7組  佐治 正三

 

 昭和天皇が重い病気にかかられて、日本国民が何とも言えない重苦しい心配で陛下のお苦しみを案じて居たとき、イギリスでは、これと反対に、ヒロヒト天皇はもっと苦しむべきだ、そう簡単にこの世から脱出することなく戦争中のその責任に照らして、然るべき苦痛を味わって世界に別れを告げねばならない、と全く非道な声が沸き起ったという。

 平成二月八日、私はロンドンを訪れ、そこで長く勤務している友人から、当時の在留邦人の困惑が大変なものであったと聞いた。出発前に日本の新聞にもそれらしき記事が出た事をかすかに覚えていたものの、それが少数のイエロウ・ぺーパーの無責任で煽情的な取り上げ方ではなく、いつもは厳正、公平を謳い文句にしている一流新聞にも共通の風潮であったようで日本大使館でも打つ手が全くなかったようであったとのことだ。我々は戦後シベリアに抑留された日本人にたいするソ連のひどさを忘れないが、イギリス人に言わせると、ビルマ鉄道建設時の死亡率の高さはシベリアより遙かに高く、生活習慣の相違もあって、日本人は人間の顔をしたけだものと多くの捕虜が思い込んだとは良く聞く話である。

 日本に比べ、ナチス残虐で非難されたドイツは戦後四十周年に、当時の大統領ワイゼッカーが連邦議会で演説し、戦争中にドイツの行なった非人道的行為は全ドイツ人の責任であって、あれはナチスのやった事として逃げる訳にはゆかないと、全面的に過去の罪責を反省した事によって世界各国に深い感動を呼んだ事は知る人ぞ知るで、日本の政治家にこれを求むべくもない。イギリスとドイツの関係は在郷軍人の間でも友好的なのは、このワイゼッカー演説によるところ大と言う人が多い。イギリス人が、強い反日感情を消すことが出来ずにいる原因の一つに、第二次大戦の際多数の軍人捕虜が、タイとビルマ国境の鉄道建設で残酷な扱いを受けた事が挙げられる。ドイツと違って日本は国を代表して謝罪した事一92がなかったと言うのだ。私自身はビルマ戦中、主として北ビルマで輸送隊任務についていたから鉄道建設捕虜虐待の嫌疑は無かった。

 この問題を、何とか少しでも改善したいとの強い意欲を持つロンドン在住のH氏は、英国在郷軍人会に働きかけ、日本にたいする偏見を見直して貰う為一部の人でもよいから日本を訪問させ、現実の姿を見せるにしくはないと考え、熱心な説得のすえ、例の笹川財団の援助を取付け、二回、二年にわたり二十数名の英国ビルマ参戦在郷軍人を日本に呼んで良い反響をよびつつある。H氏によれば、日本訪問前の彼らの心構えは大変固く、典型的ジョンブル魂で、五十年前の事でも忘れられない事は忘れられない、昨日の敵は今日の友というような心情からは遙かに遠いものであったよし。それが日本到着後の各地戦友会の熱烈歓迎によって、次第に軟化し、帰国後の感想文を読んでみると、戦時中あれ程残虐だった日本人は何処にいってしまったのか、到る所で受けた暖かい歓迎を振り返って、いつまでも過去の亡霊にとらわれていたのでは……と書いている。積極的に感想文を寄越す人はそうであっても、それが多数を代弁しているとは断じがたいが、こちらが呼んだ事に応じて、日本から英国に来て貰って相互理解を計ろうとの意見が先方からだされたのは、この努力が少しは効果を生みつつある証拠であろうか。(尤も日本は彼らの旅行費用を負担しているが先方イギリスは来るなら自前での建前)。私が昨年家内と一緒にイギリスを訪問したきっかけはこの問題に関わりがある。日本の日英協会のグループに入れてもらって主にスコットランドを回った。その途中二軒の家庭訪問がアレンジされ、三人の旧敵国軍人と会う事が出来た。彼らの対応は全く愉快であった。アメリカ人と違ってイギリス人は、人を自宅に呼ぶには時間をかけて人物を観察、よしとなってからが原則と聞いていたが、今回はさすが趣旨をわきまえて、二軒とも暖かい家庭の雰囲気で奥さんの手料理で歓待してくれた。戦争中の話も極く自然に昔話となっていた。彼らの得意とするユーモアも嫌味な皮肉とは無縁であった。

