1組故鈴木(山岡)信義妻 鈴木恵規子 |
十二月クラブの卒業五十周年を迎えられました皆様に心から御祝を申し上げます。 雪富士の茜に染むる一刻(いっこく)を我が窓に入れ今日も暮れゆく 昭和三十二年三月、来る日も来る日も変化の無い三十四歳の胸中に良き人との巡り会いのない歎きを此の歌に詠んだ頃、大仁の姉が「素晴らしい人がシベリヤから帰って来た」と縁談を持って来ました。赤い糸とはよく云ったもので、義兄が銀行の支店長を勤めていた部下に主人の従弟が居り、又私の家の前にあった大橋歯科の先生が乗り気になったのは、其処の技工士の父親が山岡の亡き父と親交があり、山岡の隣りに昔から村長を勤めていた渡辺さんとも親しく、善は急げと気乗りせぬ私の意志もそのまま皆様が私を連れ出して見合いに参りました。所が帰還して三ヶ月四十歳の彼は、大正時代の書生のような白いシャツに着物姿で丸い眼鏡をかけ、白髪が多くゆったりと寡黙な人物でした。当時母が胃癌で東大清水外科に入院中で一ヶ月持たないと宣告されていましたので頭はそちらの方に行って居り、何かぴったりしないまま帰宅致しました。しかし、其の後主人が度々来るようになり、来る度に生き生きと立派に変って行き、母の死に水も取って下さり、知らぬ間に頼もしい信義さんとなりました。「姓は符号であるから鈴木でもよい」と云ってくれまして、結婚以来それは好人物な神の如き人でした。お陰様で二人の息子にも恵まれ楽しい安定した人生を戴く事が出来ました。 追悼歌 シベリヤヘ抑留の貨車の極限を語りて笑みし亡夫(つま)の遠き目 皆様どうぞ来るべき六十周年には全員で万歳を叫んで下さいませ。私も其の時には是非参加させきたいものと存じます。 |