3組 田島 博明 |
十二月クラブで発刊された文集は今までに確か二冊あったと記憶するが、私は投稿したことは一度もない。それは生来筆無精で、更に悪いことに頗る散文的な男で、深い思惟、思索に沈潜して生活するタイプではなく、毎日の時間の流れの中に身を任せて、その日暮しをして居り、そんな男が書くいい加減な文章を公にすることが恥ずかしかったからである。 今回卒業五十周年記念文集の発刊の議が決まり、皮肉にも小生編集委員を仰せつかってしまい、今迄のように小生「未提出」を決めこむことが極めて困難と判断して、茲に勇猛心を振い興こしてこの文章を書くことにした次第である。 初寄稿の私としては学校卒業以来現在に至る迄の履歴を若干中味に濃淡の差はあるが、書きしるし、それについての思いつくままの感想をつけ、その責を果し度いと考えている。勿論履歴と云っても人間社会生活の歴史の一こまであるので、人間の醜い葛藤を織り交ぜると、リアルなものとなることは知っているが、この文集の性質上表面的な事象の記述に留まらざるを得ないことはご了承願い度い。 ご承知の通り昭和十六年十二月に繰上げ卒業が判明したのは確かその年の夏休み明けではなかったかと思う。やれ卒業だ、就職試験だ、徴兵検査だと慌しい中に、卒論は思うように出来ず原稿丈けで山口教授のOKをとりつけ、後日軍隊に行かなかった故藤田信正君に装釘を依頼し、教授に提出して貰った次第だ。入社試験の呼び出し電報が一番早く来た三菱重工業鰍ノ入社し、会社の横浜船渠に配属された。私は誕生以来東京を離れたことがなかったので、長崎造船所配属を希望したが、当時その名も知らなかった横浜船渠に行くこととなり、これが私の将来を多少左右したとは、その時は思ってもみなかった。入社して一ヶ月、昭和十七年二月一日大東亜戦争の真最中に、横須賀重砲兵聯隊に入営した。その後陸軍重砲兵学校(他の兵科の予備士官学校に相当)を卒業し、見習士官として他の部隊要員を含め総勢五〇〇名余の兵員の輸送指揮官として、北満依安県泰安鎮駐屯の独立重砲兵第九大隊に配属となり赴任した。十月下旬途中事故もなく厳寒の大陸を横断し、無事部隊に到着し、図らずも大歓迎を受けた。同大隊は今次大戦初期から比島作戦に参加し、マニラ街道を南下してコレヒドール島を攻略後満州に転進した部隊で、十五糎加農砲八門を装備した重車輛部隊だった。我々新任の兵員は、同隊で比島作戦で戦死した者及び年限が来て除隊する者の補充要員だったのだ。見渡す限り平坦な大地、一さく四キロ以上もあるような大豆畑、煉瓦造りの粗末な兵営、野外のもの全てが凍りついているような風景に、「えらい処に来たもんだ」といった実感が腹の底から湧いて来た。歴戦の将兵は厳しい軍隊調もなく、我々補充要員を心からやさしく歓迎して呉れたものだ。その後部隊副官も復員することとなり、小生は少尉に任官する迄取敢ず部隊副官代理に就任し、軍の副官会同に出席すると、少佐大尉と云ったオエラサンに交って最後列の席で小さくなっている始末であった。その後北安に出張し近衛歩兵第一聯隊長島本大佐(予科か学部の時の配属将校)に偶然お逢いしたのも今になっては懐しい思い出である。 満州での生活は九月下旬から翌年四月下旬迄が厳寒期で、寒暖計の最低気温は三十数度迄下がり、これに風でも吹けば体感温度は四十数度といった想像を絶する生活だった。現地民にも大豆の供出制があり、凍りついた道路を馬車で黙々と大豆を運ぶ姿を良く見た。又駅から奥地の日本人開拓団も大半貧しい生活をしていたようだ。然し五月に入ると風景は一変し、あらゆる物が冷凍から解放されていきいきと甦り、一斉に草花が咲き出し、桜草、日光きすげ、タンポポなどが文字通り花のじゅうたんのように広がり、街の方へ通じている遠近画法のような電線にはつばめが一面に群がって春の歌をうたっていた。こんな風景は一日中見物しても見飽きないものがあり、その美しさは到底筆では表現し難く、一生忘れられない。 在満二年五ヶ月を経過した昭和二十年三月、突然「き号作戦」と称し本土決戦に備えるため、わが部隊も内地に転進することとなり、ハルピン経由北朝鮮の日本海側の港清津にて乗船準備をした。本船は五、六千トンの戦時標準船で、これにハルピンの工兵隊と一緒に乗り込んだ。この船には、わが部隊の弾薬二千発に、工兵隊の爆薬多量を積み込んで居り、装備も船首船尾に三八式野砲(日露戦争当時のもの)四門を有し、船舶兵数十名が警備し、ほかには護衛艦は一隻もなく、正に魚雷が命中すれば轟沈必至の船であった。 