7組  佐藤 丈夫

 

 本来なら何か改まったことを書くべきところなのだが、一向その気になれない。そこで、枯木も山の何とやらとして、以下思いつくままに所懐を連ねてお茶を濁すことにさせて頂く。

 卒業五十周年、そして全昭和期をカバーしてしまっている私たちの半生・・・全く信じられないような早い経過だ。顧みて徒らに馬齢を重ねた感じで情無い。

 この間、確かに未曽有の動乱、変革の期を生々しく体験したということであろうし、平和な経済大国日本の建設に何がしかの貢献をしたということなのだろうが、今となっては、そうしたことは淡い記憶となって心のアルバムに閉じこめられ、取り出すこともめったになくなってしまっている。これは日常生活の軌道が次第に狭く固定化し変化の少ない毎日を送るようになっているからであり、これをしも老境というのであろうか。

 幸い私は未だ現役の身だから、普通ならこうした生活の輪の狭少化を防止するはずなのだが、実際には反対で、知的所有権とか知的財産権という狭い特殊分野の仕事をしていると生活が特化、固定化してしまうのだ。さらにこの傾向を助長したのが一年前の胃ガン手術という難病罹災である。つい最近一年目の定期検診があって幸い無事だったが、何といっても生活のリズムを控え目にすることは否めないのである。

 こうして内輪になった生活にあって唯一つ前向きに大転換をもたらしたことが一つある。孫族の出現である。孫族が三人に増えるに伴って、夫婦揃っての溺愛振りもいよいよエスカレートし、今やこれだけが人生の目的、幸せの根源といって必ずしも過言ではない有様になってしまっている。こんな有様とそれをこのようにヌケヌケと書くということも老化現象の一つと自覚している。

 以上のように特化した仕事と孫族溺愛が公私両面における生活の主な内容となったため、十二月クラブを始めとする交友関係は、その飛ばっちりを受けて、心ならずも低調を極めることになってしまっている。年間行事皆出席を常として少しは会のためにお手伝いができた心身共に健全だった往時を思うにつけ、内心伍泥たるものがあることを告白させておいて頂かなければならない。

 ここまで書いてきたところで、ふとこれまでの二冊の記念文集を見なければ……ということに気付く。事前に見直して新たな文案を練るというのが順序なのに、いい加減なもんだと反省瀕り。読んでみると、三十周年文集当時既に現在に近い心境にあったこと知って驚き、四十周年文集(波濤)では今の仕事の宣伝みたいな記事を書いているのを発見する。これでは以上の文脈を追って行くのではサマにならないので、これはいかんと、以下改めて文案を考え直す。

 そこで、まず、わが十二月クラブが私なり私の一家に与えてくれた印象的な思い出を一つ二つ記しておこうと思い立つ。

 一つは、何といっても二男玄土の一橋大志望だ。幼い時から、東西懇談会やら一橋祭、バス旅行などの行事に参加させて貰い、旗持ちやら、くじ引きなどを嬉々として勤めて、広く会員諸兄に可愛がって頂いた玄土にとって、その間に感得した今時珍しい十二月クラブの良さが受験の動機になったということだ。このことは、韻松亭での観桜会の席上、韮沢君が披露してくれたことを今に懐しく思い出す。さらに受験当日は増三教授宅に泊めて貰ったことも感謝とともに記させておいて頂く。

 もう一つは、最近の例を選ぶことにする。それは上にふれた昨年の難病に際しての倉垣君の心暖まる友情だ。再度に亘って、細々と長文で貴重な体験を盛り、闘病の励ましをしてくれたのである。有効な参考になったことはいうまでもなく、唯々感謝あるのみだった。こうしたことは極く親しい間柄でなければできないことと思うにつけ、改めて十二月クラブで結ばれた貴重な絆を認識したことである。

 最後に、前の文集で片柳梁太郎君が書いたように、木村増三と私と三人の交友は長い。奇しくも相い前後しての増三と私の昨年の悪夢のような罹病(私の退院日が増三の手術日)に際しても、独り健在の梁太郎が軸となっての交流が展開した。増三の病院、ひいては主治医選定に始まる一連の活躍は大変なものだったし、私としても、彼が情報の要となってくれる関係上、十二月クラブヘも安じて?不義理を重ねることができているのである。ほぼ丸一年を経過した去る日曜日(一九九一年四月七日)、増三方において五人(愚妻も参加)で久し振りに会合し、感無量の喜びの乾杯をすることができたのは嬉しい限りだった。


左から、私、木村増三君、片柳梁太郎君

 現役として続いている今の仕事については、上にもふれた通り、四十周年記念の波濤に記したところと基本的には同じなのだが、周知の通りのハイテクの急展開により、この十年間の仕事の環境は大きく変化した。科学技術の情報の高度化、多角化を伴いつつの量的激増とスピードアップとこれに対応してのデータベースの構築に基づくオンライン化する処理技術の向上などの局面を対象とする情報管理面における変化と、万事国際化、グローバル化して各種の紛争、摩擦を頻発するようになった現実の技術競争面における変化とがこれである。

