2組  新宮 徹也

 

 (一)

 七〇年を越すわが人生を振返ってみて、未だに鮮烈な印象で憶いおこされるのは、あの敗戦の年に大興安嶺の山上で仰いだ、初秋の空の底知れぬ青さである。そのときぼくはいちど死んでしまったといってよい。しかしまた、それから一ヶ月余りの敗戦行の間には、何回となく死に損なった挙句幸いに生きながらえてきたのだが、これらの経験が強烈だったせいか、それから先の人生は余生なのだと割切ってしまいたい気持を抑えることができないのである。これでいよいよおしまいだ、と観念したのが十三回。戦后暫くの間は各ケースをまざまざと覚えていたが、四十数年を経た今では大部分を忘れてしまった。

 その敗戦の夏というのは、ぼくの属する関東軍直轄師団は、満州の西方蒙古との国境を守っていたのが、ソ連との開戦后数日を経ずしてその戦車部隊に包囲され、殆ど一日で全滅させられてしまった。そのとき戦車の猛撃を免れて生き残ったものが夜になるのを待って、三々五々ソ連の野営地を潜り抜けて興安嶺の山上に辿りついたのだが、ぼくは開戦以后殆ど固型物をとっていなかったこともあって、極度の疲労で倒れてしまった。夜が明けたが起きられそうもない。底知れぬ青空を仰いで考えた。空気は澄明で快い。この辺りは緯度も高いので、学生時代に読んだ例えばヘッセやマンの小説を思い起こさせる風景である。この美しい山上でこの青空を仰ぎながら死ねれば文句は言えない、満足である。どうせこの馬鹿な戦争が了る迄生きていることはあるまい。言い換えれば、生きて戦后を見ることなど到底できはしない。同じ死ぬのであればここで死ねれば十分だ。そう思いながらうとうとしていたら兵隊にゆり起こされ、牛缶と乾パンを少し貰った。身体に泌み込むような気持でそれを食べたのだが、旨かったこともさることながら、驚いたことにそれからすぐにむくむくと元気が湧いてきたのである。起き上って周りの兵隊を集めてみたら三十名程で、将校はぼくひとりである。こうなっては主計であっても指揮をとらねばなるまい。とも角、関東軍から命ぜられているように、新京へ向って転進するほかはないので一同を集めて歩き出した。

 平地に下りればソ連軍につかまるので、興安嶺の尾根伝いに東南の方へ向った。磁石も持っていなかったので、朝、太陽の出る方角をみて大体の見当をつけ、いくつかの嶺を上ったり下ったりして、興安嶺を抜け出るのに一週間近く掛った。漸く平地に出たがもうソ連軍も殆ど見えない。しかし最初の間は警戒して、昼間歩くのを止め夜間歩くことにした。雨の多かった年でぬかるみの処が多く道もそれほど定かではない。ぼくが先頭を歩きながら時々点呼をとるが、うしろから戻ってくる番号を聞くと少しずつ欠けていることがある。どういう風に落伍して行ったか、真暗ななかでは確認の方法もない。

 八月下旬に入った頃になると、開戦当時からよく飛んでいたソ連の飛行機の姿も余り見かけなくなり、どうも様子がおかしい。しかし出会った農民に訊いてみても状況ははっきりしない。日本が負けたなどとは勿論言わない。

 この頃には多少図々しくなって夜寝て昼歩くことにしていたが、ある部落で珍しく宿営したときのことである。部落民の話では、そこから歩いて一日行程ほどの前郭旗という町に、大ぜいの日本兵がロシア兵と一所にいるという。あくる日早速そこへ行って状況を調べて見ることにした。朝その部落を出発し、暫く歩いて一休みしていたときである。ふと見るとソ連兵らしきものが数十名、がやがや喚きながらこちらへ向けて駈けてくるが、手に手にマンドリンのような自動小銃らしきものを持っている。これは昨夜泊った部落民がソ連兵に告げ口したに違いないと咄嵯に思った。昨夜ご馳走になったとき屯長が、ぼくの拳銃をくれないかと頼んだのに、素気なく断ったことなどを思い出した。われわれの休んでいた処からは見えない斜面の陰の街道に、ソ連の自動車部隊が駐まっていたらしい。

