7組  杉原 直門

 

 本当に気が付かないままに年を取っているものだなということを、このごろつくづく実感する。一生懸命に生きることに気を取られて、年を取ったなどとは露程も念頭になく、若いつもりで頑張っているが、気が付いてみると、紛うことなく、立派に老人の仲間入りをしているのに、驚かされる。

 一口に五十年といえば長いようであるが、本当にいつの間にか過ぎてしまったような気持ちである。私が住んでいる神戸市は例年の記念行事の一つとして、金婚夫婦の記念と表彰をしてくれるが、私達も昨年はその一組としてその中に加えてもらった。
 昨年の対象者は、昭和十六年に結婚式を挙げたカップルである。私の卒業と同じ年で、もう半世紀も前のことだから、物忘れがひどくなって、細かいところは忘れてしまった年寄りにとっては、遙か彼方のことである。とくに年と共にどこまで忘れるのかと、自分でも呆れてしまうほど、全く不思議なくらいによく忘れる。我ながらあきれるのである。

 そう言えば、学生時代は度々下宿を変わったことは記憶している。なんでも、中央線沿線を三鷹、吉祥寺から阿佐ヶ谷まで各駅を渡り歩いて、西荻にはニカ所もいたことがある。そこまでは覚えていたが、ところがその先、すなわち明細が、とんと分からない。いまさら手軽く調べる術もない。

 そんなとき、ちょうど妻が片付けものをしていて、古い手紙の束を見付けて持ってきた。もう必要はないと思うのだが、捨てましょうかと聞く。捨てるのは、いつでもできるけれども、また作ろうと思ってもいまさら作ることはできないもの、大きくいえば貴重な人生の記録だから、しばらくおいておこうとの結論になって、しばらくほっておいた。
 しぱらくして整理して見ようと、古ぼけた手紙の束の紐をほどいてみると、私から妻宛の書簡百二十三通が束ねてあった。
 往復書簡だから、私が受け取ったものも当然あったはずであるが、いまは紛失してしまって跡形もない。内容を調べてみると、結婚をはさんでの昭和十五年と十六年の丸ニカ年間の手紙である。
 これによると東京の下宿の住所が判明したのは次の四カ所で、このほかに、昭和十四年四月からその年の年末までの間に、下宿したところがニカ所ある筈であるが、記憶には殆ど残っていない。
 記憶力旺盛な人は克明に覚えていると思うが、正直言って忘れてしまっている。どうせ死んでしまえば、結局みんな忘れるのだから、なんて開き直ってみたい気持ちもある。本当に人間の生きることにおける、意識の役割とその大切さというものが自覚される。
 意識のコントロールの重要性は、それが出来なくなってはじめて、どんなに重要なものかが分かって来る。これも悲しい事実のひとつである。

@ 東京都杉並区馬橋四-四四六 中山様 昭和15、1-2(十四通)
A 同  区   大宮前五-二三四 高橋様 昭和15、2-5(二十一通)
B 同  区   井荻二-五六 西荻ハウス 昭和15、6-16、3(四十七通)
C 同  区   荻窪一-三九 黒住様 昭和16、4-16、12(三十三通)

 大学入学が昭和十四年四月だから、その年の十二月まで二回下宿を移転したことになれば、計六回となり先の計算と符合することになる。それにしてもよく転々としたものである。
 暗くなって行く時世の流れに、下宿をたびたび変わることで憂さ晴らしをして、無意識的に抵抗を示していたと言っては正しくはないであろうか。本当にささやかな抵抗であるが、田舎から出て来て活動範囲の狭い一人の学生のやり切れなさの表現であったのであろう。
 手紙は、このほかに卒業後のものとして八通があり、合計で百二十三通となっている。
 この場合の教訓としても分かるように、何かに書いて残しておかないと、記憶は単なる個人的な意識の流れとしてすぐ消えてしまうので、資料保存のためも含めて少し書かして頂くことにする。