 私の仕事は、これらの技術問題をマクロな対象として、主にその権利面(特許、商標、デザイン、著作権などを含む知的所有権ないしは知的財産権と呼ばれIntellectual Properties (I.P.)の分野からアプローチしているのである。そして、大部分の日本企業が相変らず国際的なIP戦争において裁判嫌いなどで代表される後進性(波濤記事ご参照下さい)を捨て切れないでいることに引き続きヤキモキしている毎日なのである。

 仕事についてはこの位でとどめ、ここではグローバルな視点からの重大なIP問題について若干述べさせて頂く。昨今、ご高承のように、新聞でもほとんど連日IPの文字なりIPがらみの情報が報道されるようになっている。そこで、そうした記事をお読みの折りに、少しでもご参考になれば幸甚だ。

 IPの世界では煎じ詰めると次の二つの大問題が起こっている。

  1. ハイテク、特にコンピューター・プログラムとバイオテクノロジーの展開に伴って、その開発案件の特許性などの権利の範囲が、既成の法制では矛盾なく律することができない場合が生じてきた。それをどうすればよいかという新規の法制度確立の問題。
  2. 1.の問題を別にしても、IP一般における各国法は同一ではないため、国際間の権利関係のトラブルが発生することになる。これをどうするかという国際的権利保護の調和問題。

 これら二つの基本問題は、私見によれば、共に誤まった解決方法を追い求めることになってしまっているだけに、本当の解決がいつのことやら検討もつかない現状にあるといってよいとおもう。この私見コメントは既に早く十年近くも以前(半導体集積回路法(昭和六十年)制定以前、この制定の誤まりについて二、三の新聞紙、会社月刊誌などに累次発表)からのもので、最近ようやく一部内外の専門家が私見と同じ視点の主張を発表し始めたのは心強い。

 誤まった方向とは具体的にこうである。

 1.の新技術の権利保護問題については、バイオ技術については未だ独立の保護法を制定した国はない(一九九一年四月現在)のでこれからの問題だが、ソフト(コンピューター・プログラムや上記の半導体チップなど)の保護については、便宜上すべて既存の著作権法に押し込んでしまったのだ。まず米国がやり、これを強引に(二国間交渉で、同意しなければ報復するということで)世界中に押し付けたのである。本来小説などの「表現」を保護する法である著作権法に実際上「アイデア」も表裏一体の概念とすべきソフトを同居させるということは矛盾したことなのだ。この素朴な基本論理の無視という信じられない現実は立法に政治が入りこんだためとしかいいようがなく、新しい性格の技術の保護には新しい種類の法律を創設すべきだったのだとだけここには述べておく。したがって今となっては、改めて新しい法制を設けることは事実上不可能に近いとしかいえないであろう。

 2.の国際調和問題だが、集約すれば、もう実質的には合意成立済みのはずだったガット・ウルグワイラウンドと世界知的所有権機構(WIPO)のIP条約交渉の二つの問題である。ウルグワイ・ラウンドは周知の通り当初の交渉期限である昨年末で纏まらず現在本年末ないしは来年末までの延期説が取り沙汰されている。その一部のIP交渉(TRIP)も未だ先進国間の合意にも到っておらない現状で、本来WIPO交渉に限定すべきだとしてガット交渉にIPを持ち込むことに反対だった南(途上国)側との間の南北合意こそ交渉成立の鍵があるだけに問題外の遅れなのである。TRIPをガットに持ち込んだ主唱者も米国で、やはりWIPO交渉に限るべきだったのだ。ところで、そのWIPO交渉も、来る六月の外交会議で決着をみる予定で来たのだが、本来の思惑は、共通点については前年末のガット交渉の結論合意をそのまま取り込むことにあったのだが、肝心のガット交渉が上記の通り遅れてしまったのだからどうしようもない。この点、マスコミでもほとんど報道されていないが、やがて賑やかに紙上を飾ることになろう。なお、WIPO独自の交渉項目においても、ガット同様、南北の対立が残っている。要は既定路線を変更して、期限は気にせず、改めて南北交渉を主体に大局的な合意を計るべきところとおもっている。

 直接ご関係のない諸兄にとってはどうでもよいことを書き連ねて申し訳ない。こんな奴もいたということでご寛容の程を。

 最後に一言。
 わが国の高度成長期の頃には、何でもできてしまうように思える当時の若さが羨しく、日本も案外本物の良い国になるかも知れないと感じたことがあった。しかし、今、経済大国となりながら、兎小屋族を脱し得ず、徒らに昭和元禄を謳歌している世相を迎え、その世相を象徴するような無気力な若人を見聞するにつけて、一方に、未曽有の構造革新が進行中の激動の世界にあって万事に無策で後手後手を踏んでいるわが国の現実をおもうとき、これでよいのかと明日を危倶する不安を禁じ得ないことに触れておく。