2組 佐藤 幸男 |
我々はいま卒業五十周年を迎えようとしている。記念文集に参加できることは幸いである。学友の三分の一ちかくの人が五十周年を祝うことなくねむっている。五十年ほど前に歴史的運命とはいえ、若くして死についた学友達のことを想う時、我々が五十周年を迎える時代の世界の様相を、生きてきた証として何か書き残しておかなければならないのではないかと思うようになった。 我々が物ごころがついた頃から学生時代を過し、そして第二次大戦参加を経て、社会の一員としてずっと生きてきた昭和時代は六十三年間で終りを告げた。それは私の第一の人生の終りでもあった。私の第二の人生は平成という新しい時代からはじまった。それがいつまで続くかわからない。しかし、私が生きていようといまいと新しい時代は二十一世紀へと間違いなく続いていくであろう。 世界は今世紀の中頃までは、戦争によって変えられてきた。日本の社会も第二次大戦によって、いわば外圧の力で大変革をとげた。その成果は結果的には成功であったといえよう。我々はこの間無我夢中ですごしてきたが、国際社会の底流には徐々に次の社会的変化への原動力となるべきエネルギーが蓄えられていた。そのエネルギーは今度は戦争ではなくイデオロギーの自己変革であった。イデオロギーの異る米ソ間の新体制への合意にはじまり、ソ連の独裁的共産主義の崩壊と民主社会への転換の試みであった。そしてそれによってイデオロギーの異る東西ドイツの統合が見られた。これらの大変革は二十一世紀の国際社会の行方を暗示するものであろう。 このようなグローバルな世界秩序の変革がおこなわれている時、日本人だけが対岸の火事として高みの見物をしているわけにはいかないだろう。我々の後輩は必ずや激動する国際社会の中で日本がなすべき役割を見出し、その実現に努力してくれるものと信じている。 それにつけても我々が第一線で働いていた時代、その延長線上の現在まで、我々日本人は他国の人々との交流、外交、経済取引などにおいて、何故に多くの誤解や摩擦を発生させてきたのであろうか。米国からは「日本たたき」にあい、欧州諸国からは金一辺倒の成上り者との印象をもたれ、アジア諸国からは同じ儒教、仏教圏であるのにそっぼを向いていると見られてきた。このようなことは日本人側から見れば明らかに誤解である。しかし、何故このように誤解されやすいのか。日本人が現在国際社会の中でおかれている立場を考える時、この原因を究明することはあながち意味のないことではなかろう。私のつたない海外生活の経験を通して若干模索してみたいと思う。 日本企業の中で現在着実に実績を示している経営管理手法の一つにTQCという概念がある。これは一九二〇年にSir Donald Fisherによって紹介されたStatistic Quality Control (SQC) にその端を発している。その後Walter Shewliartというベル研究所の物理学者が、SQCの原型を設計したといわれている。そして第二次大戦の直前一九三九年頃Walter Shewliartグループの二人Edward Demings(日本ではデミング賞として知られている)とJoseph Juranがそれぞれ別個にSQCの現代版を開発した。その後第二次大戦のとき、軍需品の効率的増産の必要からこのSQC手法が全米の工場に急速に広がっていた。そして終戦後、いち早く日本の生産性本部を中心にして米国からの先端技術、経営効率管理手法が数多く日本へ導入されたことは記憶に新しいことである。その中にこのデミング氏開発のSQC手法が含まれていたのである。これは後に日本の生産企業の間で「デミング賞」として称えられ、更にこれが日本式TQCへと発展したことは周知の事である。 実は問題はここからはじまる。問題は、日本人が米国生れのデミング式SQCという工場管理技術、或いは経営管理思想を接受し、導入した際の受入れ方、受けいれる時の思考様式にあるのである。日本の企業家達はデミングのSQCを導入するにあたって、日本の工場管理に合うように、原型を一度バラバラに解体して、原型とは全く異る内容のものに組み直したのである。したがって今、日本の工場にあるSQC手法、又はこれを一層発展させたTQC手法というものは、米国生れのSQCとは表面は同じように見えても質的には異質のもので全く似て非なるものに転換されていたのである。 米国の工場経営者達は、日本にもSQC手法というものがあるが、これは米国のものと全く同じ手法であると最近まで信じていたのである。そして日本の自動車が米国の市場シェアーを喰いつぶすので「日本たたき」の行動に出ていたのである。