6組故篠原佐己男妻  篠原 久子

 

 十ニクラブの皆様、御卒業五十周年誠におめでとうございます。私は初めて貴会に参加させて頂きまして、盛大な催しと、皆様方の和気あいあいとしたお姿を拝見でき、本当に嬉しく、フト隣に主人がいたなら……と思ってしまいました。

 十二月クラブの皆様には一方ならぬお世話になりながら、何の御返礼も出来ずに月日が経ってしまいましたが、早いもので主人が逝ってから早、数十年が経ち、先日無事二十七回忌を済ませたところです。二人の子供達もそれぞれに成長致しまして、只今長男は練馬の豊玉で二男の父親として、長女も二男一女の母親として元気に暮らしております。

 子供達から手が離れた私は、十年程前に義母を送りまして、現在光が丘のマンションに一人で楽しく暮らしております。然し、ボーッとしてもおられませんので、ボケ防止と健康と少しの余裕を兼ねまして、仕事に精を出しハリのある生活を必掛けております。以上が我が家の近況ですが、家族全員が何事も無く暮らしておりますことを、法要の時に故人に報告できましたことも、皆様方の心強いお力添えのお蔭と心から感謝致しますと共に、今後も宣敷く御指導下さいますよう、改めてお願い申し上げます。さて、主人のことを何か書いて下さいと頼まれ簡単に引き受けたものの、何から書いて良いのか頭の中が少しもまとまらず、何ヶ月も過ぎてしまい締め切りも迫ってようやく重い筆を持ちました。年の経つのは早いものですね。結婚してアッという間の四十年でした。改めて思い起こせば楽しいこと、苦しいことがまるで日記のぺージをめくるように一つずつ思い出されます。

 私が主人と一緒に生活を送ったのは十四年間でした。私はわがままで、いつも主人を頼りにしていました。二人の年はひと回りと少し違いましたので「久子がオギャと生まれたとき、僕は中学生になったのだよ」と言うのが主人の口癖でした。しかし、私はあまり年齢の差など感じておりませんでした。

 私達は昭和二十六年八月にお見合をし、その三ヶ月後の十一月二十四日に結婚致しました。

 お見合の日は父と二人で上京し、日本橋の三越で主人の勤務先の三井化学に電話した訳です。三井館が三越の向い側なのですぐ来ると思っていましたが、父と待つこと一時間……。父は「待たせる奴だなあ」と言っておりましたが、私は今考えてもいやな気分など微塵もなかったように思います。

 やっと現れて「いやいや、ドモドモすみません」などと少し外人じみた話し方が第一声でした。父と私がホッとしたのも束の間、「食事にしましょう」と食券を買うのにまたまた数分間、父は「よく待たせる奴だな」とぼやいておりました。

 ようやく買えた食券を手に主人はニコニコと近づいて、「いやいやお待たせしました」と言って私を見て「お腹が空いたでしょう」と、なんとお皿に山盛りの、かた焼きそばを取ってくれました。一応お見合いの席なので「久子さん、御趣味は?」なんて聞かれ、「音楽と旅行」だなんていい加減な事を答えたことは覚えていますが、その他のことはほとんど忘れました。それでも焼きそばだけはおいしくて大盛りをみんな平らげた事を記憶しております。その影響か今でも私はかた焼きそばが好きです。

 その時の主人の印象は、優しくて、頼もしくて、素晴らしい方だと思いました。欲を言えば背丈がもう少しあったらいいのに、などとおもいましたが……。私は何か電気にしびれているような、天にも昇る心地で幸せでした。

 そのお見合いの日は本当によく雨に遭いました。食事の後「それでは皇居にでも行きましょう」と歩いて皇居の近くまで行った時、にわか雨がザァー。桜田門辺りで雨宿りをし、雨の止むのを待って歩き始めるとまたにわか雨。今度は日比谷公園の物置で雨宿りをして歩き出すとまたまた雨。あまり雨ばかりなので主人が「私の家に参りましょう」とそのまま初対面の日に主人の家に父娘で一晩ご厄介になった次第です。後で父は「こんな見合は初めてだ」と言っておりました。その時は東京に三日間ほど滞在しましたが、主人と三日間しっかりと一緒に行動しました。三人で「我が生涯の最良の年」という映画も見ましたが、私は正直言って内容は全然覚えていず、ただ父が感動して泣いてるのを二人で笑って見ていたことだけを思い出します。懐かしい、私の秘めたる思い出です。

 結婚してからは主人は私を本当によくかばってくれました。主人の母はそれこそ明治女を代表するようなしっかりした素晴らしい方であると共に、佐賀錦織りで日展に入選され、皇太后様にお買上げ頂く程の腕を持たれた芸術家でありました。それゆえに私など足元にも及ばず、なんとも苦手な存在であった訳です。母にしてみれば私が本当に歯がゆく、皆様に自慢できる嫁でなかったので、ついついきつい口調になったものと今なら思えますが、当時の私としては泣くような場面が沢山ありました。その度に主人は二人の間に立ち、私の肩を持ってくれました。母と私は、主人亡き後は犬猿の仲になりましたが、十四年間共に暮らし、九十才という高齢で大往生を遂げるまで見届けました。

