5組 酒井 襄 |
(一) 今度又、中東の地域で数日ではあったが、砲弾、爆撃の音が、砂漠の中、都市の上にとどろいていた。そして片方の死者は僅かであったが、他方側は、軍民共に含めてその死者の数は明らかではないし、又新たに現地で革命的な挙動が毎日続けられており、現時点でもそれ等の死者等の数も合せれば、一層多数になるのではなかろうか。この地球の上に、生きとし生けるものが姿をあらわしてから、何億年か、何千万年か、何百万年か、絶ゆることなくつづけられてきた闘争なのであろうか。そして我々も、数多くの国民の犠牲と共に経験した、あの残酷で惨めな戦中、戦後がこの地球の上でやはり今も続いており、又これからも継がれつづけてゆくのであろうか。 これは人間の世界だけではないのではなかろうか。所謂生きとし生ける、あらゆる動物、植物にもその形は兎も角、闘争が絶えず続けられていることは、我々も幼い頃から、時には話に聞き、時には文字に読み、又目で経験してきた。小さな虫が数多く集まり、群闘していたのを子供の頃見たことがある。当時はまだ田に囲まれた東京の西端であった、杉並の田圃のあぜ道の草の中であった。虫の名前は覚えていないが、一糎にも足りない緑色と薄黒色の虫の群が、何十匹も群れて入り乱れていた。一緒にいた農家の子供が、虫のけんかだ、と説明してくれた。私はそれを一度見ただけで以後は見ることがなかったが、今思えばやはり虫の生存闘争であったのであろうか。 又雑草も毎年温暖になれば、田圃のあぜ道に生い茂るようになるが、日々の経つうちにそれ等の草の上に蔽いかぶさり、それより大きな葉をもった別の草が、その上に大きな花を咲かせる等、前に生えていた小さな雑草のかげがうすくなっていったのが、思い出される。 まして大きな動物、又水中での大きな魚類等でもその通りで、殊に肉食獣にあっては文字通り、その日々の生ある限りの闘争、弱肉強食の生き方といえる。これ等生あるものの悲しい運命は、永劫に続くのであろうか。 (二) 朝日新聞の九一年一月十八日付で、「戦争、愚かな歴史」の見出しの下に、西暦二千年弱の間に、八十七の他民族間、又は国際間の戦闘争の名前が載せられている。勿論国内に於ける民族間、又権力間等の内乱闘争はのせられていない。即ち歴史の蔭にあった権力間、氏族間等の争いは、大小にかかわらず無数にあったものと推測される。 我が国内に於ける場合でも、戦国時代や、例えば平家物語、太平記、その他にも見られるように、何万頭の馬、何万人の人間を使用して、闘争が何年も続けられ、その他、関ヶ原、幕末の戦争等、百年少々前まで断続的に繰り返されてきたことは、歴史にも明らかである。まして五十年程前まで他民族との闘争を繰り返し、はじめてその愚かさを、身にしみて、今はその様な闘争のない平和な生活を味わいつつあるが、いつまでも、いつまでも、この今の形で過ごして行けるのだろうか。他方では又この地球の上で全く予想し得ない様な、大きな天災、地変も起こるかも知れない。何れにしても人為的なことや、自然の変動によることで、地球上の人口に影響のあることは否定出来まい。 (三) 我々がまだ小さかった六十年程前には、世界の人口は二十億と聞いた。現在は五十億といわれる。その中で最も人口が多いといわれる中国の人口が、昭和の始め頃の「少年倶楽部」付録のカルタの文で想い出される。「支那は大国、人口四億」とあった。そして今の人口は十億と聞いた。この二つの数字から、世界の人口、又中国の人口、何れもほぼ四分の三世紀弱の間に、それぞれ二・五倍の増加率である。これによって、仮にほぼ七十年毎に二・五倍の増加率として、世界の人口を試算すれば、概略次のようになる。 二〇七〇年頃-一二五億人、二一四〇年頃-三一〇億人、二二一〇年頃-七七五億人、二二八○年頃-一、九三五億人、二二五〇年頃-四、八二五億人(約五、○○○億人) 地球上に人間の居住できる人口の限度は、何億人か私には全くわからないが、何れにしても、若しこの様な形で推移するとすれば、何世紀か後には必ず限界に達するであろう。勿論反面には、現在色々と報道されている我国に於ける人口増加率の低下も、或いは近い将来他の民族にも広がるかも知れない、又或いは逆現象が起きるかも知れないが、それ等に対して、意識的に更に出生率の低下、又その他の制禦的なブレーキが自然にとられるかも知れない。又例えば現在問題となっている大気汚染等に対する対策は、或いは将来技術的に又実際に可能になるかも知れないが、然しこれ等の対策が万能でない限りは、生物が生存し得る限界が現在のものより一層厳しいものとなると云い得よう。然し半面、これ等について云えば、人間自身の力、努力によって、これは解決できる問題である。