7組 坂本 保 |
少年の頃から文芸的なものへの憧憬があり、特に俳句には関心が深かったので時々作っていたが、太平洋戦争突入後昭和十七年から大阪の銀行の寮に住み、その頃敗戦必至の物資欠乏で希望もない暗い世相の中での寮生活であったので、少人数の同好会を作り日曜毎に奈良、京都界隈を古美術史の書籍等を片手に徘徊するのがささやかな楽しみであった。同人誌は京大俳句の流れで日野草城系の「琥珀」誌(水谷砕壼主宰)に投稿していた。その頃の誌友には現在も盛んに関西で俳誌を主宰している桂信子、伊丹三樹彦という人がいた。 その後私は東京へ転じ戦中戦後の私なりの紆余曲折を経て昭和二十三年以来故郷下関で家業を継ぎ食糧関係の仕事を続け現在に到っているが、仕事や生活に追われて長い間句作を休んで居た。定年退職後、三年前から俳句の世界に舞い戻り地元の俳句同好会「橋の会」(石井康久主宰)の会員となり同人誌「其桃(キトウ)」(中村石秋主宰)に投稿している。今は俳句が日常生活の中で相当のウエイトを占めて来ているので私の俳句への道を書くこととする。大阪時代の若き日の句には、 月光(がっこう)は春日静かにおはしけり (奈良三月堂) というような作品を作っている。 水仙を生けてすらりと立ちにけり という句を昭和二十年の新年に東京新宿柏木で新婚生活の頃に作ったが、後日磯部誠君が覚えていてひょっこり話題にしたので嬉しかった。 春の部 坂本詩朗 下関市の安徳幼帝の御陵がある赤間宮の鳥居下の海峡の潮に短歌や俳句同好会員たちが毎年思い思いの手すさびの紙雛を流す行事は愉しいものである。 朧ろ夜をうつらうつらと妻の縫う 丘の上にひっそりと交通事故慰霊の地蔵尊がそよ風の中に佇っている。 友の訃に春愁の茶の苦きこと 満開の桜は確かに音もなく圧倒的に語りかけてくる。……まして維新の礎となって消えて行った魂たちが眠って居ればなおさらに。 上臈(ろう)の重き簪(かんざし)さ揺らぎぬ 「関の先帝雨が降らねば金が降る」と昔から云われていたが此の年は曇り空ながら通りの人垣は大変なもので賑わった。先帝つまり安徳幼帝と共に沈んだ平家の女官たちのうち生き残った者が遊女に身を落として毎年慰霊のおいらん道中をしたその伝統行事がいまや観光の目玉となって居る。今は市内の日本舞踊社中の若い女性が選ばれて参加している。 郷愁の源平の旗靡(なび)き合う 満珠千珠という二つの無人島が沖合いに霞み音もなく静かな早春の海が拡がっている。やがて爛漫の春が訪れるその前触れのひとときのサイレント版瀬戸内海の風景。 ぼうと鳴る汽笛黄砂の港より 井上靖の「孔子」を読んだ。これは孔子が二千五百年前中国の春秋、戦国の時代に数名の弟子を従えて放浪の旅をした。それを背景として「論語」が生れたが、著者は実地にその跡を何回かに亘る調査旅行をした結果、孔子の生涯と教えを末弟のえんきょう(ヒネショウガという意味)が見たりきいたりしたものを後日、孫弟子達の質問に答えて説く。面白くも何ともない小説だが孔子そうして中国の高遠な風土や思想には圧倒された。 啓蟄や庭の樹々にも目覚めあり 下関の港町でイギリス商社マンのリードと琵琶芸者との間に生れた藤原義江の数奇なる生涯を描いた「漂泊者のアリア」(地元の作家古川薫の直木賞作品)に出てくる関門の風景は春の朧の中で今日も胸に迫るものがある。 夏の部 息子が千葉県の流山市運河に住んでいるが昔の人が開いた運河が今は無用となり学園都市の一角を流れる公園風景を作っている。青々とした麦畑の中を歩くと一望の明るい眺めである。 