1組  鈴木 貞夫

 

 わが病歴

 私の幼年期から小学校低学年にかけて、他人様で私が最も親しく接触した方の一人は、高橋さんと云う白髪白髯の老医師だった。

 なにしろ一寸したことですぐ胃腸をこわす、風邪をひく。その予防のため母に連れられ、横須賀にあった家から横須賀線・東海道線と乗りついで、藤沢の町まで何回も鍼の治療に通った憶えがある。そればかりではない。両親は私が無事育つよう藁をもつかむ気持でか、私の通称を改めたのだ。今以て年輩の従兄姉たちは私のことを「正ちゃん」と呼ぶことがある。その時の改名は「正一」だった。但し戸籍面での変更はしていない。日常の通称のみである。

 その頃学校での式典と云うと、式の途中で気分が悪くなって倒れるのが通例だった私だが、夏は毎日のように海水浴に通い、他のシーズンには当時、少年達の憧れの的、ヒーローであった鞍馬天狗とか、「鳴戸秘帖」の主人公、法月絃之丞などを気取って、近所の年下の子供相手に裏山を走り廻り、チャンバラにうつつをぬかしていたせいか、多少とも健康になり、三年生、四年生では、どうやら無欠勤の賞状を頂いたことだった。

 この当時、私と同じように式典の途中で倒れては小使室に寝かされる常連の一人に、一年上の美少女がいた。家も私の家から遠くはなく、三山さんと云うヒトだった。なんとなく口を聞き合うようになり、ごくたまには彼女の家を訪ねたりしたことがある。併しこれもクラスの悪童に見つかってしまい、学校で冷やかされる程になったので、はかなくもこの幼い純愛物語もそれきりになってしまった。私が六年生になる時東京に出てしまったが、そのあと聞いたところによると、彼女は胸を病み家の者にも伝染することを心配され、三畳程の小屋を庭先に建てて、そこに彼女一人を移して、食事を運ぶ生活が続いたが、程なく若い生命を亡くしたそうである。時折想い起す少年の日の想い出である。但し名前も顔も忘れて了った。ただ石段を昇った小綺麗な家であったことだけは記憶にある。

 小学校六年生で上京し、それから中学生にかけて悩まされた病気は喘息であった。当時父方の親戚が市電早稲田の終点から一寸入った面影橋の先の処に住んでいた。周囲には染物屋が密集していたし、この親戚も足袋屋を営んでいた。私はしばしばこの家に土曜日の午後から出かけて行った。一才違いの従弟と早大のプールに泳ぎに行くのが目的だった。長さは25メートル、深さも一番浅い所で中学一年生の私がやっと首が出る程度で、水泳部の連中の練習用のプールだった。何回か行ったが水が凄く冷たかったことは今でも憶えている。井戸を深く掘ってそこから汲み出した水だとのことだった。ここでいい加減遊んで親戚の家に戻り一晩泊めて貰うのだが、決ってと言ってよい程その夜は喘息の発作に悩まされたことだった。夏以外でも、つまり早大の冷たい水のプールで泳がなくても、この親戚の家に泊まると発作を起すことがしばしばだった。なにかあの地域の空気が私の気管支に合わないのだと、子供心に判断して、以後この親戚の家には泊まらないよう気をつけたのである。

 中学四年の時だった。例の野外教練で千葉の下志津へ行った時は、余程身体の調子が良かったのか、二泊三日を無事にすませて帰って来た。夏休み直後の九月だった為かも知れない。ところが五年生で、十一月、頂上附近には積雪が見られる富士山麓の滝河原廠舎に三泊四日の野外教練に行った時は駄目だった。それ迄にないひどい発作を最初の夜中に起してしまい、夜明け早々クラス担任の先生に付き添われて御殿場へ下り、一応町医者の診断を受けてから宿屋に入り、そこで二泊三日静養する始末だった。それも横になって休むと云うことは出来ないのである。布団をかぶるようにして、その上折りたたんだ布団の上に身体を寄せかける形で睡眠をとるようにするしか仕方がむい。横になるとそれこそきりのないひどい咳に悩まされるのだ。次の夜はそれでも落ち着いて来て、多少とも身体を横にして眠れた。そのため三泊四日の訓練を終えて帰京する同級生と一緒にどうやら帰ることが出来た。

 この経験から大学に入ってからは、予科・学部を通じて野外教練には不参加を決めこんだ。配属将校がよく認めたものだと感心したことだった。但し教練の成績がどうだったかは記憶していない。

