7組 斎藤 一夫 |
昨一九九〇年八月の「湾岸危機」以来、とりわけ今年一月にこれが「湾岸戦争」という本物の戦争に発展して以来、戦争関係の生々しい、いたましいニュースや映像が連日、連夜報道されてきた。二月にはいって停戦が実現したのでほっと出来るかと思ったら、今度は報道の中味が内戦や難民問題に変っただけで、いたましさはむしろ増幅されてきた。ことに北部のクルド人難民の映像は直視に耐えないものがある。これらの報道を私は、ほぼ十年前のこの国でのきわめて短期間の見聞と重ね合わせながら、感慨深く、しかし暗い悲しい気持で追い続けてきた。現在もそうしている。そこで、古い話で恐縮ではあるが、この十年前の私なりの見聞と印象を書き留めておくことにした。 私がイラクの調査に出掛けたのは一九八一年の九月下旬から十月中旬までの足掛け三週間という短い期間であった。イラン・イラク戦争は八○年九月に勃発しているので、開戦後丁度一年を経過した時点であった。派遣機関は財団法人国際開発センター、委託されたテーマは、豊富な石油収入を利用してこの国が進めている大規模な農業開発事業、特にいわゆる「レクラメーション計画」(大規模灌漉・排水工事による土地再生計画)の実態をとらえることであった。調査団の構成は小生のほか北大出身のやや冒険家気質の若い開発センター研究員一人という身軽なものであった。 私は職業がらこれまでに多くの海外での現地調査を手がけてきたが、その中でこのイラク調査は最悪の経験であったといってよい。そもそも入国、滞在、出国が大変なエネルギーを必要とする大仕事である。(イラン・イラク戦争二年目にしてこの状態であったから、「湾岸危機」以後はまさに想像を絶するものであったろうと思われる)。しかも、ようやく確保した二流ホテルのアコモデーションはこれまでに経験した最低に近い。政府の委託研究で、公用旅券で入国し、日本大使館のバック・アップがあったにもかかわらず、政府関係のアポイントは容易なことで取れない。サダム・フセイン政権が成立した一九七九年以後の統計は一切公表されておらず、漸くアポイントを取って面接した政府関係者は大きいとか小さいとか言うだけで、断片的数字すら教えてくれない。開発の現場は一カ所しか案内してもらえなかった。さすがにバグダッド大学の先生がたは暖かく迎えてくれたが、この先生がたは具体的数字はおさえていなかった。 さて、アポイントが思うように取れないまま、短い調査期間にもかかわらず時間をもてあます日が多かったので、チグリス河畔をぶらついたり、大橋のたもと(この橋も今次の爆撃で破壊された)のアラブ街の迷路にはまり込んでひどく甘いアラブ茶をすすってみたり、アリババ広場のおみやげ屋をひやかしたりしたほか、遺跡めぐりと地方視察を兼ねて、現地側の案内も許可もないまま近郊への二回の日帰り旅行、北部への一泊二日の小旅行を試みた。足には街で拾ったタクシーを使った。カタコトの英語の話せる運転手を見つけての交渉である。こういうことになると、同行のT君は有能だった。当時戦線はイラン領内で膠着状態だったので、南部のバスラ地区を除いては行動はそれほど制限されていなかった。ただし、今回のクルド人反乱で有名になったキルクーク、アルビルなどクルディスタン地方を通過する際は何回か検問に会ったが、運転手が警察関係者を知っていて無事通過することが出来た。あとから知ったことだが、クルディスタン方面への旅は一種の冒険旅行であったようである。 南で訪ねた遺跡は新バビロニアの都バビロン、シュメールの都キッシュ、ササン朝の冬の都クテシフォンなど、しばしば車窓から豊かな灌漑農業地帯を眺めることが出来た。 北部への旅はモースルを目的地とするものであった。往路は山寄りのコースで、メソポタミア平原を離れてからはキルクークの油田地帯を抜け、ソ連式の広大な小麦の国営農場に代表される乾燥農業地帯を縦断し、アルビルのような古代から生き続けてきたクルド人の都市の街角でマーケットをひやかしたりの行程であった。帰路はチグリスの本流に沿ったコースで、アッシリアの都ニネベの遺跡、パルチア時代の隊商都市ハトラの遺跡、アッパース朝時代の一時の旧都サマラの有名な螺旋塔などを訪ねた。 南北いずれにせよ、バグダッドを離れると黄褐色の大平原が広がる。かつてメソポタミア平原は鏡のように平だという表現に接したことがあるが、なるほど見はるかす限り水平な黄色い鏡の面である。ときたま小さな丘が現れる。古代都市の遺跡、テルである。川のほとりや灌漑水路に沿って、ナツメヤシに囲まれた部落の緑が点在する。緑といっても砂ぼこりをかぶった白っぽい緑で、決してきれいなものではない。 アラブ人は日本人にとって一番付き合いにくい相手だとよくいわれる。私の短い旅行でもそのような印象を受けた。しかし当然のことながら、好感のもてる、よい印象を残した人々にもめぐり合った。政府の局長クラスの人々の中には堂々として信頼のおける人が何人かいた。バグダッド大学の先生や女性秘書のかたがたは親切で鄭重な扱いをしてくれた。土地改良試験場の有能で若い技師のきびきびした案内と説明もさわやかな印象を残した。