この船舶兵は非常に神経質で、甲板上での夜間の禁煙や、大声を出すことは堅く禁じられた。それもその筈で、彼等の大部分は今迄に二回乃至数回沈没の憂き目に遭って、その都度救助された連中で、顔色も悪く何となくニヒルな感じがした。私も死を覚悟して、せめて部隊長丈けでも助けたい一心で、自動車のタイヤチューブに空気を入れ、これに荒縄をまきつけて応急の救命具を作った。五、六ノットの遅い速度で本船は一路朝鮮半島に沿って南下し、まる一昼夜かかって、朝もやの中を博多港附近に差しかかると、突然夜明けの光の下で何十隻という船舶が沈没して居り、マスト丈け、或いは船橋を海上に晒け出している光景を見て愕然とした。途中敵潜水艦出現の情報を一、二回聞いていたが、この沈没船を見て、改めて良くぞここまで無事に着いたものだと、われ乍ら感心もし、日頃の無神論者も神の加護に感謝する気持になったから不思議である。 博多に上陸後部隊は福岡市郊外の二日市の国民学校に駐屯したが、ここで突然部隊長のS中佐が重砲兵学校に転出し、替りに砲工学校(他の兵科の陸軍大学に相当)出身のO少佐が着任した。S中佐は陸軍幼年学校士官学校出の職業軍人ではあるが、出世競争が嫌いで、兵を可愛がる苦労人であった。O少佐は出身校から見て頭脳は優秀であっただろうが、軍人として一番大切な判断力、決断力に乏しく、又私生活も乱れて居り、結局統率力に欠ける将校であった。従って日の経過と共に部下の信望を失い、部隊の士気が日一日と低下して行くのが良く判った。六月に入って部隊は軍の命令に依り、米軍の予想上陸地点の警備のため、宮崎市北方の丘陵地帯に転進した。転進途中で弾薬を積んだトレラーが田舎道の切り通しで横転し、そばにいた兵一名が死亡する事故が起きたり、更にその後一寸とした不注意のために兵二名を死亡させる事態となった。 私は八○○名程度の独立大隊の部隊長一人丈けが交替した位で、これ程部隊の士気を低下させ、無意味に兵を死亡させるとは思ってもいなかった。今迄満州を出発して以来、大砲、重車輌、兵員を鉄道と海上輸送をして来ても、それが可成り危険な作業を伴ってはいたが、死者はおろか怪我人すら出さなかったことと比較しても、部隊の士気の低下は明らかであった。 扨て当部隊は他の砲兵部隊に比べて宮崎への到着が遅れていたため、火砲の配置を早急に決定し、掩体壕(えんたいごう)を構築して敵の来襲に備える必要があった。然し新任の部隊長は例によって部隊配備の決心が仲々つかず、副官であった小生がやいやいせっついてやっと決った次第である。既に他の部隊の掩体壕は殆ど完成し、臨戦体制が完了していたが、わが部隊の準備は大巾に遅れ、小中隊長連中は連日ジープに乗って山道を駆け巡り、材木の切り出しや掩体壕の掘削の督励に走り廻っていた。或る日私の乗ったジープが山道を下りかけていると、車輪がスリップして車が突然深い谷の方角にずれ落ちて、助手席にいた私が咄嵯にサイドブレーキを引いて、ジープは半分谷の方に宙ぶらりんで突き出して漸く事なきを得た。このまま落下していたら恐らく死亡していたに違いない。死にそこなったと云えば、或る時現地戦術の訓練のため将校連中がトラックに乗って、図上ではなく実際の現地を見て廻って、戦術の作戦構想を練っていた時だった。突然超低空飛行の敵のグラマン戦闘機が路上のトラックを機関砲で攻撃して来て、白い砂煙を上げて通り過ぎた。我々は慌てて咄嵯に道路の側溝に身を隠して危うく難を逃れた。 考えてみると満州から内地へ転進してから数ヶ月の間に、危うく死にかかったことが三回あったことになる。 あの茫漠たる原野の満州で過ごした二年数ヶ月が、如何に平穏で呑気であったことか、懐しく思い出された。人間誰でも「運」というものがあると聞くが、私の運もこの時点までは強運と云って良いのであろうか。更に考えさせられることがある。それは部隊の指揮官の統率力の優劣如何が、如何に戦況を左右し、犠牲者を多く出すかという問題である。八月十五日の終戦を迎えずその儘戦闘を続行していたら、その後の米軍の発表通り十月に宮崎沖合から上陸して来たならば、わが部隊は恐らく掩体壕未完のまま戦闘に突入し、多大の戦死傷者を出したことだろうと、考えると凛然たるものがある。たった一人の部隊長が交替した丈けで、その部隊長の統率力の欠如がかくも部隊の士気を低下させ、恐ろしい結果を招きかけたことを考えると、指揮官、管理者の能力、統率力が如何に大切かを痛感する次第である。