 いよいよソ連兵が近くに迫ってきたが、何もない野っ原では逃げ隠れはできない。多勢に無勢であるし、また持っている武器も比較にならない。ぼくはここではとりあえず手を上げて捕えられようと決心して一同に命令した。しかし慌てた兵隊のなかには、その辺にある干草の山(円錐形に三、四米の高さに積み上げたもの)のなかにもぐり込んだのが何名かいたが、やってきたソ連兵は、あとで干草の山を片端からきれいに掃射してしまった。

 ソ連兵に捕まえられたのは合計十二名であった。勿論武装解除されて部隊本部に連れて行かれたが、部隊長と思われる准将がぼくの腕時計を取り上げ、それが裏蓋が硝子か何かでなかが透けて見えるようになっているのを珍しそうに眺めて、ぼくに一寸ウィンクをしてみせた。そのあとわれわれは、トラックに乗せられてある部落に降ろされたが、出てきた屯長以下の部落民に銃と弾薬を渡して何か指図をしたあと、ソ連の自動車部隊は出発してしまった。(あとで分ったことだが、前郭旗にいた日本兵の部隊はその二、三日前に移動してしまっていてぼくらの仕末に困ったものらしい)。

 見ていると部落からは、スコップを持った連中が出てきて穴を堀り始めた。穴はわれわれの数だけあるらしい。うしろ手に縛られた一同は一列縦隊に並ばされて穴の方へ向った。われわれを監視するための男は銃を構えてはいるが大分離れてついてくる。このときぼくは最後尾にいて前の兵隊に、「それぞれ前の兵隊の縄を口で解けるように手伝ってやれ。あとで一列に並んだら銃を射ってくる前に逃げだすが、ぼくと同じ方向には絶対に来るな、纏まると当り易い、バラバラに逃げろ、ぼくはずっと向うの高粱畑の少し高くなった辺りに夕方迄には行っているからそこへ集まれ。敵は弾丸が惜しいから余り射ってはこないから安心しろ」と口伝てに伝えるようにした。ぼく自身のうしろ手の縄は最初からうまく加減していつでもとれるようにしてあった。

 横一列に並べられて六、七米ほどの距離から一名ずつ射手がついて狙いをつける頃を見計らって、行けっ、と逃げだした。連日の雨で踝(くるぶし)辺り迄水の溜まっている処があり足をとられて旨く行かないが、弾丸の方も、走りながら射つのだから簡単に当るものではない。その夕方近く十二名のもの全員が、擦り傷一つ負わずにぼくのいる高粱畑のなかに集合してきたときはさすがにほっとした。

 もう武器は持っていないので、なるべく早く着ている軍服を処分して軍人から脱皮する必要がある。その夜の内にできるだけ遠くの部落迄歩いて衣服の交換をした。農民にとっては軍服などは高級な衣料であるが、代りに手に入れて身にまとった満人服は虱だらけ、悪臭紛々のひどい代物であった。それから暫くの間悩むことになる。

 興安嶺から約三十名を連れてきて生き残ったのは十二名である。夜行軍の途中で落伍したもの、一寸した馬賊に襲撃されて殺られたもの、干草のなかで殺されたものもあれば、途中、黒龍江の上流と覚しき河を渡るのに溺れ死んだのも二、三名いる。それはこうだ。歩いていて日が大分西に傾いてから河らしきものにぶつかった。土堤のようなものはなくてある場所から急に深くなって水が流れている。後戻りしようにも踝辺りまで水がついている処を大分長い間歩いてきたあとなので今更引返せない。どうしても渡ってしまいたい。一〇〇米ほど向うには土堤らしきものが見えているのでそこまで行けばよい。元気のよい兵隊がまず這入って泳ぎ始めたが、草が足にからんだのか直ぐもぐってしまって見えなくなった。次の兵隊も同じようにもぐって見えなくなり一同すっかり竦んでしまった。止むを得ずぼくが軍服を脱いで泳ぎ始めたが別に何のこともなく対岸に着いた。もう一人兵隊が渡ってきたがあとはこない。真赤な大きな太陽が地平線に沈んでしまった。日が暮れて急に寒くなった。殆ど裸に近い恰好でズブ濡れなのだがどうにも仕様がない。八月といっても満州の夜は冷えるので背中をくっつけ合って夜明けを待った。日が出るまでの長かったことがいまだに思い出される。日が出て暖かくなってもブルブルと震えてどうしても止まらない。一同が何とか勢揃いし、歩き出して震えが止まるのに随分時間がかかった。