ところがつい最近になって、フォードやジー・エム、ゼロックスなどの会社で、日本で行われているSQCないしはTQCという生産思考は米国のそれとは異ったもので、優れた方法ではないかということに気がついたのである。これは日米間の余りにも大きい自動車産業の生産性効率指数と、完成車の欠陥率の差に疑問を持ち、日本に調査団を出して調査した結果初めて分ったことなのである。ここでは日米SQCの具体的内容比較については紙数の制限もあり割愛するが、その後米国自動車業界では誤解がとけて、自動車工場経営手法の一部を日本から学ぶことになったのである。 若干飛躍するようであるが、このようなことは歴史を顧みる時、古来から我々の先祖が仏教や儒教など外来の思想や文化を導入した際の受けいれ方、思考様式の中に日本人独特の発想方式として見出すことが出来るのではなかろうか。日本人は外来の思想や文化を受け入れる場合、それを支えている社会や制度を含めて、そっくり受け入れるということはしなかったようである。外来のものを換骨奪胎し、自分達に合うように変質させて、合理的に受けいれるという思考方式をとる習性があるように思われる。儒教の日本への伝来とその接受の仕方については「近世日本社会と宋学」渡辺浩著で詳細に述べられている。同氏はその中で「外来思想である儒教の日本文化への接受導入に至る過程とその思考様式は歴史を貫く日本人の国民性の現れと解しうるものかもしれない」と述べていることはまことに興味深いことである。 儒教文化の受けいれにおいて、「家」という概念を中国や韓国他儒教圏とは異った日本式の「イエ」概念として導入定着していったことは日本人の間では常識となっている。しかし儒教国の人々は日本人も自分達と同じような「家」概念の儒教を受けいれたものと思うのも又当然であろう。このためにオリジナルの儒教国の人々は日本人の文化や、思考様式について誤解を生じやすいことになる。 もう一つ、日本を離れて外地で仕事をしている時、ふと感じたことがある。それは柳田国男氏の次のことばである。「田舎の世間通は簾(すだれ)などの中から、外をのぞいているような姿がある。こっちは隠そうというつもりはなくとも、見られる機会だけが後に残されている」。このような状況を神島二郎氏は、その著者「日本人の発想」において「認識の成立に相互観照が欠けている一方的な状況」と指摘し、日本の国民性のマイナス要素の一つとして述べている。このような国民性は、日本人が長い間外国民族との混合生活がほとんどなかったこと・・第二次大戦敗戦による占領は力の圧力政治で反発だけが残り、文化としては定着しなかった・・によって異民族と対等の立場で相互観照の場が今まで少なかったことに帰因しているのではなかろうか。最近の日本の外交のやり方を見ていても、まだこの田舎人的見方が多いように思われる。 以上、日本人が何故に外国の人々に誤解されやすいかということについて二つの原因をあげた。何れも長い間培われてきた日本人の習性、国民性に関連する思考様式である。最初にあげた国民性は、一つの折衷主義的な考え方の日本版ともいえるのではなかろうか。日本人は古くから、自分のまわりにある新しい価値観の中から自分に合うものをえらんで折衷して一つの新しい価値観を創り出すという営みを続けてきたといえよう。そして新しい価値観をえらぶ際の選択の目は簾の中から一方的に観ていたために、相手との対話、相互観照がなく、一方的選択であったのであろう。その結果、相手方にとっては思いもよらない取られ方をしていたことになる。このような日本人の習性は、日本人が好んで使用する言葉の中にも如実に現れている。二、三の例をあげれば「換骨奪胎」、「自家薬篭中のものにする」、「和して同ぜず」、「禍を転じて福となす」などであるが、何れも外国人、特に西欧人に説明するのは非常にむずかしい言葉である。そして現在世界の国々が驚異の目をもって見ているのは「敗戦の不利を転じて有利に展開して世界の経済大国まで成長させた」日本人の国民性である。このような展開は、欧州においてドイツ国民も成しとげたが、極東の小国日本が、このような成果をあげようとは、国際社会の人々にとってはまさに驚異であろう。これは日本人の思考パターンにそって「禍をもって福となす」を実現したものといえよう。 私がこの随想を書いている最中の一九九一年一月十七日(日本時間午前八時)、遂に米国を中心とする国連多国籍軍とイラク国との間に戦端が開かれた。もう武器による殺戮戦は国際社会には二度と起こるまいと思っていた矢先であった。この紛争は幸い極地的に短期に終結したのは望外の喜びであった。 