少なくとも半世紀前頃には、人為の原因による大気汚染等という問題は耳にすることがなかった。これ等の事実によって幾分かはその速度を押えることにはなるであろうが、このままの増加率であるとすれば、地球上の人口は約三五〇年も経てば、現在人口の百倍、約五千億人にもなるという計算である。一応計算そのものは正確であっても、事実の実現性については何とも予測はできないが……。 例えば地球上において人間が生存し得る限界は、当然のことながら、先ず食糧の限界に依存するものであるが、他面食糧以外の自然的な、そして我々の現在の生活から切りはなすことができない、例えば地下資源等で考えれば、石炭や石油等の鉱物資源はとも角、金属類等の鉱物資源は、地球の創生の時にその一部の要素のように生じたものであり、それ等が一度枯渇すれば再び地球上に再生することはあるまい。但し金属類等はその再加工による再利用は可能の面があるとはいえるが、反面石油では既に海底油田の名の下に海底下のものが掘り出されつつあるが、他の鉱産物についても、或いは地下埋蔵物資が、太平洋、大西洋、印度洋等の大海の深海底下からもその存在が確かめられれば、掘り出されるようになるかも知れない。然しそれでも現在以上に更に浪費の如く消費されれば、何れは枯渇するときがくる筈である。有限な地球の限界はどれ程であろうか。そしてそれは何時のことであろうか。まだ私はこのことについては、一度も聞いたこともないし、読んだこともない。従っていつのことかわからない。 然し反面には、それ等の枯渇した資源の中での人間の生活は、如何に知的水準が高くても、他の動物には比較できない高い生活を維持することができるであろうか。四つ脚も二本脚も皆同じような生活が強いられ、相互に生活、食物のための殺戮が続くようになるのではなかろうか。それは何時頃のことであろう。現代とは比較し得ない程の人類の知能の進歩があったとしても、その対象となる物がなければやはり無に等しかろう。反面、我等が廃棄した種々の物資が、その時代の貴重な生活物資の原材料になるかも知れない。然し何れにしても有限な物資が無くなれば、如何に技術的には万能であっても、無から有を出すことは出来ない。 (四) そして又半面には、食糧の問題がある。生ある人間を含む動物類は、食糧を欠かすことは絶対にできない。然もその食物は、生存のための栄養の基であると同時に、空腹感の補填にもならなければならない。たとえ高度な栄養価を有する錠剤等ができて、人類がその数錠で充分生命は維持し得るとしても、空腹感の解決はどうなるであろうか。やはり人間の場合には、野菜、肉魚類、勿論米、麦等も併せて、直接食糧として維持して行かねばならないであろう。毎年の様に巨大な数字で増殖しようとする人類、又他の動物類、勿論魚類等も含めて、(これは半面人類の食物をも意味する)、自然から得ることのできる食物に頼ることが、絶対に必要なことではなかろうか。やはり「かすみ」だけではだめであろう。それが人類の増大に伴い、現在では未開発の地域も次々と開発し尽され、所謂農地はもう限界に達するときがくるのではなかろうか。それは何時のことであろう。 又一方に於て、動物類が生命の為に絶対に必要な酸素、又生活の為の火に欠かし得ない酸素等の供給元である自然の植物は、やはり地球の上から消滅させることはできない。又前記の様に、大気汚染といわれていることの原因となっている、種々の科学物質等の使用は、一面には人間の日常生活で大いに快楽を増大してはおるだろうが、その反面に現在でも前記の大気汚染の進行拡大の中で、何百億かの人類、又他の動物類もこの地球の上で生存し続けることができるだろうか。或いは、化学、技術等の異常な発達等により、人工的にそれ等の気体の必要な量が、製造補給されるようになるだろうか。 (五) この様な環境条件の中で、人類又他の生存動物は生き続けるために、どの様に何をするであろうか。今世界で人類が心の奥で思っている平和への願いは、そのときでもやはり生きているであろうか。その生存のための方法、手段は、今想像し得ない程高度に発展するであろうが、結局自然の中にある偉大な法則から脱却することはできない筈である。現在人類の最高の発明かも知れない原子力の利用方法も、自然の中にある自然の法則の発見により、それに従ったその利用方法でしかない。この様なことは総ての生物の生活にも当てはまるであろうが、人間以外の動物は皆、白然そのもの、そのままのものに、夫々の生命を直接依存しているが、人間はそれを自分達の生命や、生活に合わせて、加工し組み替える力をもっている。従って今後も、現在に於ては予想もし得ないような物(発明、発見)が次々と出てくるかも知れない。