 次に喘息の発作を起したのは、昭和十七年二月二日の夜だった。場所は目黒の輜重隊東部十六部隊の内務班である。太平洋戦争が始まり、大層な戦果を上げた直後で、張り切っている班内の下士官兵達も、私のひどい発作には参ったらしい。すぐに隊内の病室に連れて行って呉れた。と言ってもエフェドリンのような有効な薬がある訳ではなく、ただ暖かくして寝かせておくだけだった。翌日軍医が来ても特別な治療が出来る訳ではなく、そっと様子を見ているだけだった。二月四日になって、前日電報で知らされた親父が私服を一揃いかかえて迎えに来て呉れた。所謂「即日帰郷」である。

 十七年四月再検査があり、第二乙となってその年の十月石川県金沢に召集された。併しこの部隊は近日中に満州に行くことになってをり、私のような病歴のある者は厄介者以外の何者でもなかったのであろう。軍医は私から前回「即日帰郷」になった事情を聞きとって、即座に帰郷を命じた。軍服に腕を通すことなしに、そのまま逃げるが如くして駅にかけつけ、一番早く出発する列車に飛び乗って家に帰って来た。それ以来軍隊からのお呼びは一度もなかった。そして又、それ以後喘息の発作も記憶に残る程のひどいものはなく、殆ど快癒したと言えようか。

 快癒と言えば、戦時中の食物、特に甘味料の不足が幸いしたのだろうか、あれだけ幼少時から青年期にかけて苦労した胃腸病も直って了ったようである。喘息と云う病気のため兵隊にとられず、戦争のため慢性の胃腸病は直って了っていたと云う訳である。
 ・・・

 次の病気はいっぺんに飛んで、成人病と云うことになる。昭和三十五年前後(四十一、二才頃)会社の診療所のドクターから「少し血圧が高いように思うし、別に降圧剤は必要としないが、体重を減らすよう心掛けて下さい。鈴木課長は身長一七〇センチだから、一〇五を引いて六十五キロ位にしたら良いと思う。特に食べるものを制限するのではなく、主食を減らすようためして見て下さい」と注意されたことだった。それから間もなく営業に転じたので、課長、部長と十年余ゴルフに親しむことが多くなり、太陽浴をたっぷりしていたせいか、風邪も引かなくなり、真冬でも室内では浴衣一枚で平気と云うような健康状態が続いたのであるが、昭和四十九年総務部長に変ってから四年目、昭和五十二年の春から「耳鳴り」が起り、特に右耳の難聴が気になり出した。紹介されて耳鼻咽喉科の専門医に診て貰ったが、「突発性難聴」と云うことで週二回、特別に健保のきかない薬を静脈注射し、二ヶ月位続けたが全然良くならない。右の耳の聴力はどんどん落ちて、左耳の半分位になって了った。

 そして忘れもしない五十二年四月のある夜だった。一寸した重量物の運搬を頼まれて、自分で車を運転しながら帰宅しようとした時だった。所謂「めまい症状」で、しかも一瞬立っていられない程ひどいものだった。周囲がグルグル回るようで、視野も上下左右がぐっと狭くなって来た感じがする。併し幸い暫くして落着いて来たので、急いでエンジンをかけハンドルを握って、甲州街道を真っしぐらに帰宅したが、玄関に片足かけたらもう動けなくなって了った。よく無事にたどり着いたものだ。

 懇意のドクターから紹介を貰い、慈恵医大に入院したのは七月に入ってからだった。上田内科の担当で、短期間にレントゲン、CTスキャン、アイソトープ、更には動脈硬化の検査のための血管撮影まであり、結論としては「脳には異状なし、疲労であろう」とのことで十二日間で退院となった。

 併し乍ら間もなく「めまい症状」が再発し閉口したので、再度の入院を要望、十月から十一月にかけて三十八日間、繰り返しての精密検査が行われた。耳鼻咽喉科での検査では「典型的なメニエル氏病」だとのこと。併し内科の医者は納得せず、結局「椎骨脳底動脈循環不全」か、「一過性脳虚血」かと云うことになった。だがその折、担当医の若い一人は、私にだけつぶやいて言った。「鈴木さんの症状には、言語障害とか手足の不随とか云うことは見られないのだから、少くも一過性脳虚血のような中枢神経に関わるものではないと思うが」と。

