4組  佐藤 芳信

 

 ○ 古希の春も越えて殊勝な気を起したというわけでもないが、膝に水が溜ったり、手の親指の基部がシコって痛みがとれなかったり、天人五衰か視力が衰えたり、肝検査のGPTがふえてなかなか減らなかったり、いろいろ障害が出て不安を感じる頃でもあります。

 ちょっと古いが、外国の宗教心理研究所の資料によると、人間は年をとるにつれて宗教的行動が増加するもので、重要なテーマである「死後の生命」への信仰については三十才台では極く少ないが、四十才台から増加に転じ九十才以上では全員が信仰するとある。

 一般的にいって人間が自己の生死観を考えざるを得ないような状況に追い込まれたときは、さまざまなタイプの生死観のどれかにとりすがろうと必死の遍歴を始めるという。そして大抵の場合はそれが不成功に終り絶望の中に途方に暮れるものという。

 以下の記述は多分この一般論を実証することになるのかもしれない。

 ○古くから靈、靈魂、霊魂不滅の論があるが、事の足掛りにこれを羅列してみよう。勿論これらを詳しく研究するためのものではない。以下昔の名前で出ている。

ソクラテス 初めて霊魂不滅を説く。
プラトン 人間だけでなく世界の活動にも神により造られた靈魂がある。
アリストテレス 肉体を離れて靈魂も生命もない。
キケロ 靈魂は物質的死と共に消滅。

エジプト人

靈魂は死後肉体を離れる。
ヘブライ人 霊魂は血液の中に宿る。
キリスト教 ヘブライの信仰を受け継ぐが靈魂は肉体と常に一体の人格、中世にはこれが分離したが、復活で肉体が伴う。
仏教 基本的に靈魂否定、輪廻思想にも靈魂はない。後に浄土信仰にからんで靈魂が生れる。神道の靈(ミタマ)をとり入れる。
神道 世思は凡て靈的存在。
イスラム教 靈魂は心臓に宿る。死後離れて最後の審判で復活し肉体と結ばれる。
現代 超心理科学の分野もある。靈魂不滅。

 さて漢和辞典によれば靈と魂とは別々の意味を持っているが、熟語で靈魂として使われるのが一般。英語で靈はスピリット、魂はソウルとなるが、靈魂はア・ソウル又はア・スピリットとなってどちらでもいいようである。別に深遠複雑な思想や観念の世界に入ろうとするものでもないので、ここでは事を簡素化して、何やら意味深げで呪術的な香りもする単語「靈」に絞ってその語源から考えてみたい。

 靈という文字は所謂金文とされるが形声文字である。発音部分の霝は、祈りの言葉を並べて雨乞いすること。意味部分の巫(王の字も使われる)は周知の巫女。古代においては王(君侯)が巫女の行うような事をしたとされる。ここで分解した雷、巫等の文字は金文より古い中国最古の甲骨文に現れている。何れにしても紀元前千二百年頃のことではある。

 靈という文字を分解し又綜合して、その持つ意味と時代の背景を考えれば、当時の牧畜農耕社会及び自然界の生活ならびに生命の持続に絶対必要な水を獲得するため、雨乞いをする人を媒介として成立する天然現象としての降雨(神の恵)が考えられる。そして降雨は水の存在であり、結局靈の意味するところはその実体として、自己の中に神性を含む水と考えることもできそうである。

 日本古来の山岳信仰に根ざして発展した仏教の宗派に修験道があるが、この修験道では水そのものが大日如来と考えられている。語源的解釈の立場からではあるが、水そのものが靈と考えられたとしてもそれ程おかしいとは思わないのである。或いは日本古来の神道中心概念である靈(ミタマ)は水玉(水の一滴は玉である)からきたものかとも思う。

 道元はかつて一水一草流れる水に迄靈を感じたと言い、「水自体に生命が宿る。それによって自分も生きる」といっている。まことに水なるかなであるが、ここで「宗教なき科学は不備であり、科学なき宗教は盲目である」と言ったアインスタインの事もあり、水について若干の科学的考察を紹介したい。

 科学者によれば人間の体重の六十%以上は水で占められており、特に脳についてはその八十%以上が水であるという。水は疑いもなく人間に不可欠な物質である。生命に食べ物としてのエネルギーを供給することのできるのは炭素以外にないとされているが、その炭素の高分子は水の中を自由に移動する。エネルギーも水の中を流れる。水は水以外の物質を溶解する。このような水のはたらきの中に生命現象が生れ出でそして持続するわけであろう。

 もう一つ、物理学にエネルギー不滅の法則がある。あらゆる物質はエネルギーであり、エネルギーは変化はするがその総和はかわらない。消滅しないとする。これを水についていえば水は、固体-液体-蒸気ー工ーテルと変化するが消滅することはない。不滅である。