 さて、ぼろぼろの満人服に着換えた十二名だが、うち朝鮮人が六名いる。あの年に初めて徴集した朝鮮人の初年兵である。ところが運よく近くに、朝鮮人の開拓団がいることが分ったのでそこへ連れて行った。真暗になってから開拓団に着いて六名を引渡すとみんなから大変喜ばれた。粟を炊いてご馳走してくれたのだが、真暗のなかなので白米と間違えて食べた。非常に美味かった。

 それから新京(長春)迄まだ数日かかった。武器が全くないので、農民につかまってなぶり殺しにされる心配はあるが、もう安心して最短距離の鉄道線路を歩くことができた。最后には無蓋車に潜り込んで長春に入ったが、もう秋の気配の濃い九月十五日であった。一ト月以上掛ったことになるが距離にして五、六〇〇粁は歩いたことと思う。最初の三十名程の人間が最后は十二名(六名)になった訳だが、一応天候にも恵まれ、腹が減れば畑の玉蜀黍をとって食べることができたのは何にもまして好運であった。

 長春の町は地方から逃げ込んできた日本人避難民でごった返し、また、町を占領しているソ連軍は囚人部隊がだいぶまじっていると噂されている割には、暴力はそれほど振わなかったものの、どういう訳か日本人に対する掠奪強姦は極めて激しいものがあった。しかし一般的にソ連兵は朴訥で田舎ものといった人間が多く、彼等に支給されている食糧を見ても極めて粗末なもので朝夕二回、スープと黒パンだけ、といった程度であった。しかし寒さにはべら棒に強くマイナス三〇度位は平気で、また何分板かと思われる厚い板を簡単に膝でへし折ってストーブにくべたりしているのを見ると、体力的にはとても敵わないと思った。日本人と比べると、犬で言えばスピッツと秋田犬位の違いがあり、こんなのとやり合わなくてよかったとも思ったものである。

 満州には結局四年間いた。大興安嶺のなかのハロンアルシャン、ウサコウのほかは、ハルピン、チチハルと移ったがやはり興安嶺のなかでの生活が懐しい。零下四〇度を越し遙かに狼の遠吠えを聞く冬の寒さと、一斉に草が萌え花が咲き揃う春と短い夏は忘れられない。蒙古に近い丘稜には、ノロという鹿のような動物の大群がよく見られた。どうせ軍部がのさばっている真暗な内地に帰りたい気持はなく、休日などには、昼間から薬缶に酒をわかして呑みながら、ひとり本を読むことが唯一の楽しみであった。

 (二)

 (満州の敗戦行で、十三死に十四生だったなどと一途に思い込んで、これからあとは余生なのだと考えていたことも、今となってみれば多分にマンガチックに見える。しかし、ひとの生死の問題は一概にそれは間違いだなどとは言い切れないところがある)。

 戦後、もとの会社に戻って勤めはじめたが、帰還后直ぐ結婚したこともあって好き勝手なことはできなかった。しかし、会社及び会社生活に対する不満は強く、もっと違った人生を歩むべきではないかという命令のようなものが、絶えず心の底にうごめいていた。同じ会社にいた川崎文治が勿々に会社を辞めて、それ程はっきりはしない新生活に踏み出して行ったときも、何か惹かれる思いがして惑わされたものである。しかし家族を抱えたからには、余程の自信と勇気がなければ新しい道にとび込むことはできず、結局は安易な道を選ぶほかはなかった。そのうちには世間一般の会社人間になり切ってしまい、家庭を顧みない仕事一途の生活を続けることになる訳だが、唯一の救いは、暇を見ていろいろの本を読み漁ることで僅かに精神的な解放感を得ることであった。しかしいつまでも内心ではウジウジと考えていたものらしく、四〇才になったとき、不惑というのは「惑わず」ではなく、「惑えず」なんだと観念したことを覚えている。

 そんなことで三〇台四〇台は多忙のうちに過ぎたが、相当無茶をする割には何とか医者にはかからずに済ませることができた。だが実際は、年中どこか具合が悪くて、若し医者に診せれば、そこだけではなく立ち所にいろいろと摘発されて収拾がつかなくなるのではないかというのが現実であった。

