3組  佐藤幸市郎

 

 卒業五〇周年記念文集に、何か所懐を投稿せねばならないと考えて、何と云う事なしに、卒業時のアルバムを開いていたら、卒業に際しての感想と云う事で、筆者は、「無喜亦無憂」と寄せ書きしているのを想起した。今にして思えば、若かったわりに、余り素直でない文言だったと、反省させられるが、筆者等の卒業当時の世相からすれば、卒業と云うものに対しても、可成り屈折した感慨があったのかも知れない。と同時に、なまじっか「史心」などを心掛けていた頃で、一喜一憂することなく、アズサッチとして、平静に受けとめるべきだとの、自戒心に因るものでもあった気がする。

 処で、「無喜亦無憂」は、インドの尊者マスラの偈と云われる「心随万境転、転処実能幽、随流認得性、無喜亦無憂」の最後の句であるが、当時誰から教わったものだったかは、失念してしまった。この偈の深遠な意は、筆者の到底理解できるところでないが、変転極り無い万境の在り様を、無心に受けとめ、本質を見失うことないよう、只管努力すれば、自ら、嬉しい時には喜び、悲しい時には嘆くことが出来よう、との意であると勝手に解している。卒業後五〇年、諸々の事象、経験に遭遇して、自分なりに何とか転ずることが出来たので、今日無事を得ているのかも知れぬと、ひそかに慰めている。

 籾て、卒業以来、十二月クラブ、尚友会(予科のクラス会)は申すに及ばず、多くの交友関係に恵まれて、今日に至っているわけだが、特に、一橋での学窓生活を経験した者にとっては、ゼミナール生活が、最も忘じ難い憶い出になっていると思う。筆者は、上原ゼミに属していたが、去昭和五十七年、一橋学園史の編纂関係者から慫慂を受けて「上原ゼミナール第一期生の記録」を取纏めたことがあった。同期生九人の中、既に六人が鬼籍に入っているが、偶々右記録を御覧に入れた一瀬未亡人から「主人の大学生活を知ることのできる、大事な記録として、子供に残してやりたい」「子供達は皆、知らず知らずの中に、仏像を拝見することに興味を持つようになっていますが、つながりを沁々と思いました」とのお便りをいただいた事もあって、他の御遺族の方にも、或いは、役に立つかも知れぬと思ったことと、筆者自身、若き時代の記録として残して置きたい気持から、この文集を借りて、再録させていただく事とした。

 (1) 上原ゼミ入門

 上原先生が、学制上、学部で正式にゼミナールを開かれたのは、昭和十四年で、従って吾々は、上原ゼミの第一期生になった訳である。ゼミナリステンにして貰う為の、テストの如きものはなく、希望者九名全員が認められた。私の場合は、偶々予科でも同じクラスだった一瀬、阿部の両君と三人連れだって、先生のお宅に参上し希望をのべ、入門のおゆるしを得たのだったと、記憶している。その他の諸君も、同じような手続きで認可を得たのだと思うが、荒木君は、御親戚筋の板垣与一先生の御推奨でと聞いたし、又大橋、作花の両君は夫々、教員養成所、専門部時代から、上原先生に私淑していたことからだったようである。

 別記の通り、同期のゼミナリステンは、九名であるが、開講になってみると、二年先輩の増渕竜夫氏、一年先輩の桜庭一郎氏も、先生の御指導を受けられることになり、先生の特別講義、或いは研究発表会などに、随時同席された他、増田四郎先生も時々御出席になり、又御自身の研究発表をなされることもあった。

 (2) 上原ゼミでの御指導

 ゼミの御指導に就いて、先生は、随分と本格的に、且つ厳格に考えて居られたように思う。今日顧みて、まことに忸怩たるものがあるのだが、生徒の吾々の能力とは別に、先生御自身の考え方に基づく史学ゼゼミの在り方を、念頭に置いての御指導だったように思われる。即ち、西洋史学に入るには、先ずラテン語の修得が前提になるとの事で、先生御自身から、ラテン語の手解きを受けた。使用テキストは、昭和五年刀江書院発行、菊池慧一郎講述「独習ラテン語初歩」であった。併せてHeinishen: Lateinisches Worterbuch (Tasch enformat)或いはカッセルの「羅英、英羅辞典」「羅日辞典」をもとめるよう、指導された。更に、ニイーダ・ドイッチエ及び、ミッテルホッホ・ドイッチエを学ぶことの必要も説かれたが、ここまで取組んだ仲間はいなかった。なお、全般的な参考書として