 ○ 靈。 水についてはこの位にして次にご参考迄に靈魂について。
 「靈魂はある。然し実在はしない」とは有名某寺住職の言。靈魂論は人一人一人の数だけあるのかも知れないが、ここでは旧陸軍の人格者として知られた今村均大将の言を、その回想録から伺うこととする。曰く「要するに宇宙には生命のない無機物などは存在せず、元素の化合によって生じた物質の新生命(靈魂)はそれを構成している各元素固有の旧生命に還元するものであり、化合して生じた肉体と一体をなしている生命が、各元素の解体により、肉体がなくなっても靈魂だけは依然として前のままで天国か地獄かに行くとの考え方は、万有流転の大真理大原則にも一致しない」。

 何やらわかりにくい点もあるが、靈魂の存在は肯定、靈魂の不滅は否定かともとれる。

 (註)
 文中元素の化合とは禅にいう「身体は地、水、火、風の四つが仮に和合して成立したもので永続するものではない」との説からの表現と思われる。

 ○ 時として靈と同じように扱われるものに心という観念がある。心の字は中国金文では象形文字で心臓の形を表している。古代中国人は心は心臓の中にあると考えたのであろうか。仏教では人間の心のはたらきとして、眼、耳、鼻、舌、身の五つの感覚器官の作用を先ず考え、これに意識を加えて六塵とし、六塵を願い求めるのが欲望であるとする。ただし六塵とはいっても、必ずしもこの欲望自体を否定するものではなくなったようで、むしろ時には清らかなものとして肯定するふしも窺える。

 実際、美しい自然の風景や色とりどりの花(眼)、すばらしい音楽(耳)、よい香り(鼻)、グルメ(舌)等々を六塵といわれては俗人は我慢できない。すばらしい現世を否定されては困るのである。

 仏教ではこの六塵の他に我欲として捉える迷いの心のはたらきを考え、これを特に厭うようである。

 この我欲の心を末那識(マナシキ)といっているが、これがあるために先の六つの心のはたらきも濁るとする。「泣きながら良いほうをとるかたみわけ」の心である。

 このような思想に似たものにルッターの「自己愛」がある。「人間のいかなる善行にも自己愛が含まれるから救済には役立たぬというもので、その根元を原罪に求めている。東も西も考えることは大体同じなのかなと思う。

 さて仏教についてこれ以上深入りするのは本旨でないし又その知識ももってはいない。唯心がどこにあるのかということについて、語源的には明らかなようでもあるが、仏門の人達は総じて何も触れていないようである。この点について科学者達の考えはどうであろうか。

 科学者達は、心は百五十億個の細胞から成り立つ脳の中にあると考えている。(人間一人の全体の細胞数は六十兆をこえるという)。心が脳の中にあるとする理由は次のようなものである。即ち、

 人間の大脳の皮質の顳?(じょうじゅ)葉中枢を一定量破壊すると耳がきこえなくなり、耳から得た一切の記憶知識が失われる。又後頭部中葉中枢を一定量破壊すると目がみえなくなり、目から得た一切の記憶を失う、といった事実が証明されたからである。

 (註)
 顳はこめかみ、聶はささやくの意。

 然しながら残念な事には、意識、潜在意識或いは超意識等の心理現象を司る脳の部位については未だ解明されてはいない。

 ○以上のような、靈、水、心についての考えを要約すると、人間の心は肉体と一体であり(所謂心身一如)心は人間の内部から発生発展する。これに対して靈は体外から与えられるが、人間の内部に浸透して、靈と心相依って肉体の中に生命を発展させるものと考えることができる。なお、生命の活動が精神である。

 そして心と肉体は死と共に消滅するが、靈(神性を含む水)はエネルギー不滅の法則により永遠に生きる。その生きる形は循環であり再生である。

 ○戦後はひたすら生きんがための職業鉄道列車に乗って、横浜正金をスタートに一時停車あり、脱線あり、途中乗り換えも相次いだが終点は仙台となってしまった。仙台は阿部次郎や新宿中村屋ゆかりの相馬黒光の生地でもある。又「わきてながるるやほじおの」で始まる詩集潮音は、作者島崎藤村が仙台に住み仙台で作ったものである。その他仙台に関わる古歌も多いがその若干を息抜きに紹介する。

名取川瀬々のうもれ木あらはればいかにせんかとあひ見そめけむ
           (古今集  川は仙台近郊にあり)
家ごとにすもも花咲くみちのくの春べをこもり病みてしさしくも
           (科学者石原謙とのロマンスで有名だった原阿佐緒の歌)
数年前には見られない事であったが、最近は八十才台での自動車運転免許更新者がザラになったといいます。最高は九十三才、ただしこれは運転はしない模様。
 諸兄の今後益々のご健康とご長寿を祈ってやみません。