くなったが、四方山話、否、ごたまぜメ.ニューで味が悪かったことと推察し、この辺で端折ることとする。 追 記 平成元年二月末、私は古希で思わざる急性化膿性腹膜炎の手遅れ手術を受け、幸い医療の進歩で死線を超え、、更に脱肛手術、又肝臓血管腫が最新の磁気共鳴断層写真、超音波写真等で発見され、取手市の病院と、千葉大学付属病院に長期入院した。現在も外来で、後遺症特に神経性消化器症候群や頻尿による不眠症等の診察、検査、投薬を受けており、何より好きな酒類を二年有余、全くやめている。又体重も約十キロ落ち、ほほもこけた。やるせない生活だが、再度入院したくない心状で、うつろな言動も出ることがある。手前味噌、もしくは碁でいう勝手読みかも知れぬが、遠出を避け、さわやかな余生を求めて静養している今日この頃である。 日碍勤務の頃、特に所得倍増、輸出振興時代に、金井幹事長ほか多くの方々に、何らかの御協力を得たことを割愛せざるをえなかった。多謝。 注 |