Dr. Karl Ploetz:Auszug aus der Geschite Band 1, 2
F.W. Putzger: Historisher Schul-Atlas

 を、座右に備えるよう、推奨された。

 (3) ゼミに於ける勉強と使用テキスト

 (A) プロゼミの時代(昭和十四年)

 (イ)坂口、小野共訳、ベルンハイム原著「歴史とは何ぞや」(岩波文庫)
(ロ)Theodon Mayer: Deutsche Wirtschaftsgeschite des Mittelalters
(ハ)尚、独逸史の根本史科である"Monument Germaniae Historica"に就いて、上原先生の特別講義が行われた。

 (B) ゼミナールの時代(昭和十五、六年)

(イ)上原先生訳「中性ドイツ史要」(原典はWilly Hoppe: Grundzuge ses deutschen Geschen Geschite in M.A)
(ロ)Gustav Schnurer: Die Anfange der abendlandis-chen Volkergemeinschaft
 (昭和十五年五月二十四日を第一回とし、十六年六月十三日迄の間、ゼミナリステン交代で分担して、翻訳と内容の概要報告を行い、これに対し、上原先生から、可成り詳細な註釈が行われた。併し二三八頁の第四章Bildung der abebdlandischen Kulturgemeinschaftで終講となり、従って、第五章Die erste Blute des Abend-landes und ihr Welkenは未了に終った)
(ハ)その後は、ゼミのメンバーが、夫々に取纏め中の卒論テーマに就いて、交代で中間報告を行い、上原先生から指導を受けた。
(ニ)この間、上原先生が、十六年六月六日と、十一月十三日の二回に亘り"Vita Caroli"に就いての特別報告をなさった。(力ール大王の延人 - Hofleute - であったEinhardtが、"その主であると共に師でもある"力ール(Karolus)大王の、公私に亘る事蹟を記述したVita Caroliと、それに附け加えられたWalohfridi (Reichnauの修院長)の序文(Prologus)を、原典に基づいて紹介され、この資料の意味を、
 (a) Vita Caroliと資料として、カロリンガー時代の研究を行う。
 (b) 中世に於ける歴史記述の実際。
 (c) Quellenpublikation
の二つの観点から取上げることが出来ると、指摘された)
(ホ)又、増田四郎先生が十六年九月二六日、「商人ギルドと都市領主」のテーマで研究報告をされた。

 (4) 卒論テーマ

 卒論のテーマ選定にあたっては、先ず上原先生から「西洋古代及び中世史論文題目挙例」を示され、その中から、各自の希望により選択したものである。又、参考とすべき著作等に就いても、先生の御教示を受けた。昭和十五年のことである。

 ゼミナリステン卒論テーマは次のとおり。

麦倉 泰司 「タキトウス・ゲルマニヤ研究」
阿部 誠次 「古代末期統制経済の推移」
一瀬 弥助 「西欧文化発展の基礎についての一考察」
佐藤幸市郎 「ドイツ都市法の若干考察」
大石 礼司 「Lex Bajuvariarum」
菅波  斉 「中世欧州に於ける経済とキリスト教との関係」
荒木 長芳 「ドイツ中世都市経済に就いて」
大橋 周次 「中世ドイツに於ける大学の成立と存続の事情」
作花 慶一 「ラーフェンスブルガー・ゲゼルシャフト」

 (5) ゼミライフ

 (A) 上原先生は、プロゼミの開講に際し、御自身の御紹介と関連して、御幼少の頃、他人には許されることが、先生の場合に許されない御経験をなさったことから、誰にも例外なく通用するものがある筈だ、との疑問を持たれた。絶体をもとめる為に相対化する。相対化は絶体をもとめるからだ。歴史を学ぶことは、絶体なるロマンをもとめる道程である。と云った意味のお話をなさったと記憶しているが、この御言葉は、翌年(昭和十五年)先生が、御先代の家業御退隠を記念して編まれた「史心抄」なる私家本の序文に、文章化されている。

 (B) 先生は御長身で、どちらかと云えば色浅黒く、挙止端整な方だった。部厚いレンズの縁無しの眼鏡を用いられ、鼠色のソフト帽を愛用して居られた。一語一語吟味され乍ら、低音で、緩っくりした話法をなさる先生は、何時も真面目で、吾々の畏敬措く能わざる方であったが、先生に接するむきは、多く、先生の御人柄と、話術(内容は勿論のこと)に、魅了し尽されたのではなかろうか。

