3組  柴沼庄左衛門

 

 私達の東京商科大学の生活は、二・二六の内乱の頃より始まり、戦線が次第に拡大し、遂に、十二月八日の大東亜戦争により、米英に対して宣戦になる。〃これは死ぬな"と覚悟したが、初戦は勝って、私は、三井信託銀行に入社し、敵産管理の軍属に志願して、シンガポール、マレーシアに派遣された。憧れの南方であり、物資不足の国内と比べると天国であったが、二十年に入ると戦況が悪化し、現地でも徴兵があり、二等兵として、満州から来た部隊に入った。幸いマレー語が出来るのは私だけで、学歴より経理部担当になり、現地人対策を命ぜられた。

 然し八月敗戦となり、クアラルンプールで武装解除され、シンガポールまで、歩かせられ、ジュロン浮虜収容所に入れさせられ、六ヶ月最低の生活をして、二月十一日に、出発した大竹軍港に戻って来た。
 出発と同じ、リュックサック一つである。第一の人生の終りである。
 恵まれて来た人生と環境は一変して、荒廃した家業の醤油屋を再建することになった。

 それから、四十年、幸いよき家内にも協力してもらい、戦前八千軒あった、同業者が約一千社に減少する激烈な競争をして、柴沼醤油は上位三十数社の仲間入りをし、一橋大を卒業した長男も、十年になって業績も大部よくなったので社長を譲り、会長になった。第二の人生の転換である。

 然し、引続き醤油・ソース・食酢の茨城県協同組合の理事長はやり、従って関東及全国の組合の理事や評議員をやり、これにより食品協会とか中小企業関係団体の理事や役員はやっているが、会社の経営の責任を免れた心理的ゆとりは大きい。

 土浦商工会議所も設立以来、常議員や監事を歴任し、工業部会長を続けて来たが、会長になったら、少しお暇が出来たでしょうと副会頭に選ばれた。
 土浦法人会の方も、昭和二十九年設立以来、副会長をしていたが、平成元年より会長に昇格した。会員が四千社を越えた功績によるものである。

 平成三年度よりは、国税モニターに選出されたが日本の国債残高は大きく、国債費の支出の多きを憂えるものである。如何に政治的配慮であっても、民豊かになった今日、この問題は避けて通れぬもので、解決されねばならぬと提案したいと思っている。

 ロータリークラブにしても、昭和三十三年に土浦に設立されると、創立会員になったが、会長になったのは「つくば科学万博」の時で、世界から日本全国から、ロータリアンが来ると云うので、日曜祭日以外期間中毎日開催せよと云うことであった。当時、つくば市には、ロータリーがなく土浦が一番近い処であった。ともかく全力を揚げて会員に協力してもらい無事好評の内に完了した。何んとなく英語もインドネシア語も通じた歓びはあった。この後つくば市に、ロータリーを誕生させた。三十年連続百%出席で地区表彰されたがあと二年で三五年になる。その間、大した病気をしなかった為か、ロータリーは「奉仕の精神」と云うが全く昨今は無報酬奉仕の活動のみであるが、年金と給与も少し戴いて食うに困らなければよしとする外ない。

 家内も各種婦人団体長をしていたが、六十五才になったのを期に会長を譲り、顧問に退き、母屋の方を長男夫婦に譲り、家内の名義で買っておいた土浦市内の百坪の敷地に二十坪の家に移る。今迄、お手伝いさんに作ってもらった料理も家内にしてもらい、案外旨いものである。但しあとは私がやることにしている。スーパーも近くにあり、土浦駅と工場の中間にある住宅地で便利である、旧婚生活である。

 四十五才より商売上やらざるを得ず始まったゴルフも一時は熱中し、ハンディ十三までになり、十二月クラブのカップ取り切り戦にも優勝したことがあるが、グランドシニア三年目ともなれば、回数も減り飛ばなくなり、一〇〇を切るのが難かしくなって来た。倉垣君は胃を切ったのに反ってよくなったとか、教えてもらう外ない。然し昨年同級生の葬式に弔問すると奥さんから「御元気でよいですね、主人は定年で退職してから小原庄助さんの生活をして、注意すると、今迄よく働いたのだからゆっくりさせろ、と云って仕方なかったです」と謂われると、まあスコアよりも健康でラウンド出来ればよいかと諦めている。
 但し三十五万で買った竜ヶ崎カントリーが七千万くらいになったのは、ゴルフの思わざる恩恵かと。

 大学時代に「独立展」に初出品して初入選した油絵も、戦中戦後は中断したが、会社が軌道に乗り始めてからは復活し、地元の「市展」「県展」には出品している。三〇号から五〇号くらいまでであるが、プロでないから買って貰う必要がないので自由に描いている。光永八太郎君にこれを譲れと云って五万円で売ったのが唯一である。然しこれは十二月クラブの寄附金に充当した。作品でも子供でも産み育成する過程が楽しみであり、一人前になると離れてゆく。

 旅をしても写真にとったものは印象に残らぬが、スケッチしたものはよく覚えて作品にもなる。
 東京の「あひる会」と云う絵のグループに入れてもらい、月二回、裸婦クロキーをしている。木島利夫君の紹介で経済同友会の洋画部に入れてもらい、又如水会の洋画部にも入会して描く機会を多くしており、時おり東京で展覧会をしてクラスの方々に見て戴いて感謝している。よい風景、よい裸婦を見て描くことは最大の法楽である。

 書も孫が小学校に入ってから「書初め」を教えてくれと云うので五十年振りに始まった。中学時代に「泰東書道院」に初出品して「総裁賞」を貰って以来である。どうせやるならと暇をみつけて、近くの社教センターの「書道中級」に入門した。歴史の教科で若干学んだことはあるが、根本的に書き方から隷書を教えられ、楷書、行書、草書や「かな」まで学んでいる。然し絵の様には「近代日本書道」のレベルは未だ分らない。書はその人の風格、思想がストレートに出るので難しいが、雨の日や夜に書いてゆくと漸次書道の世界が感ぜられてくる。
 男女女男の四人の子供達も独立し、三人の男と、三人の女の孫達も目下無事育っている。家庭である。

 今年に入り、お寺の大屋根を葺きかえることになり、寄附集めの為に総代代表にさせられてしまった。いよいよお寺に近づいては、余命奉仕となったのかと感ずる。月日の早きこと矢の如しと云うが、誠によい同窓、先輩、後輩に恵まれた日々も五十周年になる。友よ、大東亜戦争にも死なずに生きぬいている我々であるから、お互に健康に心掛けて今後も生きよう。

 現在、自由時間に恵まれた第三の人生を有意義に過している。

  シンガポールより帰国、四十五年目の二月十一日記。