 それが五〇才になる年の正月のことである。その前年の暮に一ヶ月許りソ連に行き帰りにタイヘ廻ってきたのだが、プラスマイナス六〇度の温度差もあって、すっかりくたびれて正月は寝て暮した。出社して三日目、正月のパーティーなどに疲れて帰宅して夕餉の座に坐った途端に鼻血を出した。しかも並の鼻血ではなく噴き出すように出て瞬く間に小さな洗面機に一杯になった。慌てて近所の医者に来て貰い注射などして漸く止まったが、医者いわく、運が良かった、これが脳の血管だったらおしまいだった、という。それからあと、鼻血が止まるのには数日かかった。血圧が高いのは前から知ってはいたが、これを機会に漸く薬を飲み始めることとしたものである。

 それから数年あとのこと。食欲がなくなり、黒便が出る、からだがだるい。ゴルフをやるのも億劫になってきたのでどう仕様もなく医者に診せたところ、ひどい胃潰瘍だという。相当出血しており、もう少しで胃に穴があくところだ、即日入院、というのが、近くに住んでいたので何とか通院で勘弁して貰うこととし、朝と晩に点滴を打ってあとは会社に通うこととした。幸いなことにまずは順調に体調は回復、顔色もよくなって三週間程で快癒した。

 これらの高血圧と胃潰瘍はいずれも、三〇台四〇台に相当な無理を続けてきた結果が表てに出たものであって、こんな具合に癒ったのは誠に運がよいというほかはない。あるいは命を失くすかもしれないところを助かったのだから、恰度、満州で何回も死に損ったことを考え合わせると、もともとぼくは悪運が強いのだと、変に自信のようなものを感じ始めていたものである。ところが悪運の強さも、そうは問屋が卸さなくなった。

 五七才の初秋である。
 風邪を引いたがなかなか治らない。鼻水や熱はなくなったが、声が嗄れ始めていつまで経ってももとに戻らない。もともと大した声ではないので余り気にもしなかったが、まさかという気もあったので専門医に診せた。吸入などして何回か通っていたが、結局ははっきりしないままガンセンターへ行くよう勧められた。ガンセンターでは、初期のガンだから放射線治療で簡単に治るという。したがって年が明けてから毎日通い始めた。真冬の早朝、寒いなかを例の金田中などの裏側を眺め采女橋を渡って築地のガンセンター通いを続けるが、一向によくならない。三月になって許容量一杯のレントゲン照射は了るが状態はよくならないまま、却って放射線の後遺症に悩まされ、そのうちに腫瘍が肥大して呼吸困難になり始めた。これでは手術をするより仕方がない。いよいよ最悪の事態である。さしもの悪運もいよいよ尽き果てたかと観念しはじめた。

 さて遂に喉頭の全摘手術をやることになったが、医師からは声帯をとっても食道発声という方法があるから安心するようにとのご託宣である。しかしぼくには、食道で声を出すような器用なことは到底できそうもないし、また声のない人生を生き延びても仕方がないから、いっそ手術が失敗して死んでしまった方が簡単だ、などと肚をくくっていたものである。ともあれ、この手術前の、放射線で何とか治らないかと切望しながら、その希望が叶えられずに日ましに悪くなって行く暗澹たる何ヶ月かが、前後を.通じて最もやり切れない期間であった。

 しかし実際に手術を済ませてしまうと、どういうわけか夜が明けたようにさっぱりした。生きていることの素晴らしさが痛感され、新しい人生をやり始めようという決心がついた。だが、頭では分っていても摘出手術をすると直ちにその瞬間から声を失ない、俄か唖になるということは、かなり厳しい現実ではあった。

 手術のあとは、下頸部に明けられた気管孔から直接に外気を呼吸することになる。一方、口の方は食道から胃に通じるだけで呼吸とは全く関係がなくなるのだが、このことからいろんな事態が派生する。鼾はかかなくなるし、ものを急いで食べても気管につまるということはなくなるが、口から入る空気の流れが簿くなるので鼻の奥にある嗅覚を刺激することが少なくなり、したがって臭いには極めて鈍感になる。また、煙草を吸っても肺には行かないから、喫煙による肺ガンの心配はなくなるというわけである。

