1組故里見治男弟  里見 泰男

 

 私が四才位の頃兄は中学一年の時になる。外出からの帰宅途中俄に空が暗くなったと思う間に物凄い雷鳴とバケツをひっくり返したような激しい雷雨に遭った。その恐ろしさに私は兄の背にかじりついて、小田原の花街の路地を一目散に駆けていた光景を今でも鮮やかに覚えています。私が兄の肩にかじりついていたのと、兄が私の尻をきつく抱えていた感触が不思議と忘れられません。

 私の生家は神奈川県小田原の国道筋に『稲妻屋』という屋号で、書籍・教科書・文房具の小売業を少々手広く営んでおります。

 父は非常に厳格且つ理非のはっきりした人であり、母は従順温和で鷹揚な両親でした。
 兄治男は次男、私は四男、八つ違いの兄弟であり家族は親子十人で、ほかに店員お手伝いさんが住込んでおりましたので、二十人に近い大世帯の中で育ちました。昔の商家の生活は単調な繰り返しの日々ながら、何とはない気忙しさとキビキビした緊張感が漂っていたものです。正月・初荷・藪入りと年の初めの行事に始まり、季節や節目の行事が毎年巡って来るのでした。

 一つ屋根の下で兄と起居を共にしたのは私の小学三年迄で、私から見ると我家で兄は大変に偉く尊敬される位置にいつもおかれておりました。しかし兄は商家の生活は好きでなかったのか、大世帯の中でも食事以外の輪には加わらない暮らし方でした。その兄が東商大予科入学後は帰省すると商家の生活は人間が退歩すると言い、休暇中は山岳部・漕艇部の合宿或いは旅行と帰省の機会は少なかったように記憶しています。丁度その頃応援歌でしょうか『長煙遠く棚引きて、入相の鐘暮れて行く、隅田の流れ夕潮に、オールを軽く浮かばせて、秋西風に嘯きし、その豪快の跡形や』と私も覚えさせられたものです。

 父(昭34没)は子供の中で兄に最も期待を寄せており、兄の一挙手一投足にその成長を喜んでおりました。一方私は常に兄を手本にいつもハッパをかけられる始末でした。

 学部二年の時、学徒至誠会による旧日本委任統治領の南洋諸島へ各大学より学生調査団が派遣され、兄がその二名(故泰地喜惣次様)の中に入って南方殖産調査に携った事は、父にとって最高の喜びでした。横浜港送迎は私の中学二年の思い出です。

 昭和十六年偶然にも開戦の日、兄の就職の準備に上京した両親と歌舞伎座での『勧進帳』の観劇は父母兄共に、興奮と感動で忘れ得ぬ一夜であったようです。そして翌一月に就職、二月には応召と慌ただしく軍門へ駆り立てられて行きました。

 二月に甲府の第四十九連隊に入隊し、四月には九段の近衛歩兵第一連隊に移りました。当時私は面会に上京し、古参上司に撲られたとやや顔面只ならず、何という軍隊かと切歯扼腕、さすがに父には報告できず辛い思いをしました。

 五月に前橋陸軍予備士官学校入校、八月に面会に訪れた時には、激しい訓練のためか何とはなく軍人らしい変貌ぶりに加えて些か痩せた姿は何か恐ろしい気を抱かせる程の変り様でした。あれ程山を愛し自然に親しんで青春の気を養ってきた兄が変れば変るこんな人にと。兄との対面はこれが生涯の最後でありました。

 昭和十八年秋、私の中学五年の時でした。ソ満国境警備隊時代に、それ迄も軍務の合間実によく上級校受験の激励の手紙を兄から貰ったものですが、戦局急を告げ文系学生徴兵延期の廃止が決まり、文系を志望していた私は進学についてこれ迄にない文通を兄と交わしたものです。便箋で実に十数枚の長文を何度も送ってくれました。その結果、私は理系に方向転換し今日に至っておりますが、兄の推薦した学校に私が入った事は知らずにレイテにて兄が戦死したことは私にとって大変残念な事と思っております。