私も敗戦後元の会社に帰り、いろいろな上司に仕えたが、極く少数の人を除いて、仲々心から尊敬出来る人に巡り合わなかった気がする。これも私の運のなかったということか。 昭和二十年十月下旬、敗戦後部隊を解散して元の会社三菱重工業渇。浜船渠に戻って来た。当時はご承知の通りインフレがひどく、物質不足で皆生活に疲れ切っていた。自然発生的に労働組合設立の機運が従業員の間に盛り上がり、私も当初若干これに参画した。後日会社側は組合設立の風潮を打破するため、各部長主催の各課懇談会を開催した。私の所属する材料課も経理課と合同で総務部長主催の懇談会が開かれた。午後一時から四時まで殆ど部長と私丈けで生活苦の問題、会社のこれに対応する不手際の問題、延いては会社の将来像の問題等について大激論をしたことを覚えている。後にこの部長は一橋の大先輩で重工本店時代艦船部長として海軍と渡り合い、その敏腕は多くの人から評価されて居ったことを知り、随分失礼なことを申し上げたものと恐縮したものだ。後日この先輩が、これがご縁で時々私の席にお見えになり、話をされて行くが、その都度その話の内容の着想の抜群さ、奇抜さ、先見性にはいつも驚かされ、又感服させられた。 その後組合設立に参加した先輩諸氏を含め、二、三回の解雇が行われたが、不思議にも小生丈けは生き残り、石炭、ガソリン、コークス等の工場の原動力となる燃料の確保に奔走した。或る日部長より突然営業課に転籍を言い渡され動転してしまった。元来口下手で、人との付き合いも良い方ではないので営業には不向きである旨抗弁したが、適材適所を決めるのは本人ではなくその上司の仕事だと部長に叱られ、この人事異動を承諾せざるを得なかった。こうなった以上自分は自分なりに営業哲学を持とうと考え、誠意を以ってお客様に接しその信頼をかち取る以外方法はないものと覚悟して営業課に行った。私は製作品係という係に配属されたが、製作品とは、新造船修繕船以外の全ての陸上機械製品をこのように呼称して居た。工場の設備は戦争中比較的簡単な油槽船を主として製造していたため、重工本店では横浜への設備投資を最小限にとどめていた模様で、機械工場などは工作機械はラインシャフトにベルト措けのもの位で、お客様を工場に案内することすら躊躇されるような有様であった。火箸、十能、製塩装置から始まり、製紙、パルプ機械、専売局の葉たばこ乾燥機、炭坑の選炭機等を手掛けた。昭和二十五年に三菱重工業はマッカーサー司令部の指令に依り三分割され、横浜造船所(横浜船渠を改名)、川崎製作所、大井製作所と共に東日本重工業鰍ニ社名を変更し、他の二重工と競争関係に入った。 昭和二十六年十月にアメリカの世界最大のボイラーメーカー Combustion Engineering, Inc. 略称CE社とボイラーに関する技術提携契約を結び、陸舶用の最新式ボイラーの製造を開始した。戦前から技術提携している独ZMAN社のヂーゼル機関と併せ営業に動力機械課が発足し、これらの販売拡大に努力した。この種の原動機製品の販売には或る程度の技術的知識を必要とし、技術者から教えを受けとり、テキストブックを読んで勉強したものだ。一橋予科時代物理の勉強不足がこんなところで影響した。 昭和三十九年五月、旧三菱重工業が三分割されていたのが、再び合併して三菱重工業鰍ニして再スタートした。今迄ライバルだった人々と一緒に仕事をすることは仲々気を使うもので、特に合併当時私が所属していた三菱日本重工業(昔の東日本重工業)の業績が横浜造船所で建造したソ連向魚加工船の大赤字で、他の二社に比して著しく悪化していたこともあって、横浜造船所出身の小生は随分肩身の狭い思いをした。 私は原動機第二部に属し、主として電力会社、電源開発会社を除く一般民間会社向の自家発電装置の販売を担当し、ボイラーは日本の六〇%、タービンは五〇%のシェアーを確保した。そこで「自家発ニュース」などの月刊パンフレツトを発行し、現状と今後の目標、技術解説等を書いて、事業所、支社は勿論のこと販売を直接担当する代理店に至る迄これを配布して、我々の考えている販売政策、販売目標と共に現状を認識して貰って各分野の方々の営業活動の一助とした。「守りの営業より攻めの営業へ」をモットーとして関係者を督励したのもその頃だった。 昭和四十二年CE社では、初めて各国のライセンシーのセールスマネージャーを集めて国際会議を開き、私もこれに出席する機会に恵まれた。