米国とソ連の二超大国の覇権による国際社会秩序時代は終った。ソ連は自国の再建すらあやぶまれている。米国も事実上の対イラク戦争の仕掛人としての責任は重く、この段階ではその先行きは誰にもわからない。二十一世紀を迎えての国際社会の新しい秩序は全く混迷の中にある。しかし、これからの国際社会は軍事的に、或いは政治的に少数の国によって支配することが非常にむつかしくなったことは事実であろう。二十一世紀の国際社会は平和と繁栄を理想とする経済中心の社会への道を歩むことになろう。大国も小国も、みんなが参加して、夫々の国民性の特徴を生かし、お互いに理解し合って新な国際社会を一歩一歩築いていくほかなかろう。新しい国際経済社会の構築となると、経済に強い日本とドイツの役割が期待されるようになるであろう。 このようにして、日本に国際社会への出番がまわってくるとしても、今までのように国際社会の中で日本人の考え方、日本人のパフォーマンスが誤解を生み出すようなことでは具合が悪い。たしかに日本人的思考様式の一つであるいわゆる折衷主義は誤解を生みやすい要因の一つでもあった。しかしここでいう折衷主義とは、足して二で割る式の折衷案方式ではない。これは哲学史のなかでは十九世紀のフランス哲学者ヴィクトル・クザンの思想に端を発したものである。この思想は一言でいえば、いくつかの異なった理論を集めて、ひとつの体系的な理論を作りだしていく思考方式であるといえよう。今日の思想・文化の流れの中では折衷主義はむしろ重要な概念として評価されるようになってきている。それは現在の社会ではある一つの強力な理論が存在しにくくなったために、内容の弱い価値観を集めて、時代に合った一つの価値概念を作り出さなければならなくなったからである。いいかえれば、多様な価値観の中から時代に合うと思われるものを選びだして、一つの調和のとれた価値概念を見いだそうとする考え方である。 これからの国際社会では超大なイデオロギーによる支配はむつかしくなり、市民の平和と繁栄を求める多様な価値観の上に築かれた国際経済社会の秩序造りが急務となろう。そのような状況を考えると、これからの国際経済社会の建設には案外日本式の折衷主義的思考、或いは調和主義的考え方の効用がでてくるかもしれない。最近、米国の主要大学で日本の若い経済学者達が中心になって、新しい国際経済社会秩序の枠組となる経済理論の研究が進められていると聞く。大いに意を強くするところである。 もう一つ日本人の習性の中で外国の人びとに誤解を与えやすい要因は「簾を通して一方的にものを見る」ということであった。これは既に国際社会から日本又は日本人の閉鎖性として厳しく批難されているところである。これは日本人自身が先ず非を認識して、自ら簾を取り払って国際社会に向って開放することから始めなければならない。努力すれば出来ることであろう。幸い今の若い世代の日本人は外国人と市民レベルで自由に交流する機会に恵まれているし、又国際化の度合いも日本全体にわたって急速に進展して、価値観の多様化も見られるようになってきた。大正生れの我々が心配するまでもなく簾を取り払って国際社会へ順応してくれることだろう。 しかし、ただ自然の成行きだけにまかせておいていいものだろうか。そうかといって一朝一夕に日本人が明日から国際社会で高い評価をうけるような立居振舞いが出来るわけでもない。ここには新時代にふさわしい理念とその裏付けとなる理論の研究、そして国際経済社会の第一線で通用する人材の養成の二つが最も切実な問題として浮び上ってくる。そしてこの二つの問題を解決できる最適の機関は、わが一橋大学をおいて他にない。私はこの第一の問題・・母校の学問的研究については相当期待が持てるものと信じている。問題は国際社会に通用する人材の育成である。これについても留学生制度など他大学に先行して積極的に派遣と受入れが行われていることは評価されてよいと思う。ただ、私が最後に期待しておきたいのは、大学がまず国際社会に対してもっと積極的に開放することである。これはわが母校のみならず官公立大学全般の問題である。教授陣の国際化、マスター・コース、ドクター・コースの国際的自由化、カリキュラム、講義の国際語(英語)の使用など、まず大学自らが簾を取り払って真の国際化、自由化の体制を打ちたてること、これがこれからの国際経済社会に通用する人材の養成にとって正道であり近道ではないかと思う。 数年前にはみられない事であったが、最近は八十才台での自動車運転免許更新者がザラになったといいます。最高は九十三才、ただしこれは運転はしない模様。 |