 その後五十六年、五十七年に、何回かめまいの発作が起きたが、大体三十分乃至一時間で元に戻っていた。因に最近数年、気分の悪いこの発作は起きていない。

 その次の、そして多分私にとって最後になるであろう病気は肺炎である。少々はしょって想い出して見よう。五十八年十一月、風邪をこじらせ高熱が続き、結局肺炎と云うことで十一月二日より十二月二十日まで約五十日、この時は老人性肺炎はこわいもの「死に至る病」と医師、看護婦におどかされて退院、そして次は六十四年(平成元年)二月二十日夜明け方、三回に亘る吐血にてびっくり仰天、懇意の医師のおかげにてその日の内に救急治療室に入院、肺炎と胃潰瘍との併発とかで、入院当初は病院側では最悪の事態を予測していたらしかった。頼んでも家族の付添いなど認めない完全看護を標榜する病院で「今夜はどなたがお泊まりになりますか」と看護婦さんに聞かれて、家内と娘は事の重大さに青くなったとのこと。そして病室も決り担当医が決定した時、その北大外科出身の若い医師がむつかしい顔をして「これから私の言うことにはきちんと従って頂きます。出来なければ直ちに退院して貰いますから」と宣言されたのには、初めての経験だけに、呑気者の私も少々びっくりしたことだった。考えて見ればそれだけ病態も危険な所にあったのだと、あとで納得したのだが……。

 当初は胃の方に重点をおいて、例の内視鏡を四回か五回呑まされた。そのつど写真を見せて呉れて説明して呉れたので安心出来た。結局外科的手術なしできれいに直り、肺炎の方が「胸部に水が溜っているから抜きましょう」と、ブスッと太い注射針をさし込まれたり、「骨髄液をとって見ましょう」とのことで、二人の医師が協同で、一人が移動式のレントゲンを見ながら位置を指示し、一人はそれに従って肋骨の間から長い注射針を使って骨髄液をとったり、仲々こわい思いをさせられた。この入院期間が多分私にとって空前絶後となるであろう八十二日間であった。この間十二月クラブの美人の奥さま方にまでお見舞い頂いて嬉しかったのだが、病気の初期においで下さった方は私の顔をごらんになって「ああもう永くはなさそうだ」と思われたのではなかろうか。相変らず自分自身は呑気に構えていたが、担当医の真剣そのものの様子では、とても生易しい病状ではなかった筈なのである。
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 今迄に期間の長短とりまぜて六回も入退院を繰り返して来たが、前期三回は「めまい症状」に関する検査入院と言うべきもので、殆ど考えられる関係検査は全部やったのではなかろうか。後期三回は肺炎で、これはとにかく治療に専念したことは間違いない。この次はもうお断りしたいし、まず入院しても短期間で、わが人生最後のものにしたいとひそかに覚悟しかつ希望している。

 中世にこだわる

 歴史は子供の頃から好きだった。以前はごく人並に古代史に興味があり、古くは日本列島の生い立ちやら、日本人は何処から来たかなんてことなどから始まって、魏志倭人伝の卑弥呼、神武東征、コシの国から来た継体天皇、大化の改新、壬申の乱などを中心に本を読み漁り、想像をたくましくして楽しんでいた。縄文時代に関しては、例の渦巻文把手付深鉢や、火焔紋土器の素晴らしさに眼を見張らされたり、照葉樹林文化などに着目したり、かなり巾広く関心を広げて行ったものだった。

 併し近年あちらこちらで考古学的発掘が進み、大分古代史について裏付けになったり、或いは定説を引っくり返したり、いずれ遠くない時期に日本古代史が、一応書き換えられることも予想され、自分としては一先ず中断して様子を見ようかと云う気になって行った。

 そこへもって来て、思いがけぬ海外旅行のブームで、私のような者まで昭和五十四年以来今迄に九回程海外を見る機会を得た。それで種々勉強になったのであるが、昭和五十七年(一九八二年)ロンドン、北欧からオランダ、ベルギー、パリと瞥見した折、ヨーロッパ、キリスト教、EC、そして中世に注目させられた。

 ベルギーのブルージュでは、自動車を町の中心部には入れないし、狭い石畳の道に馬車のひづめと車輪の音がするかと思えば、頭の上からは教会の高い尖塔からキャリオン(組み鐘)の響きが耳に伝わって来る。正に中世がそのまま生きているのを感じた。西暦七世紀から八世紀にかけて、キリスト教の普及北上と共にヨーロッパの概念が浮かび上がって来たようである。増田先生の「ヨーロッパとは何か」を読んで納得する所が多かった。単に中世は暗黒時代とだけ決めつけられるのだろうか。そして、それと同時に日本の中世をふり返って見たのも自然の成り行きと言えるであろう。「暗黒の時代」と言われたヨーロツパの中世と「末法の世」といとわれた日本の中世と、それぞれにどのような現象が見られたであろうか。