心臓に若葉の風をほしいまま 三年前の三月突然の心臓発作には参った。救急車で病院に運ばれて処置を受け九死に一生をえた。久し振りに退院後外を歩いたら若葉の風が何と云うおいしさだったことか。生きている幸せを痛感。 なめくじらぽとりと落ちて命あり ひょっこりと落ちてきたなめくじ。じっとして動かぬが生きているのだ。感銘あり。 梅雨しとど語りたき友今は亡く 丁度私が入院している頃、八王子で同病で魚本藤吉郎君が急死した。この次上京したら是非ゆっくり懐旧談などし度いと思っていたのに何と云う皮肉な因縁なのだろうか。秀未亡人に弔慰の電話をしたが大変切なく悲しかった。 初蝉と同じ虚空を歩きけり 中三の孫娘と町の八幡宮の森を歩いていて今年も蝉の季節の到来かと驚いた。同じ世界を自分も歩いているのだなあと新鮮な感じに打たれた。 六月の花嫁ブーケ溢れたり 八月、馬関祭りは年々盛大になってゆき写真コンクール等で沸く。この年は各職場グループのサンバや平家踊りで大賑い。それを遠くから見ていると反って空しく淋しいときがある。 ひっそりと木槿(むくげ)の家の客となる この家の夫人が心臓病で急逝されたときき、その前後の病状をきき度くて訪問した。門の脇には木槿の可憐な白い花が盛りだった静かな午後のひとときをいつ迄も忘れられない。 残夏光頷(うなず)きあへり試歩の人 正倉院「鳥毛立女屏風(六曲)」が三十二年ぶりに展示された。この樹下六美人図の源流は敦煌からと云われている。これは一種の虫干しらしい。(63・11月) 蜩(ひぐらし)も終るときなり夢あさく 夏も終りに近い朝夕一日一日がたまらなく愛おしい。日本の四季の移り変りは何と云う素晴らしいものだろうか。暑い暑いと思っていた毎日がやがて涼しくなり寒くなる風物の移ろいが自分の人生の一歩一歩の廻り舞台だ。夫々が人生という劇のひとりぼっちの主人公だ。朝目覚めたときふとそう思い蝉の声の変化が気にかかりそれを捉え追いかける自分を発見してそれが又面白いのだ。 山路きて海に逢いけり風光る 六月十四日は玉川上水で太宰治が投身自殺した日。白鷺が一羽ひょっこりと近所の濠に現れたので…。 まいまいに自分の今を見ておりぬ 平成二年の夏は紀子さんブームで湧いた。鹿児島旅行のとき老人福祉訪問のシーンで老人に直接手を触れて慰め労わっていた姿は感動的だった。本当の慰め方を弁えた通りいっぺんでない真ごころの籠ったホンモノの皇族の在るべき姿を見た。 夏草をくの字に白き径(みち)海へ 猛暑の夏私達夫婦にとっては夫々原爆の日の強烈な記憶がある。長い間運よく生き伸びてきたと云う思いでその頃の話は禁句にして来たのだが現在に感謝し亡くなった人々のことを追悼する夏である。 蝉時雨兄弟無口なる帰郷 秋の部 澄みわたった秋空の深い青を見つめていると心が吸い込まれてゆくようだ。 客待ちの洋菓子乾く鵙(もず)日和 久し振りに仰ぐ瑠璃光(るりこう)寺(山口市)の五重の塔は心和む懐かしい秋の眺めであった。 陽箭(ひや)溢れ雪舟庭に秋の蝶 山口市の常栄寺の石庭は太平洋と日本海の間に浮かぶ日本国をイメージしている構想雄大な高僧雪舟の傑作である。青年時代山口市の郊外にあるこの裏山に登り寝転んで岩波文庫を読み漁った思い出があり懐旧の念頻りであった。 秋風に白ばっくれて在りにけり 秋風には気持よく吹かれ恍惚としてさまようのがよい。それが一番散策に相応しい歩き方のようだ。 蜻蛉くる母待ち顔の嬰(こ)の睫毛(まつげ) 畑の中でひょっこり起ちあがった人が自画像のゴッホによく似ていた。露しげき朝の田舎道にて。 