 手紙はこまかい字で学校の便箋にぎっしりと書いてあり、少し読み始めてみたが、若いエネルギーが暗い時世の理不尽さのはざまで、自分の愛するものを守るために、精一杯に悩み、自分を納得させて、現実に自分を適合させようとする姿を、そこに発見して何とも心が痛む。
 やがて軍隊に入り、死んで帰れと教育された成果を示すように求められ、相当な確率で死が待っているときに、無力なものはどうすればいいのか。過去の自分を客観視して一人の若い青年に対するような立場で、人間としての愛しさが感じられてくるのである。
 それに関連して、青春の群像たちの苦闘を見れば、痛いほど青春のけなげさと悲しみ、無力感を味わい、それでいて若者特有の透明な明るさを感じて、それ以上読み続けることが、心の負担となるようで、読むのを止めてしまったのであるが。
 平和でなければ若さは花開かず萎んでしまうものだ。そんなことを深く考えさせられてしまった。いまの学生の生活とはまた違った意味で、すなわちいまはハガキ一枚で軍隊に取られて、自分の意志に反して、命を的に駆り出されることはないであろうから、その点だけ見れば大変恵まれていると言えるであろうが、海外派兵のような物騒な動きもあるのだから、一〇〇%安心はできないけれども。
 共産主義、社会主義は崩壊したと言われる一方で、資本主義の害悪は地球的規模に拡大して来て、その打開策、救済策は見付かっていない。これから私達老人は果たして安心して暮らせるのであろうかと心配になってくる。いまのところ年よりは弱いものの立場にあるから、どんどんその皺寄せが弱い者の上にかぶさってきている。見通しは明るくはない。むしろ暗い。
 そんな老人たちを抱えた状況の中で、若者はどのような生き方をすればいいのか、今の若者達のうえに自分の過去を重ね合わせてみて、色々と考えるというのも、良いことではなかろうか。
 このところ、あまりこのようなことを考えることもないのであるが、やはり自分の若い姿を目の当たりにして、一種の精神の高ぶりがあるのであろう。

 現在のような世界の激動の時期に思うことは、資本主義は各方面にわたって腐敗現象が起きており、やがて次の体制に取って変わられざるを得ないであろう。よくは分からないが、学説的には社会主義がこれを引き受けることになるようである。その場合は現在のような間違いだらけの社会主義ではなく、正しい社会主義こそ、これから探求されなければならないのであろう。いずれにしろ老人たちは去って、若い人の世の中になるのだから、本当にしっかりと年寄りを大切にする世の中を作ってほしいと思う。

 入学当時、下宿していた西荻窪の家から電車の駅まで、あまり起伏のない挨っぽい道を歩いて、吸つたゴールデンバットの味が忘れられない。おいしかったな。荻窪の駅はフォームが真ん中にあったので、先に来たほうの電車に乗って、新宿に出るほうが多く、良く講義をさぼったものである。それにしても.今の状況と基本的に違うのは、あまり費用もかからず、比較的簡単に下宿を変わることができたことである。あまりうるさくされるとか、同宿の人達や、家の人達に気兼ねをしなければいけなくなり、人間関係がうるさくなると、その足で周旋屋に行けば代わりの下宿はすぐ見付かり、翌日には引っ越しができるような状態であった。
 ともかく、私達の学生生活は三カ月短縮されて十二月に無理やり卒業させられたために、終わりはまことにあっけなく、慌ただしかった。学生生活の連続のような流れ作業で、集団で軍隊に入隊させられたために、気持ちの上でも若干、学生生活の延長のような点も見受けられた。私たち陸軍の場合は、殆どのひとが幹部候補生となり、入隊後一年で見習士官となって各地の部隊に配属されて行き、二度と帰らなかった戦友も多いのである。生き残ったものとして亡き戦友のご冥福を祈りたい。

 話は始めに戻るけれども、自分もやがて冥福を祈っていただくような年齢に達して、この世にさよならを時々考えるようになった。しかし、この五十年来の同行者である妻に、さよならをする仕方は大変に難しいと思う。先方さんに早くなくなられてしまうと、本当に惨めなものである。どこに何があるかさっぱり分からずに、食べ物もろくにしつらえることは出来かねる。かと言って、自分が先になくなると、これも様にならないのである。対世間の通路が、ほとんど男を中心に動いてきた世の中に生活してきたので、料理・洗濯・炊事以外はあまり得意でないだけに、これも思いやられる。これがお互いの苦の種である。しかし、自然の力は非情であり、人間の気持ちなんかは斟酌してはくれない。自然の法則には逆らうことはできない。気張って見ても今さらどうなるものでもない。
 「あしたはあしたの風が吹く」であり、大愚良寛ではないが「災難に逢うときは災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 これは災難をのがるる妙法にて候」と、生きて行くより仕方がない。

 昨年の九月頃から水墨画にひかれて、独習で毎日画を画いて、悪戦苦闘をしているが、書と画との共通点と相違点についての理解が深まって行くと同時に、技術の蓄積が面白さを増してくれるようで、興味津々である。
 書画同根ということが、頭だけでなく、身体で、腕で分かるようになろうと目下猛練習中である。書も水墨画も共に楽しいものである。これも災難をのがれる妙法のひとつかも知れないと考えながら……。