一九九一年三月半ば、雪の朝のように明るい障子を開けてこれを書始める。二人の孫がそれぞれ成人し、恋をして可愛いい子供達と暮す二十一世紀は明るいか。
戦争と革命に明暮れた二十世紀初頭に生れ、五十四年間も世界の永遠の平和について考えた老人は、ピカピカ光る未来を見詰めている。それを書こう。
神に祈り、タルムドの戒律を守って誠実に生きて来たユダヤ人に対して、三千年に亘り加えられた迫害は、神の存在を否定するだろうか。エルサレムの嘆きの壁に額を当てて、平和とメシヤの出現とを祈る彼等の前に、本当にダビデの子孫のメシヤが姿を見せた時、聖書にあるように「その最も弱き一人に至る迄ダビデの如く強く」なるだろう。二十世紀世界のマスコミ、金融、石油、穀物、ウラン産業、兵器等々を掌中にしているユダヤ民族は、神が予定された平和の為の選民である。選民達はメシヤが何処に居るかを知らないが、紀元前七世紀に彼等の北の十氏族がダビデの王統を擁して、「イシヤ・ナギード(救い給えダビデ王統を)と叫び乍ら印度洋を渡り日本に来た。イザナギがこの香しい島国の霧を吹払った息から生れた「シネツ彦」を、神武は東征に当り日本建国の成就を祈って、椎(しい)根津彦神社を九州佐賀関に創建された。神話の時代ではあるけれども、関の権現とも呼ばれた椎根津彦が、東南アジア各地で忠義神武に始まる神号を有する「関聖帝君」として祭られている現実はその実在を証明しないだろうか。古事記、日本書紀が記載し、神社として祭られたダビデの王統にユダヤの情報網が注目した日、世界平和の原動力に火が走る。
「国家元首は総べての国民を愛する」。これに反対する元首も国民も恐らく居ないのではないか。ではそれを見せたら良い。反逆者の獄房に共に坐って慰めてやり、司法大臣に減刑を嘆願する元首が現れた時、国家への反逆者が増えるか減るか。農民の収穫の祭りに農民姿の元首が肩を組んで歌う時、田畑の神も共に喜ぶだろう。病気の少女を見舞う時、路傍の老婆の手を引いてやる時、元首には勲章で飾り立てた軍服は要らない。然し勲章以上の光が人々の胸を熱くする筈だ。国民への愛と国民からの愛の中で平和が生れる。日本の青年達もそのような元首を守るだろう。一国から一国へと平和の輪が広がり、振向けば世界平和が後から蹤いて来るというやり方が一番良い。元首とは最高権力を有する支配者だなどと云うから国境紛争、引いては戦争も起るのだ。元首が愛なら、国境とは政治境界線に過ぎなくなる。
平和についてキリスト教徒は新約聖書に詩のように美しい言葉を見出している。
「神の幕屋、人とともにあり
神、人とともに住み、人、神の民となり、
神みづから人とともにいまして
彼らの目の涙を悉(ことごと)く拭い去り給わん」
即ち、キリスト教の考える平和とは、丁度人が美しい青空や星空の下で生きるような甘美な世界である。それは仏教徒が理想とするミロク浄土も同様であり、イスラムの言う十二代イマームの再生によって達成される正義の世界とも完全に合致する。そのような平和の下でなければ人類は永遠には暮せない。それぞれの国の元首が支配者ではなく最高権力を有する愛となって、国民と国土に君臨する時、人は神の臨在を見るであろう。その時代は、すべての人の悲しい涙を拭い去る迄、つまり何千年も続いて、然も終らないだろう。
平和への理想を掲げて大きな変化を企図しては失敗する。国家元首の心を支配者から守護者に変える事は目にも見えない一粒の貴薬であるが、次第に世界の諸民族に文化の花を咲かせ、国は戦争を考えなくなり、自然は美しさを取戻し始める筈である。このように易しい事を人類は何故しなかったか。それは元首問題は何れの国何れの時代を問わず、タブーだった為と考えられる。元首の聖域は暗いのである。私は元首が聖天子になれと云っているのではない。聖乞食たれと云い度い。天国を求めるのではなく地獄を見て廻れと云っているのだ。
現在の元首の首をすげ換える必要はない。然し「朕は国家なり」と云う尊大さを棄てて、「国家は朕なり」と云う謙虚な心を持って欲しい。国民と共に暮して狂人の銃弾を恐れぬ勇気と、国民の間に湧上る喜びをその喜びとして欲しい。死んだら、恐らくはヒマラヤ連峰を見る地に作られる筈の王達の墓に眠り、自国民と世界中から来る人々の祈りを永遠に受けて頂き度い。神々の王座と呼ばれるヒマラヤ連峰の風に酔った人々は、華麗な印度の古城に泊り、又各々の国土に還ってゆく。
二十一世紀は核の冬の灰色ではなく、朝日に染まるヒマラヤ連山のピンク色であろう。世界中の人々が喜ぶならば、それは実現する。
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