 変なもので、折角一命をとりとめたのだから、手術のあとこれからの余生では、健康に悪くても楽しみは一つでも多くとっておこうという気持が強くなり、続けていた煙草も止めないことにした。しかし煙草を吸っても気管や肺に行かず味わいが大分減ずるので、シガレットをパイプに切替えることにした。昔は強過ぎて吸えなかったものが、やってみると実にうまい。

 ぼくの属しているゴルフクラブの、ときどき一所にプレイするひとのうちに、やはり喉頭ガンに罹ったというひとがいた。そのひとは、放射線で治ったので助かりましたと言ってぼくに同情してくれていたが、何年か経つうちに再発して結局喉摘手術を受けることになり、ぼくと同様食道発声の練習をする破目になった。大分旨く喋れるようになったと喜んでいたら、そのうちに見えなくなった。結局、手術が遅かったため他に転移して亡くなられたのである。人の運命は全く分らない。

 (三)

 食道発声で一応日常の用は足りるようになったものの、一人前の仕事をするにはどうしても無理が出る。この際却ってこの機会を利用して好きなことをして暮したらどうかと思うようになった。ぼくは子供の頃から将来の夢として、一日中本を読む生活をしてみたいという変な考えをもっていた。これは誰の影響というものではなく、あるいは幼少の頃に早く父を亡くしてしまったことが一つの原因になっているかもしれない。ともかく世間一般の立身出世というような道筋は自分のものではないような気がしており、ただ本を読んでさえいればよいという少年であった。(もっとも野球ではいつもピッチャーで遊びの方も一人前ではあった)。

 いずれにしても今となっては一人前の身体障害者であるということも手伝って、読書一辺倒の生活を始めても悪くないと思い数十年ぶりに学生時代に戻ったつもりで、朝から本を読むという生活を始めた。しかし本を読むといっても学生時代のようには目的がもう一つはっきりしない。読んで面白い本でさえあればよいとはいっても、そうざらにはないものである。例えば気楽な気持で読む推理小説のたぐいでも、日本のものは大体つまらないから読む気がしない。面白くない大きな理由は、日本のものでは社会や個人が書けないということである。欧米のものは、ともかくも社会や個人がいろんな角度から突込んで書かれているのが多いので興味が深まるが、日本のそれは通り一遍のお座なりの描写だけで面白くも何ともない。これは政治の世界でも言えることで、没個性的な人形のような首相しか出てこない所謂同 質的日本人のもつ宿命ででもあろうかと思われる。

 もともと雑読の癖があるのでいろんな本を読むが、あとから反省してみると、読みながらその都度、YES NO と判定しながら読んでいる傾向がある。これではただ単に、自分自身の考えを確かめるために読むだけのことではないか、とは思うものの、いろいろと読み漁っているうちに、著者それぞれの人生が滲み出しており、このひととならいちど酒でも汲みかわしながらゆっくりと話をしてみたいと、興味を惹かれるひとに出会うことがある。そういう経験ができるというのが読書の娯しみの一つと言えるかもしれない。

 しかしただ本を読むということは、それ自体非常に受動的なものである。反対に何か少しは能動的あるいは生産的なことをしてみたいと思うが、そうかといって本を書くというのも大げさ過ぎる。そのようなことから絵を描き始めることとしたが、これがなかなか面白い。描写の技術というものを別にして考えれば、ひとの絵の違いは、各自のものの見方の相違ということである。また感動の新鮮さが絵に出てくる。しかし強烈な感動を受けて絵を描いたとしても、その感動を絵を見るひとに十分に伝えることは大変難しい。それにはやはり技術が必要で、普通の人間では一生かかっても到底到達できるものではないと思われる。しかし一般には、感動も何もなくて、これが絵です、うまいでしょう、といった所謂売り絵ばかりが氾濫しているのは嘆かわしい。本当に絵を愛するものには、一号いくらの画商の世界は無縁でありまた別世界でもある。

 (四)

 本を読んだり絵を描いたりゴルフをしたり、平凡な毎日を送っているうちに七〇才となった。喉頭ガンをやってから十四年目である。喉頭ガンのリハビリのため毎年一回はガンセンターへ行き、序でに胸部のレントゲンを撮ることにしていたが、この年、胸部に異状が発見された。詳しく調べて貰ったところ、ガンだから入院して手術を受ける必要があるという。初期だから簡単にとれますよ、と担当医はこともなげである。久しぶりに入院かと思った。しかし喉頭ガンのときのようなガンに対する恐怖心は失くなっているので、われながら淡々とした気分であった。ガンの宣告によって一般に受けると思われる悲痛な感情など微塵もないのは、ガン経験者の強さといおうか、不感症というべきか。初期の場合だろうが、大体手術というのは痛くも何ともない。術后少しは不調があるだろうが、凡そ一ヶ月で復調する。それだけのことである。