 先生は、諸事ストリクトで、稍ストイックにさえ御見受けされたが、よくも、無智にして無作法な吾々を、叱りもなさらず、倦まず導いて下さったかと思う。御自宅にも、折にふれ御邪魔しては、奥様にも御迷惑をおかけすること再々だったが、その際の、先生と奥様との御対話とか、又お嬢様のピアノの演奏会に、一同をお連れいただいた際など、先生の優しい御気持を、垣間見る思いがしたものである。御自宅での、和服で端坐されていた先生の面影は、今なお彷佛たるものがある。

 (C) ゼミの旅行
 プロゼミの時(昭和十四年)は、日帰りで、鎌倉の史跡を廻った。
 ゼミ、学部二年の時(昭和十五年)、奈良旅行を行った。法隆寺の門前で、柿くえば鐘が鳴るなりの子規の句を、憶い出したことを記憶しているから、時期は秋だった。

 この旅行には、上原先生ばかりでなく、増田先生と、増渕先輩も参加され、夫々の薀蓄を拝聴しながらの、終始熱心な見学旅行であった。増田先生の御紹介で、猿沢池にほど近い、手頃な旅館に二泊三日し、奈良市内と近郊を見学した。

 この旅行で吾々は、吾国仏教美術に開眼されることになる。又、皆んな、日本書紀に目を通して出掛けた。聖徳太子が斑鳩の御学問所に通われたのは、甲斐駒であったと云う、してみれば当時既に、相当の範囲で、馬匹の交易が行われたわけである。と云った話題に打ち込み乍らであった。博物館に陳列されていた百済観音の前で、感激のあまり、一同三十分余も無言で立ちつくした記憶は、、今も鮮明である。又、秋色濃い飛鳥路を、弁当箱をぶらさげながら歩いた印象も、忘じ難い。そして大人が、十人以上も起居を共にしながら、云わば、醸し出される雰囲気に酔ってしまって、奈良滞在中、一滴の酒も嗜むことがなかった。否、誰しもが、酒のサの字も思いつかなかったと云うことは、奇妙な話よと、帰校後一同で語り合った事だった。

 この際の見学先は、次の通り。東大寺、興福寺、法華寺、博物館、新薬師寺、法隆寺、唐招提寺、薬師寺、橿原神宮、久米寺、石舞台、岡寺、橘寺、向源寺、飛鳥寺など。

 (D) 卒業の謝恩会は、荻窪にあった桃山と云う料亭であったと思う。そこで、先生の御意向も伺って、記念品として、二枚折の屏風を一同から贈呈申上げたと、記憶している。この時の図柄は、麦倉君の選定で、色違いの無地の和紙模様だったと思う。

 (E) 卒業記念アルバムのゼミナール篇に、先生と九名のゼミナリステンの写真の他、「大和路史心」と題して、奈良旅行の際のスナップ写真五葉を載せたが、併せて、先生から頂戴した餞の辞「学則不固」を掲げることにした。この言葉は、論語「学而篇」にある章句の一節であるが、固定観念に陥ることを避ける為、人生学ぶことを忘る勿れとの御教えと了解している。

 (F) 吾々のゼミの時代は、云わば段々に、「時局重大」となる時期だったが、先生のゼミは静謐だった。併しこんなことがあった。二年生(昭和十五年)の時だったと思う。御自宅に参上して、諸々の話を伺っている時に、「実は最近、プロゼミの一人がやってきて、親御さんから、非常時に際して、時局と関係のない超越的な勉強をすること罷りならぬ、と反対されたので、ゼミをやめさせてほしい、と云う事だった。結構でしょう。親御さんの云われる通りにしなさいと帰って貰ったんだよ。だがね、私のゼミの勉強は、毎日、毎日の事務処理には役立たぬかも知れないが、例えば会社を興すとか、逆に会社を潰すとかの決断をせねばならぬ時には、随分と役に立つことを教えているつもりなのだがね」と、述懐されたのを記憶している。この時、先生の御表情は、聊か淋しそうであった。

 (6) ゼミナリステン名簿(五十音順)

※阿部誠次 (会津中)
 荒木長芳 (日大専門部)昭20・n・23戦死
※一瀬弥助 (済々費中)昭62・4・2死亡
※大石礼二 (横須賀中)昭19・10・5戦死
 大橋周次 (養成所)昭51・4・7死亡
 作花慶一 (専門部)
※佐藤幸市郎 (山形中)
※菅波斉 (誠之館中)昭20・3・20戦死
※麦倉泰司 (府立八中)昭53・2・1死亡

  (注 )※印は予科修了者(以上九名)

 


卒業25周年記念アルバムより