 子供達が幼い頃は夏になるとよく大貫の三井化学の寮に行き、三泊四日位で海を楽しみました。今でしたら車でどこへでも荷物を積んで行けますが、その頃は車はなし、子育て中でしたので大荷物を抱えて大騒ぎで出掛けたものです。

 海岸を二人で走りっこしたこともあります。主人はお腹も出ているし、当然私のほうが勝つものと思っていたところ、あにはからんや私よりずっとずっと早くて驚きました。さすが、プロの野球球団に声を掛けられたというだけあると改めて感心しました。主人は野球だけでなく、サッカー、テニス、ゴルフ、卓球と球のつくものはなんでもやりました。特にゴルフは大好きでゴルフに行く日などは嬉しさで朝早く目を覚まし、体は家にいながら心はもうゴルフ場へ飛んでいるという始末でした。

 主人は常に英語の字引を持ち歩き、英語も一級の資格を取って頑張っていました。それに、いつも赤青鉛筆で何やら本に線を引いて勉強していました。大体が本の好きな人でしたから本が手から離れたことがなく、皆で出掛けても必ず本屋さんに寄ったものです。

 また主人はタバコが大好きでした。亡くなった娘が父の日にタバコを一個プレゼントしたのにすごく感激して、学校のお便り帳にそのことを一生懸命書いて先生に報告したこともあります。そんな主人でしたから「僕がタバコを吸わなくなったらおしまいだよ」と常々言っておりましたが、本当にその通りでした。亡くなった後見ますとタバコが十個位並んでおりました。

 日曜日の主人はゴロゴロとしている事もありましたが、子供達を連れてよく学校の運動場に行き、毬の投げっこなどをして遊んでくれました。

 毎日混み合う電車に乗って日本橋の室町まで通勤して、大変な疲労だったでしょうから、もっと休ませてあげればよかったと、主人亡き後すぐそこの池袋までパートに出た私が我が身をもって痛感しました。深い反省も感謝も亡くなってからでは遅いのですが……。まだまだ主人の思い出はあります。

 昭和三十一年に義父が亡くなり親威一同との墓地からの帰り道、電車を降りてホームを歩き始めた時主人がいきなり「健郎(幼かった長男)がいない」と騒ぎ始め皆も私も一瞬驚きましたが、「ご自分でだっこしてますよ」と誰かに言われ大笑いしたこともありました。耳に鉛筆を挟み、鉛筆、鉛筆、と探してるようなもので灯台もと暗し、ということです。

 こんな主人でも苦手なことはありました。それは大工仕事と掃除です。なにか作るときは「こんなの朝飯前だよ」と言って材料はしっかりと揃えさせて取りかかるのですが、そのうちに「あれを持ってこい、これを持ってこい」といろいろ指示をし、それでもなかなか出来上がらず挙句の果ては中途半端のまま子供達とどこかへ行ってしまう始末で、いつも私が後を引き受けて仕上げたものです。大掃除などはいないほうがどんなにかきれいに早く終わることができたことか……。

 その他、主人はデパートの食料品売り場に精通しているという面白いところもあって、何がどこで売られていて彼処のこれがおいしいとか本当に良く知っている人で、一緒に買物して歩くとこちらの方が面倒臭いほどでした。そんな訳ですから、たまには土曜日などにデパートから電話をかけてよこし、お肉や刺身を買って帰ってくれました。しかし、家庭料理にはうるさくなく、私の作るものはなんでも喜んで食べてくれました。

 また人には大変親切で「此処へはどうやって行けば良いのですか?」などと聞かれたりすると懇切丁寧に地図を描いて教えてあげ、皆様から大変助かったと喜ばれたものです。

 家族の写真を撮るためのカメラは今のようなバカチョンではなく、二眼レフを使っていたので距離を測り日光を調べてと、とても時間がかかったものです。それで、チョコチョコ動き回る子供を撮るのに大弱りしたことがあります。

 いろいろと思い出を振り返ってみても、主人は、私には過ぎたる人でした。最後まで私を愛し、子供達を愛してくれました。とても責任感が強く、優しい抱擁力のある人で頼りになりました。しかし、あまりにも人間がデリケートに出来ていすぎたために他人の事ばかり一生懸命心配して……。亡くなった直後は私を残して先に逝くなんて、と恨めしく思いましたがそれも運命とあきらめ、近頃では私は楽しく、元気一杯主人の分まで、生きれるだけ生きて生きて生き続けようと決意しました。子供達からも誰からも好かれる良いお祖母さんになろうと思っている今ですが、それにはまだまだ修行が必要です。

 私が書いたものは、本になど戴せるような物ではありませんが、主人の思い出をとりとめもなく恥を忍んで書かせて頂きました。

 主人を亡くしまして一層、十二月クラブの皆様の暖かい御友情が身にしみ有難いことと感謝致しております。どうぞ皆様も御健康にくれぐれも御留意なされ、一日でも御長命であられますように心よりお祈り申し上げます。

 そして六十周年もお元気に集われますように祈りつつ筆を置かせて頂きます。