 時間は少し遡りますが、私が中学一年の時小田原郊外を流れる酒匂川の堤で、兄はポツリと「何で特権階級のために死に急がなければいけないのだ」と川面をじっと見つめながら独り言のように眩きました。世間は特高警察の目が光り軍国主義、一億国民総決起、戦争へ戦争へと若者達は駆り立てられていた最中でしたから、私は驚天動地兄の悩んでいる姿に、悠久の大義とか武運長久とか言っても逃げられない兄の心境をまざまざと見た思いでした。

 十数枚の便箋にビッシリ書き込まれた内容は、傍線注釈赤ペン補足を付して方向転換止むなし、理系に進学して国家に役立てとは書かれているものの言外に言わんとする意志は、兄弟三人の中既に二人は軍に召されているんだ、お前だけは生きる道を見つけろと絶叫しているような文面(当時検閲厳し)、それが文通の最後でした。今日私が生存しているのも兄の天与の声と感謝しています。

 私の生あるうちに両親の分までもと兄の足跡の地を訪ねるのが私の務めであり、満州孫呉は未訪問ですが、先年パラオ共和国と北マリアナ連邦を訪ねました。昭和六十三年には念願のレイテ・セブ島慰霊団に参加して彼の地を訪れました。爾来兄の戦友やご遺族の方々などのお仲間ができまして、レイテ戦記やいろいろの従軍体験記を送って頂きました。それらを読めば読む程、何と無謀な全く戦とは程遠く弾薬・火器・食糧や情報もない日本軍と、物量にまかせた米軍による海陸空からの攻撃は態々死ぬ為だけに行ったような戦だったのでした。

 昭和二十年一月十三日師団司令部がレイテ島から隣りのセブ島へ転進とかで、レイテに残された者は一括して一月十三日戦死という公報は遺族にとって大変残酷な話です。しかし当時の戦争は勝つか負けるかでこれが当然と受け止めるべきだったのでしょう。慰霊団一行はマニラから空路レイテ島に渡り、翌日はオルモック港(第一師団上陸地)を出発しジープでジャングルの中の島内各地を巡り、兄の戦死地アビアオ(転進の船出航地)を訪れる予定でしたが、十一月というのに前日より激しい台風に見舞われ、三日間オルモックのホテルに缶詰め状態で、遂にアビアオを訪れることはできませんでした。

 戦後これだけ世界の交流が進んでいるのに今頃になって来るとは何事だと、兄の叱咤を私は聞いているような気がしました。兄の短い人生を考え、死ぬ間際に何を想い何と叫んだのかと可哀相な気持で心から兄に詫びると同時に、いたたまれない思いは言葉では表せません。多忙にかこつけそれまで不精をしていた自分が許せませんでした。致し方なくオルモック港の前庭で有志の方々とアビアオの方に向って塔婆・香華を立て、同行の僧職によって読経をして貰い合掌して参りました。此の次には必ずアビアオに参りますと誓うと共に、昔私が背負われた兄よ、今度は私の肩にかじりついてくれ、一緒に父母の眠る小田原へ帰ろうと、涙も声も洞れる程力の限り叫びました。台風一過のオルモック湾の夕日の鮮烈さだけが印象的でした。

 十二月クラブの卒業五十周年記念と同じように平成六年は兄の五十回忌に当り、私はその務めを果さなければなりません。

 今稿を終えるに当り、私はご関係の皆様方に感謝の気持を申し上げなければなりません。
 兄に対し夫々の時代にお世話になった友人・戦友など多くの方々より私は数々のご懇情を戴いております。

 十二月クラブの皆様、小中学校の同期生、前橋陸軍予備士官学校時代の相馬原会、第一師団関係の方々から今も変らず、亡き兄へお寄せ頂くご厚情には、まことに有難く頭の下がる思いでございます。
 本誌上をお借りして皆様方に心から御礼を申し上げ、併せて益々のご清栄をお祈り申し上げます。