1組故泰地喜惣次妻 泰地 節子

 

 春は街も空も光や色や暖かさに溢れます。桜の華やぎが過ぎた頃庭のアメリカ花水木が咲き始めます。
 銀婚式の記念に、息子達がプレゼントして呉れた記念の木です。三米程の細い木を主人と植えてから十三年余、成長の早い木で今は二階の屋根程の大きな木になり、毎年美しい花を咲かせ、木全体をピンク色に染め周囲を明るくします。

 花水木を植えた主人も今は亡く、過ぎ去った日々はすべてなつかしく思い出されます。
 昭和五十九年は早春から工合が悪くなりましたのでその年はお花見も出来ず、花水木の咲く頃入院致しまして四ヶ月、苦しい日々でした。その間、何度もお見舞下さりお励まし下さいました嘯風会の方々、十二月クラブの方々に心から御礼を申し上げます。毎月の十二月クラブの会を楽しみに出席していた主人の心を、皆様にお目にかかり、よく理解出来ました。

 主人はシアトルで生まれ小学校入学前に日本に帰国しました。喜惣次と云うむつかしい名前を父親が先祖の名前から戴いて付けたと云うことですが、父も母も少年時代の友達も、アメリカでの名前の「ジミイ」と呼んでいました。今でも故郷の紀州に帰りますと「ジミイさん」で通ります。陽気な人でしたのでこの方がピッタリかなーと思っています。

 商社勤めの主人はいつも忙しく、麻雀やゴルフの日もありましたが接待と称する会合が多くて帰りが遅いのですが、毎日の様に何かおみやげを買って帰るのです。自分の好きな果物の場合が殆どで、時々お菓子とか息子の好きな本や玩具の類いなのです。私が「自分の家に帰るのになにもお土産なくていいのよ」と云うと笑っていました。帰りの早い日は「買物ない?」と電話がかかって来るのです。買物は何であれ大好きで助かりました。

 これが一番合理的と云って、かばんを持たず風呂敷をいつも持ち歩いていた姿を思い出します。

 日常に気を取られて忘れていた事をあれこれ思い出しました。能や狂言に夢中になっている時期も有りましたし、越路吹雪さんのファンになってリサイタルに通った時もありました。今頃あの世で照れていることでしょう。

 家に居る私にとって主人の話は社会に開いた窓でしたので、沢山の話に刺激を受け色々な事を知ることが出来ました。
 夫婦は老後の為に有るのだとつくづく感じて居ります。皆様御夫婦揃って次の二十一世紀に向けて元気でいて頂き度いと心から願って居ります。
 卒業五十周年おめでとうございます。