 まずヨーロッパ

 ロンドン塔完成(一〇九〇年)。ノートルダム寺院完成(ーー八二年)。ダンテの神曲書き始め(一三二一年頃)。ボッカチヨ、デカメロン(一三五〇年)。ジャンヌダルクの火刑(一四三一年)。レオナルドダヴィンチ、モナリザ(一五〇六年)。ミケランジェロ、システィナ礼拝堂の壁画描き始め(一五〇八年)。マキャヴェリ、君主論(一五一三年)。トマスモア、ユートピア(一五一六年)。ルター宗教改革推進(一五二〇年)。カルヴァン、宗教改革運動(一五四一年)。コペルニクス地動説を発表(一五四三年)。

 これに対し日本では

 万葉集(七五九年頃)。古今和歌集献上(九〇五年)。土佐日記(九二三年)。枕草子(一〇〇〇年)。源氏物語の一部(一〇〇三年)。平等院鳳鳳堂完成(一〇五三年)。中尊寺金堂完成(一一二六年)。法然の浄土宗(一一七五年)。栄西の臨済宗(一一九一年)。鎌倉幕府成立(一一九二年)。道元、宋から帰る(一二二七年)。日蓮、鎌倉にて辻説法(一二五三年)。

 こう並べて見ると、ルネッサンスもレフォルマチオンも、日本がむしろ先に進んでいたと思われる。そしてやはり自然科学面での劣勢と徳川の鎖国政策とが、明治維新前後の日本と、産業革命を経験して来た欧米諸国との格差を生んだものと思わざるを得ない。とにかく中世はまだまだ読みたいこと、調べたいことが沢山ある。私は更に今後も中世にこだわって行くつもりである。

 死ぬまでは生きる

 折角の記念文集への投稿が、この三月中旬の台湾旅行での影響か、ダベリのみの思いつき作文になって了ったが、とにかく「死ぬまでは生きている」ではなく、もっと主体性を持って「死ぬまでは生きる」つもりで頑張って行きたいと思う。

 ただ社会奉仕の如きこと、或いは生産性、経済性を伴うことは苦手で、自分の好き勝手なことをやっている。朝日カルチャーセンター、NHK文化センターヘは大分通って、歴史、美術、仏教、語学など勉強して見たが、やはり断片的にすぎなかったかと思い、謡曲だけは六十一年から継続し、六十二年、六十三年度は東洋大学で仏教を少々オーソドックスに勉強して見た。六十四年度は肺炎、胃潰瘍のため休み、翌平成二年度は二松学舎大学で、日本の古典文学を少々学んだ。因に二松学舎は予科一年の折、国文学の時間に「徒然草」を講義して下さった橘純一先生の居られた学校だし、私が申込手続きをした時、又面接選考の折などに、橘さんの名前を出すと相手方が驚き、時には喜んだのにはこちらが仰天した。橘さんは既に伝説に近い人ではあったが、彼等にとっては誇りの、又尊敬の対象だった訳であった。そして本年平成三年度はこの続きを国学院大学で聴講すべく、経済力、体力、意欲を検証している次第。(その後どうやら無事チェックを終り、先方さまもお許し下さり、現在若い学生に囲まれて勉学中)。

 最後にご存知の方も多いとは思うが、道元さんの正法眼蔵からの「修証義」の初めの部分を一寸抜き書きして見たい。

 生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり生死の中に仏あれば生死なし但生死即ち涅槃と心得て生死として厭うべきもなく涅槃として欣うべきもなし是時初めて生死を離るる分あり唯一大事因縁と究尽すべし
 人身得ること難し仏法値うこと稀れなり今我等宿善の助くるに依りて巳に受け難き人身を受けたるのみに非ず遇い難き仏法に値い奉れり生死の中の善生最勝の生なるべし最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ

 仲々の名文と思う。この意味を死ぬまでに何年かかっても解き明したい。私の宿題である。

 なおついでに「梁塵秘抄」や「閑吟集」を読んで面白かったので、後白河院の編著(ーー六九年頃)と伝えられる「梁塵秘抄」の中から、好きな一節を紹介しておきたい。
 人の親として「ぢい」として、小さい子供を見ていると、希望と同時に限り無い不安、悲哀を抱いて了う。諸兄姉も同じではなかろうか。

遊びをせんとや 生れけん
戯れせんとや 生れけん
遊ぶ子供の 声聞けば
我が身さえこそ 動がるれ

 大学卒業五十年、この世に生を享けて七十三年、その実たるや、とてもとても他人さまに申し上げられる体のものではない。ただ過去、未来に関し、図々しくも開き直って来ている昨今の自分を思うのみである。憫笑を乞うこと切。