7組  作花 慶一

 

 現在は、東京で起きた事件の情報も、テレビその他の通信手段により瞬時に全国はおろか世界中に伝わってしまうけれど、江戸時代ではどうであったであろうか。江戸から京までの東海道五十三次、百二十四里二十四丁(約四百九十粁)を、早篭や馬でとばした特急便は別として、やはり旅人が歩いた日数が、その本人が見聞した事件の情報が伝わる時間・日数と考えてよいのではなかろうか。

 支那事変が始まる前のことだったから多分昭和十一年の夏休みの事だったと思う。帰省すべく東京駅から乗車した列車の中で同席したのが私と同年輩の人であった。聞けば、京都へ行くという事で東海道本線を語りながら西下した時の事であった。
 その青年の家は代々宮中で雅楽を奏している家柄で、父と兄は宮内省に奉職して居るが、安月給では次男坊の面倒までみてもらえないので、これから京都の親戚を頼って働き口を探しに行くとのことであった。そして、それ以前に汽車賃が無かったので東京から京都まで東海道(国道一号線)を徒歩で無銭旅行をした体験を語ってくれた。

 食物は畑の作物を勝手に盗って飢をいやし、夜は村はづれのお堂で眠って、十五日かかってやっと京都に辿り着いたそうである。最初のうちは富士山が綺麗に見えて気分爽快だったけれど、六日たっても七日たっても富士山につきまとわれて次第に気色が悪くなり、やっと十日目になって富士山が見えなくなってほっとしたという大変珍らしい話だった。

 すると、江戸の噂は約半月後に京の人々の耳に入ったという事になり、元禄十五年十二月十四日の赤穂義士が本所松坂町の吉良邸に討入ったというビッグニュースも、京では除夜の鐘の音と前後して聞えたと思われる。

 夫良雄、長男主税と分れて逼塞して暮して居た妻理玖のもとに討入成功の情報が京より四十余里西方に位置している我が町「但馬豊岡」に届いたのは、それから数日後だったかも知れない。(ものの本によれば、東海道五十三次の旅の平均日数は、十三泊十四日とある)。