 泰緬鉄道建設にまつわる捕虜虐待の話はあまりにも有名で、私自身も日本軍の粗末な食事すらを下回ったであろう捕虜用の補給が人間以下的と思われても仕方ない、日本軍得意の突貫工事の強制もあっただろうし英軍の非難もやむをえないなと思いこんでいた。処がである。私が帰国した年の秋、第二回目の訪日在郷軍人の歓迎パーティで、全く逆にその当時の捕虜だったアラン・エリオット大尉から日本軍人亀山中尉の人間的指導によって、自分達のグループ全員が元気に帰国出来た御礼を是非直接会って話したいという場面にでくわしたのである。既に手紙のやり取りで連絡は付いていたものの、エリオットさんは二回目の日本訪問で漸く念願の対面が叶ったのだ。亀山さんは英語に弱いからと私に通訳を頼まれたのでこのことを知った訳だが、正直驚いた。エリオットさんは現在英国ユネスコ友の会事務局長で、一回目の訪日も自分で亀山さん探しの目的だったのに果たせなかっただけに、今回は本当に嬉しいとの事であった。この例でも分かるように、思いこんでしまうとそれが当然、情報の裏側にどんな事実が隠されているか分からなくなる。勿論エリオット、亀山両氏のケースは、当時としては例外的な美談だと思われる。それにしても、あの厳しい戦局のさなかに、日本人として立派な勇気を発揮されたものと感心した。この美談が英国側の冷たい心を暖める温風となるよう祈りたい。

 大東亜共栄圏の概念がアジア諸国にとって何であったかを問う趣旨の本が幾つかある。
 イギリスを主犯とした植民地搾取からアジア諸国を開放し……という聖戦の看板は見かけ倒しだったと反省することはあっても、イギリスが、印度で、中国でやった冷酷無残なやり口に比べれば、日本の罪は軽いというのが我々世代の希望的免罪符であろう。だが、韓国はじめフィリピン、台湾、タイ、ベトナムでの受け取り方は、日本時代の苦しさを忘れない声が歴史となっているという。私のいたビルマでは、少なくともイギリスを追っぱらった功績だけは認められると戦友達は自認しているが、ビルマ史の高等学校教師用資料によると、日本はファシスト国家と規定され、独立の約束を破り憲兵隊的抑圧に終始した、アウンサンら独立の志士は、武器欲しさでやむなく日本に利用されつつ日本を利用したが、その本質を見抜いて、遅かれ早かれこれと対決打倒する事としていたという。この四月私は独立自動車百二大隊の戦友と同行して戦死した戦友慰霊の旅から帰ったばかりだが、現地の人たちの歓迎ぶりは又これと全く反対、暖かいの一語につきる。丁度今年の四月十三、四、五、六日はミャンマーの年末、水掛け祭りの時期にあたった。水を掛けられる側掛ける側、いずれも明日から始まる新年の幸福を呼ぶためとの事だがその激しさには参った。子供の水鉄砲や小さなバケツは良いとしても、ポンプ、特に消防ポンプを持ち出すのだからたまらない。何処に出掛けてもズブ濡れにされる。自動車の窓をしめきって逃げだすしかない。このエネルギーが、選挙に負けて尚政権を譲らない軍部に対する反感の奔流と見るのは見当違いのようで、市民はお祭り好きなのはいずこも同じと言うことらしい。
 以上、甚だまとまりのない事を書き連ね、文集寄稿の責任を果たします。

 猶、文中H氏とは、丸紅ロンドンに永年勤務されて退職、現在ご家族揃って英国に永住を決意され、日英関係改善に務めておられる平久保正雄氏で、主計中尉として参戦。我々と同年配神戸商大卒の活力に満ちたお方である。色々とお世話頂き感謝にたえない。亀山さんは、烈兵団歩兵五十八連隊にあって、一九四三年、泰国バンボンで輸送隊業務でエリオットさんと出会ったよし。温厚な紳士でこの逸話にふさわしい仁。