7組  菅井 淑行

 

 諸々のみ仏の中の伎芸天何のえにしぞわれを見給ふ

 境内の一隅に川田順先生の歌碑が建っている。先生は、住友本社の理事として経済界で活躍なされたが、歌人としてさらに名高い。
 日光・月光両菩薩を脇侍に随えられた本尊の薬師如来さまを始め、帝釈天・地蔵菩薩・不動明王等、数多くのみ仏のみそなわす中で、東洋のミユーズとまで云われる美女の熱いまなざしを身一杯に浴び、さすがの順先生も胸の動悸をかくしきれなかったに違いあるまい。
 このとき、先生のお傍に、若くして、教養豊かな美人の奥様が寄り添っておられたか、どうか、勿論ぼくの知り得るところではない。

 ぼくが初めてミユーズにお会いしたとき、彼女は頭を心もち左にかしげ、ややうつむき加減の伏目がちの姿で須弥壇に立っていた。このポーズは、お堂が建てられた遠い昔の日から少しも変っていない様である。
 いくばくかの憂いを含んだ、深い彫のあるまろやかなお顔の美しさもさることながら、あらわとも見える胸、軽く折り曲げた両手の指、それに下半身を覆う衣裳の流れが何とも云えない。奈良時代の乾漆造りの頭部と、鎌倉時代の木彫りのお体が一つになり、何等の違和感をも覚えさせない。まさに絶妙のハーモニーと云うべきで、さすが運慶ほどの名工ならではのことである。

 今日は近くの競輪場も休みの日らしい。
 近鉄の大和西大寺駅から、車なら四、五分、歩いてさえ来られる程の道のりと云う近さにもかかわらず、この寺の界隈は、静かな、静かな里の秋である。
 ふたまたぎもすれば登りきって了う程の石段を、一段、一段と踏みしめてからぼくは東門をくぐった。
 秋篠寺は、宝亀十一年(西紀七八○年)七十二歳の老齢になられた第四十九代光仁天皇の勅命により、法相宗の僧善珠が開いた千二百余年の歴史を持つ由緒ある名刹である。
 光仁天皇は、天武系最後の女帝となられた阿倍皇女(孝謙・称徳天皇)崩御のあと、六十二歳と云う年齢で思いがけずのみ位に即かれた。左大臣藤原永手・内大臣藤原良継らの強い推朝によるところが多い。父は、天智天皇第七皇子である志貴皇子、母は紀諸人の娘橡姫である。志貴皇子は、天智の歌才を受け、万葉集にも数々の名歌を残している。

 秋篠寺は、奈良時代の官寺とは云うものの、開基の翌年には光仁天皇が崩御され、また、数年後の延暦三年(七八四年)には、恒武天皇による長岡遷都が行われたりしたため「咲く花の勾うが如く」栄えた奈良の都も「世の中は常なきものと今ぞ知る奈良の都のうつらう見れば」とまで云われるようになって了ったことなどからして、創建当初から悲運の寺と見られている。
 霊泉で名高い香水閣を左に見て、つき当りの石垣の手前を左に曲り、しばらくして右に折れる。この辺りは、藪とも林ともつかぬ状態で、雑草なども生い繁っている。保延元年(一一三五年)の兵火によって焼失した旧金堂の跡地でもあろうか、点在する礎石が往古の繁栄を思い浮べさせる。

 秋篠寺!
 何と云うひびきのよさであろうか。この寺の名を聞くことは久しい。
 ぼくは、幾度か西の京や、佐保路を訪れ、上代人の心にふれてみる機会があった。
 薬師寺の塔を仰ぎ「逝く秋の大和の国」の美しさを心ゆく迄味わいもした。唐招提寺では「大寺のまろき柱」に寄り沿って涙することもあった。西大寺の五重塔基壇では、若かりし日の阿倍皇女の五節の舞の晴れ姿を想い浮べもした。磐乃媛御陵に詣でては彼女の強い嫉妬に悩まされた仁徳天皇の困惑ぶりに苦笑いを覚えたこともあった。しかも、これらの名域から、ほんの数キロと離れていない秋篠寺を訪れ得なかったとは、我ながら信じられない程のことである。

 もう一度右へ折れ、寺務所で拝観券を手にした後、本堂正面に歩をすすめる。
 低い基壇の上に建てられたこのお堂は、東西僅か五桁、名だたる名刹としては、余りにも小さな建物である。聞けば、兵火に崩れ残った講堂を、天平の様式によって再建したものであると云う。鎌倉時代の建築とは思えぬ程のゆかしさも、もっとものことである。
 しばらくの間、本堂建物自体の持つ美しさにみとれた後、堂内へ入ってゆく。かなりの暗さである。しかしながら入口にたたずみ瞳をこらしているうちに、数々のみ仏の姿が次々と浮び始めて来る。
 須弥壇の中央近くまで歩を運んだぼくは、先ず本尊の薬師如来さまの前に最敬礼をささげる。薬師如来さまは、一段と高い台座の上に坐り、大きな光背を背にしておられた。少し怒ったようなお顔とお見受けした。

 ご本尊へのお詣りを済ませてから、ぼくは引き返し、あこがれのミユーズの前に立った。ミユーズの名付親は、故人となられた作家の堀辰雄さんである。
 やっと訪ね得たぼくにも、彼女は他の人々へと同じへだての無いまなざしを送ってくれた。薬師如来さまから叱られた気持ちで滅入っていたぼくは、彼女のやさしい瞳で、ほっと一息つくことが出来た。
 しかし、他面、彼女は
「よく来てくれたわねえ。でも、もう少し早く来ることが出来たんじゃあなくって?」
 と云っているかのようであった。
「申し訳ありません」
 理由はともあれ、形勢は「われに非なり」である。こんな場合、素直にあやまるに如くはない。ぼくは、もう一度頭を下げた。

 秋篠のみ寺におわす伎芸天われ訪れぬ妹が手とりて

 それにしてもミユーズは美しい。暖かい美女である。どうして、もっと早く会いに来なかったのかと悔やまれてならない。
 ぼくは、法隆寺の大宝蔵や聖徳会館で、たびたび百済観音さまのお姿を拝した。中宮寺の古いお堂で、また新しいお堂で聖処女の前にぬかずきもした。このお二方は、いつお詣りしても気高く美しい。しかし、やはり、それは、み仏の美しさである。それに反し、ミユーズは、この世の女性の美しさ、ぼくらと同じ世に生きる生身を持ったひとの美しさと云ってよい。この思いは恐らくは、ぼく一人のことではあるまい。
 あこがれのミユーズに会うことが出来たぼくは、晴れ晴れとした気持ちで本堂をあとにした。

 いまは、秋たけなわ。
 太元堂の明王様をも拝みたかったが、それは叶わぬ希み。織女星では無いが、年に一度、こちらは、「六月六日」の日を待つほかに方法は無い。秘仏とされているからには、やむを得ないことである。再び境内を、今度は南門へ向う。
 どう見ても、冴えない、うらぶれた姿の門と云うほかはない。しかし、建造物の壮大・美麗度と信仰の深さとは、直接には何等関係がない。

 南門を出ると、南へつづく道の両側には、古い瓦屋根の民家が点在している。秋篠の村落である。
 ふと、はるか右手を仰げば、標高六四ニメートルの生駒の山頂には、雲一つとてかかっていない。
 ぼくは、たったいま見たばかりの会津八一先生の歌碑を一語一語かみしめていた。

 あきしののみてらをいでてかへりみるいこまがたけにひはおちむとす

 あれから何度目かの秋が来ている。
 いま、ミユーズは、どうしているだろうか。