 以前に聞いた話だが、やはり七〇才を越して七つ目のガンに罹ってまだピンピンしている人がいる由、男性だが乳ガンまで含めて七つである。恐らく身体中傷だらけだろうがそれでも極めて元気だという話であった。但し、本人は本当に生きたくて生きているのか、周りのものに生かされているのか、そういうことは分らない。

 世上よく壮絶なガン闘病記などと宣伝しているのをみると、どうもそらぞらしい感じを受ける。そういうことを言って騒いでいるのは、ガンに罹ったことのない、従ってガンに対する恐怖心だけが一杯のひとに違いない。ガンなど、壮絶な闘病心を持っていたって治る訳のものでもない代りに、早期に手術すれば簡単にとれる。大事なのは早期発見である。肺ガンなどは特に、症状が分りにくく自覚症状もそれほどはっきりしないので、相当進んでから気がつくことが多いらしい。そういう場合は手術も難しく、また他に転移もしているので助かりようがなくなってしまう。最低一年に一回の検診が必要といわれる理由である。

 そんな訳で暑い夏の一ヶ月近くをガンセンターに入院して左肺を切除した。肺機能はその分低下するので以前と同じという訳には行かない。多少の後遺症はある。そういうものも順次なくなって身体も復調してきたので、年が明けて暖かくなればゴルフも再開することにした。ところがまたつかまった。

 三月末、少し風邪気味で熱もあるので臥せていたところ、急に呼吸が困難となった。主治医の指図で生れて初めて救急車の世話になって入院したが、急性肺炎という。切除した残りの肺が炎症を起したのだから普通よりは苦しいのに違いない。経過の途中では、夜半に呼吸が困難となって病院から家内を呼びよせるということもあったが、やはり一ヶ月近くの入院生活で何とか快復した。医者の話で、二つも難病を克服してきたひとだから面子にかけてもこの病気は何とか治させたいと思った、という。二回に亘るガン病棟のときには全然感じなかったが、このときばかりはいよいよおしまいだと思って観念していた。特別に死の苦しみというものはなく、自然に水が流れるように死んでいけると思って安らかな気持で寝ていたが、また治ってしまった。余生があったのである。退院后も暫くは、少し動いても息切れ がして苦しかったが、少しずつ運動量を増やして行き、一ヶ月一寸でスケッチも始め、秋になってからはゴルフも再開した。以前のような訳には行かないが、何とかパートナーに迷惑をかけない程度のゴルフはできるようになった。むしろ、以前は気が短かくてスロープレーのひとと一所になるといつもイライラしてスコアを崩すことも多かったが最近はすっかり落着いてしまった。病気による効用か、老化による自然の成り行きかそれは分らない。

 ゴルフといえばぼくの所属しているクラブに、九〇才半ば近くになってまだゴルフをやっている元気な老人がいる。感心するのは、いまだにドライバーの距離を一ヤードでも伸ばそうと年中新しいクラブを入手していることである。ぼくなどと違ってスコアについても極めて執心で、長いパットが惜しくも外れたりすると跳び上って口惜しがる。長生きする人というのは、諸事こうでなければならないものだと思う。跳び上った拍子にできたグリーンの傷を本人にわからぬようこっそり治しておいたりするのは、長生きのできない方の人間である。

 ともあれ人生というものは、ひとそれぞれのものであってまわりから何を言っても仕様がない。ぼくなども、自分なりに充実したと思う学生生活を了ってから、戦争というものがきっかけになって、あとは余生だなどと、一面から見れば人生を斜めに見て暮すような変な生き方をしていたが、いいかえると、一体どんな人生が一番よいのかという解答がないままに過してきた気がする。それでは、人生とはこうでなければいけないと思い定め、そのように生きて行けるひとが何人いるのだろうか。そう簡単にはいかないのが人生である。しかしまた、そういう風に人生を思いつめるということが、一体どれほどの意味があることなのかどうか、全く分らないのである。