モースルまでの小旅行に同行したタクシー運転手の親切な案内と世話も忘れ難い。帰路、緑濃い旧都サマラの例の螺旋塔の麓の公園では、バグダッドの中流家庭の老若数人の女性の一行と一緒になったが、なかなか魅力的なご婦人がたであった。芝生の円座に加わってイラク風の甘い茶菓の振舞いにあずかった。これらの人々は湾岸戦争でどのような運命を辿ったのであろうか。同じように、モースルヘの往路アルビルの街角で接したクルド人の男女や子供たちの運命も気がかりである。アーリアン系のこの人々は身なりは貧しいが、色は白く目鼻立ちは整っている。 メソポタミアの自然は湿潤な東アジアに住むわれわれの想像を超えた厳しさのようである。周年の乾燥と長い夏の耐え難い酷暑とは世界に知れわたっている。真夏の気温は四十度を超え、五十度に達することもあるという。短い冬は意外と寒い。ことに北部の山間部がそうであるという。年に二度季節の替り目にシャルギーという猛烈な砂あらしが吹く。チグリス、ユーフラテス両河が古代からの、この地の人々の命の綱であるが、これがノアの方舟以来、しばしば暴れて生活をおびやかすのである。 メソポタミアはいうまでもなく「ここに歴史はじまる」(三笠宮)の地である。このような厳しいところにどうして世界最古の文明が栄えたのであろうか、という素朴な疑問がまず浮ぶ。周知のように、世界最古の農耕文化はジャルモなど冬期に比較的雨量のあるチグリス上流に紀元前五千年ごろ現れるが、文字をもった本格的文明の最古のものは紀元前三千年ごろからの南メソポタミアのシュメール文明である。 まず気候が変化した、すなわち遠い古代のこの地の気候は今よりずっとよかったから文明が発達したという説がある。大氷河時代の終りは今から一万年ほど前といわれているので、かなり有力な理由を言い当てているように思える。また、乾燥地帯は病菌や害虫が少くて衛生環境がよく、猛獣や他部族の来襲を防ぐにも便利であったこと、森林地帯よりも自然克服が容易であったこと、なども理由として指摘されている。このようなさまざまな理由から、この地に世界最古の文明が栄えたのであるが、気候や自然環境の変化に関しては、有史以来の人間の生活・生産活動も有力な原因の一つと考えなければならない。すなわち有史以来の環境破壊である。環境破壊としては奥地での森林乱伐、草原地帯での過剰放牧もあるが、何といっても最大のものは灌漑の継続による土の汚染、地力破壊である。 乾燥地帯において灌漑を長年続けていると水分が地下に浸透して地下水位が上がってくる。水位が一定程度以上に高まると植物の枯死した根と接触して毛細管現象が生じ、塩類を含んだ水分が地表に達して蒸発する。この際塩類だけが地表に残されて堆積し、塩害を惹き起すのである。バグダッドから南下すると、塩害が進行して放棄された荒地にしばしば出合う。草木のない地表に白い塩類の層が露出したすさまじい光景である。 メソポタミブの長い歴史を振り返ると、シュメール時代以来王朝と王都の交替を重ねてきたが、王都は初期にはエリドゥ、キッシュ、ウルク、ウルなどもっぱら南部の中で移動し、のちにはアッシュール、ニネベなどはるか北部に及び、さらに中世以降はバグダッドなど中部に移動して今日に至っている。このような王都の移動を伴った王朝の交替は塩害の進行による土地生産力の低下と大いに関係しているらしい。古い開発地はつぎつぎと不毛化して放棄されてゆき、そこを根拠地とする王朝もつぎつぎと亡び去ったのであろう。こうして環境破壊は全土にわたって進行したようである。 塩害に侵されて不毛となった土地を再生する方法は、まず縦横に深い排水溝を掘って地下水を流し出してその水位を下げることである。そして次には、区画(圃場)ごとに地下に土管を埋めて暗渠を造り、この区画に水を張って塩分を洗い流し、塩分を含んだ汚水を暗渠を通じて排水溝に放出することである。排水溝に放出された地下水や汚水はチグリス、ユーフラテスの本流には戻さず、排水専用の水路を通じて下流の沼沢地に流し込む。 現在イラクが進めている「レクラメーション計画」はこのようなことであるが、計画が進捗するにつれて排水処理に困ってくるので、チグリス、ユーフラテス両河の中間を流れる排水専用の大水路「第三の河」を建設し、下流でサイフォンにょってユーフラテスを横断して直接ペルシャ湾に注ぐという雄大な計画が作られ、十年前にすでに一部が着工されていた。しかしその後イラン・イラク戦争の長期化によって進捗がはばまれ、今次の湾岸戦争によって夢と化したのではないかと思われる。 同じ中東にあって、同じく古代以来大河からの導水に頼って灌漑農業を続けてきたエジプトでは塩害がなく、高い土地生産性を誇っている。これは耕地当り水量が豊富で、湛水灌漑が行われてきたためといわれる。すなわち、畑地の場合にも水田と同じように作期の初めに圃場いっぱいに水を張って土中の塩分を洗い流してから、通常の灌漑栽培を始める。 惜しくも若くして故人になられたイラク研究者糸賀昌昭氏は好著『メソポタミアの土』(アジア経済研究所「アジアを見る眼」六五、一九六七年刊)を残された。魅力的な標題なのであやからせていただいた。 |