唯大自然の中にある法則を発見して、人類のために利用するようにするのが発明ということになるのであろうが、如何にこの様に技術が進んだとしても、生ある人間も他の動物をも含めて、結局毎日の食物、飲物はどのような形であれ、質であれ、欠かすことは出来ない。従って有限なこの地球の上では、有限な数の生物しか生存し得ない筈である。そしてその限界は……? (六) 地域的には格差は大きなものがあろうが、この有限な地球上の環境の中で、一方で人類が無限に増殖しようとすれば、当然夫々の間で闘争が起るであろう。それは前記の様に、個人間の場合もあり、又部落間、地域間、同一民族間、或いは異民族間、異人種、異国家間に生ある限りの人間同士の間に、文字通りの生存闘争が激しく繰り返されるようなことになるであろう。そしてお互いに多くの人間が抹殺され、辛うじて地球上に生存する人間の数が、調整されてゆくような時代になるのではなかろうか。その時代の人間の気持は、我々の現代の気持では想像もつかない。勿論他の動物に於ても、仲間同士の闘争は当然としても、人間との闘争も深刻になるであろう。或いはその頃には、人間も他の動物も全く同じような食物を食べ、同じ様な生き方をしなければならなくなっているかも知れない。 又前記の様に、現代でも人類相互に相手を抹消すべく闘争が繰り返されている。今世紀になってからでも、前掲朝日新聞の記事によれば、国家間、民族間で、次の様な闘争が行われた。 @サハラ戦争、A日露戦争、Bバルカン戦争、C第一次世界大戦、Dエチオピア戦争、E日中戦争、F第二次世界大戦、G太平洋戦争、H中東戦争、I朝鮮戦争、Jディエンビンフーの戦、Kベトナム戦争、Lインドパキスタン戦争、Mカンボヂア戦争、Nソ連アフガニスタン侵攻、O中越戦争、Pイラン・イラク戦争、Qフォークランド戦争。 然しこれ等の戦争は何れも、食糧等直接生存の為に行きづまったための文字通りの生存戦争ではないであろう。例えば権力闘争、他民族支配の為のもの等、色々あるにしても、とに角この一世紀の間に国際間又民族間に、これだけの闘争が繰り返されてきた。然も前記の様に、同一民族間等の思想的、権力的、或いは利益闘争的な内乱等は含まれていない。例えば現在の中国となる前の蒋介石軍と中共軍との戦闘の如き、他にも又幾つもあったことと思われるが、これには含まれていない。そしてこれ等の闘争により、どれ程の人々が生を失ったであろうか。然も現在、あの強烈な殺力を持つ原子爆弾或いは水素爆弾等、嘗て世界中で我々民族だけが経験したあのひどい悪魔は、その後一層酷悪になっているものと想像されるが、まだ使用されていない。それでもこれまでに死んだ人々は、直接戦闘要員ばかりでなく、まきぞえをくった多くの市民をも合わせれば、大きな数字になるであろう。而もその多くの人々の中で大きな部分の人々は、人類として最も生殖力のある年代の人々の筈である。 この様に多くの人々が殺戮されても、人口は三分の二世紀程の間に二倍半に増大したわけである。そして今後は、人種、民族間、又国家間に平和が強調されている反面、戦闘、戦争による殺戮は一段と大きなものになって行くのではなかろうか。そして何世紀先のことか予想はできないが、次第に生存の為の食糧相互争奪の闘争に変って行くのではなかろうか。 又一方では、地下埋蔵の天然資源の枯渇も、結局人間の生活に大きな変動をもたらすことは、当然といえる。更にその前に、ある人の意見では、地球の汚濁等が原因となり、二、三世紀後には人類が住めなくなると予想されるということを聞いた。人間が自ら作り出した環境の汚濁化は当然乍ら、或いは又その前に限りない人智の限りない進歩により、解決し得る方法等が見出されるかも知れない。是非そうなるように祈る次第である。 又他方今後の新技術や、その進歩により前記の如く、深海底の地下資源の発見、掘削等も可能になるかも知れない。然しそれ等が若し可能であったとしても、今世紀になってから急激に拡大した天然資源の大量消費が、更に一層拡大するようであれば、結局人間の生存を何世紀かわからぬが、延ばすことはできても、何れは有限な地球の上から消滅しなければならないのであろうか。そしてそれは何時頃のことであろうか。 偉大なる人智の進歩が、この様にプラス、マイナス双方共に大きく左右することになるのであろう。 又それまで人類を中心とした、生きとし生けるものの相互の闘争は、いつまでどの様な形で行われるのであろうか。 地球がこの宇宙に生れてから四十五億年という。そしてその上に、生あるものが生れてから何年であろうか。又それ等が、特に人類がこの地球の上から自ら消え失せるのは……。 (七) アーア、目が覚めた。長い間夢を見て妄想していた。本当に嫌な夢だった。 |