1組  末永 隆甫

 

 われわれ十二月クラブの学友たちは、皆さんよく御承知のように、昭和十六年十二月八日未明の日本海軍による真珠湾奇襲攻撃を機に、最初の繰り上げ卒業を余儀なくされ、予定より三カ月早く、昭和十六年十二月末に卒業することになった。

 その後に待っていたのは軍隊への入営であり、私も昭和十七年二月一日付けで姫路師団の輜重兵連隊に入隊することになった。当時日本陸軍の輜重兵部隊は自動車部隊(トラックによる輸送を任務とする)と、輓馬部隊(馬車による輸送を任務とする)とに分かれており、私は何の因果か輓馬部隊に入隊することになった。大学を卒業するまで馬を見たことはあっても触ったこともなかったので、入隊早々下士官に引率されて馬房に入った時には、馬が横一列に尻をこちらに向けて繋がれているのを知り、蹴られはしないかと冷汗の出っぱなしであった。

 しかも入隊早々の初年兵の日課は、朝起床ラッパで眼を覚ますと、早速馬房へ駆けつけて自分の担当の馬を外へ連れ出し、馬房の外側につくられたコンクリートのたたきの杭に馬をつないで、馬の皮膚をこすって馬を綺麗にし、蹄洗(蹄をきれいに洗う)をしてから馬に餌を与え、その仕事が終ってから自分の顔を洗い、やっと朝食にありつける、というものであった。

 この日課が雨の日も風の日も、暑い夏も寒い冬も、毎日々々続いたのである。このような生活が私の場合丸々三年以上も続いたのである。何のために大学で勉強してきたのか。初めのうちは全くやりきれなくて、病気にでもならないかと思ったことも屡々であったが、意外に体力の方はタフでなかなか病気になるどころか却って体力増進するような始末であった。「世の中うまくゆかないなあ」と慨嘆すること屡々であったが、そのうち半ば諦め半ばは日課の忙しさにまぎれて、コマゴマと考える余裕もなくなってしまった。惰性というのは恐ろしい。

 入隊後半年位後に幹部候補生試験というのがあった。われわれは入隊当初大学出や高専出ばかり二〇〇名程、幹部候補生要員として入隊したのであるが(四つの内務班に編成、したがって一内務班の人数は約五〇人)よほど欠陥がない限り殆ど全員がこの試験に合格して、甲幹、乙幹としてそれぞれ幹部になってゆく仕組みであった。私の場合は幹候試験は受けさせて貰ったが、結果はアウトであって「将校」にも「下士官」にも不適と判定され、「兵隊」として留めおかれることになった。後で中隊長からのお達しでは、その理由は大学時代における教練の成績の悪さと、配属将校からの内申書の悪さにあったという。お蔭で私は丸四年近い軍隊生活を、最後まで兵隊で過ごしたわけであるが、兵隊として残ってみると、私の周囲にいる同僚の兵隊たちは農民(それも貧農)であったり、大工さんであったり、自動車の運転手さんであったり、要するに高学歴でない普通一般の労働者たちであった。

 これらの人々と同じ内務班で毛布にくるまって毎日頭を並べて寝るわけだが、面白いもので慣れるにつれて、彼等の性格や軍隊内での日常生活への対応の仕方などがそれぞれに異なるのが分かってきて、いわゆる戦友というに値する者も出てきたのである。これは学歴のちがいを超越した人間性の確認であったかもしれない。当時「軍隊は階級社会の縮図である」といわれていたが、あまり高い学歴をもっていない兵隊仲間がそのことをよく知っており、軍隊内での階級差による命令系統の維持が、いかに表面的で脆弱なものであるかを強く認識させられたものだ。

 最近東欧やソ連で進行している体制崩壊の過程を見るにつけ、かつての日本軍隊での経験を思い出す昨今である。
 くわしい話はいづれまた機会があれば披露しましょう。今回はこれにて打ち切り。