剃り残しありコスモスに撫でさせる 秋深き林道を歩くと北原白秋のからまつの詩を思い浮かべる。 菊日和大声出して見たくなる ふと久し振りに出てきた若き日を過した港の繁華街に立ち目を凝らすとそこはかとなく懐かしい。あの頃は人々に「心」があって「ゆとり」があった。空は同じ、海も同じなのだが……。荷馬車なんて云うものが通っていた。 水鳥(とり)の羽根くわえて走る北きつね テレビで見た。北極圏は僅か四十日間の一瞬の夏という。子狐への餌の水鳥をくわえて必死で巣へ運ぶ母狐の姿。遠景だから白い羽根が大きく映っているのでハネをくわえて走っているように見えた。トリたちはやがて南へ飛んでゆくのだが弱肉強食の世界が哀れで健気! 飛行雲秋天に記事書き流す 平成の世となり即位の例と大嘗祭と……。 秋桜なぞれば身内透きとおる 近所の老婆の日向ぼっこ。いつも主人に似た感じの狆二匹をちょこちょこ歩かせていたが最近一匹しか居なくなった。一匹は死んだのだろうか? 幸福を拾うつもりの栗拾う 冬の部 老僧はまるで自分の過去を掘り起こして感慨に耽っているような気がするけれど、その姿の中に私も自分を重ね合せて更けゆく秋を味わうのだった。 逝く年のうしろ髪をば掴みたき もう一年経った、今年も逝ってしまうのかと慌てる気持ちだ。時よお前は余りにも足が迅い。誰でもそう叫びたくなるのではないか? くる年に思いがつのる冬至ぶろ 前年の暮れには「平凡を噛みしめている年の暮」という句を作った。平凡と云える年は幸福な年だったのかも知れない。句会では同感の人が多くて高得点をとった句である。この年は病気をして大変な年だったのでこんな句になった。 幼な日の子らを話題に落葉焚く この冬はまだ十二月に一回雪が降っただけだ。暖冬なのか。庭の山茶花に雪が積って白い帽子を被っている姿を愛でていると雲が少し裂けて向うに青空が覗いた。視野がぱっと明るくなって楽しくなった。 どか雪をのせ観音の肩重き 長崎市の福靖寺の子安観音の立像は坂下の町からよく見える。この年は長崎にも大雪が降ったので…。 年かさね労はり合いてなずな粥 七草を全部揃えて食べるワケではないが、菜を入れたお粥はわが家の十八番の健康食だ。新年を寿(ことほ)ぐのはこれがいちばんである。 淑気みつこのひととせを生き抜かむ 寒夜に家路を辿り玄関に帰りつくと軒灯が人の心のようにチラホラと揺れているのが何とも云えないほっとした風情で……。 寒林に省くものなく水路あり 枯木ばかりの寒風のこもる山路でふとささやかな流れを見出したときの小さな驚き。 きさらぎの噴水(ふきあげ)声なく町へ呼ぶ 我々は殆ど大正七年生れの年男だ。(平成二年)閑かな新春を迎えられたのを喜ぶ気持ち。 吹かれつつ行く末見てる沈丁花 井上靖の死(平成三年一月十九日)は惜しかった。「天平の甍」には感激した。中国辺境の地へ何処までも旅は続くのだろう。富士裾野の井上文学館を訪ねたことがあった。素晴らしい平和な景観だった。(近くにビユッフェの美術館あり)。 掌(てのひら)にのる冬月を華と見き 鹿児島県出水市の鶴は今年は九千九百羽殆ど一万羽も飛来している。その鶴も三月末迄にはつぎつぎに北へ、シベリア方面へ飛び立つ……。その姿、そうして居なくなった空白の宙を遥かに思う。 私の俳句への道はまだ緒についた許りの処である。 方丈の大庇(ひさし)より春の蝶 高野素十 私の目指す俳句は花鳥諷詠と有季定形を基調として然も欲深くもなおその上に何がしかの心象風景を盛り込み度いと志向している。今のところ平明で淡々とした境地の作品を作っている。 |