先ずアメリカ大陸をバンクーバーからニューヨークまで横断したが、その面積の広大さに驚かされ、その後各方面を見学して廻って、各人種が入り交って、それなりの分に応じた職種についていること、日本に比べてやることが長期的視野に立って居り基礎的研究には莫大な費用をかけていること、経営の判断が日本より遙かに迅速で、所謂印鑑ベタ押しの稟議書もないことなどを見て、日本もこんな国と良くも戦争を始めたものと呆れ返ってしまった。然し戦災を受けていないためか工場の設備は老朽化して居り、働いている人も、上から言われたことをそのまま忠実に履行していれば良く、これでは戦災で工場設備が壊滅し、インフレの波に乗って新鋭設備を投資し、アメリカから導入したQC活動も各人の創意工夫を積極的に生かしてこれを取り入れ、勤勉に働く日本は、遠からず製造業ではアメリカを凌ぐようになるぞ、とその時直感した次第だ。 会議では一番製造実績の多い三菱重工業が最前列に席を占め、又一番初めに現状報告のスピーチをやらされて閉口したことを覚えている。 ここで思い出されることは、如水会、十二月クラブで一橋大学の将来について盛んに議論されていることだ。私の経験から敢えて申し上げれば、世界に通用する「国際人」を養成することが急務ではなかろうか。特にここ十年間の世界の経済文化の交流は目覚しいものがあり、こういう時こそ単なる語学の達人丈けでなく、各国の歴史、文化、伝統といったものを勉強し、身につけた世界的視野で物事を考え、処理出来るような人物が必要なのではなかろうか。今日の湾岸戦争前後の日本の政治経済の動向を考え合わせると、その必要性の急務であることを痛感する。 昭和四十七年、請われて静岡県にある東証二部上場のヂーゼルメーカーのA社に出向し、製造担当役員として働くこととなった。会社の招聘状には経営に新風を入れ度いと云った趣旨の文面もあり、又現状を調べてみると、会社は同族会社で、一応工業会計要綱に基づく経理処理は行っているが、これが具体的に経営に反映されず、ただ物を作れつくれと騒いでいる丈けの、大福帳的やり方で作業しているのが判った。私は重工時代一介のセールスマンに過ぎなかったが、製品コストの構成とか、損益が生産規模の増減によって大巾に影響を受けること位は知っている積りだ。早速米国のコンサルタント会社マッケンジー社の手法にのっとり、各界層の人々から現状と問題点とを洗い出し、経営改善の方策を立案し社長に報告し了承を求めた。社長はその時は小生の話を理解したようであったが、子飼いの重役が来て「あの案は社風に合わない、三菱流では当社に役に立たない」といった中身のない形容詞丈けの中傷をしているのが後日判った。私は先ず実際に仕事に携っている責任者の教育が肝要と考え、班長を集めて会社の経営と、現在自分達が行っている作業との関連を説明し、一層の合理的作業方法を考案実行することを促し、又係長課長クラスの有望な人間を特別に教育し、他社に訓練にも出したりして人材の養成に努めた。子飼いの重役を含め部長以上にも月数回の経営の講義をし、世間一般並みの水準になるよう努力もした。 昭和四十八年秋の第一次オイルショック時には、サービス部品の二割値上げ、既契約の本体の売価の値増しの客先への要請を行い、どうやら一割配当に漕ぎつけた。仕事も段々順調となり、会社の設備投資もどうやら活発に行って、昭和五十二年には可成り高水準の利益を挙げることが出来た。然し好事魔多し、その後造船不況が訪れ、瀬戸内造船所及び船主を中心として会社倒産が相次ぎ、遂に翌五十三年三月期には欠損を計上し無配に転落した。臨時工三〇〇人余の解雇をはじめ、社内の合理化に乗り出し、組合へも諒解をとりつけ、解雇された臨時工の再就職先の斡旋にも日夜努力した。事態は漸く沈静化し、軌道に乗りかかった矢先、五月の連休明けに突然社長に呼び出され、他の重工出身の役員と共に解雇を言い渡された。この私の解雇は、元々小生がA社に出向して来た時に、その出向の意味を会社経営刷新のためと誤解していたことが原因であろうと後に考えるようになった。会社は重工が開発したニサイクルエンジンのライセンシーに過ぎず、三菱から人を派遣して貰うことは、単に三菱から何等かの利益をもたらすことを期待してのことだったのだろう。経営などには部外者にはタッチして貰い度くはなく、その証拠に当初役員になる時、その任務分担も決めず、全ては合議制でやろうと言った社長の言葉から明らかだった。如何に小生の若気の誤りであったことか深く思い知らされた。人間の言葉には裏も表もあり、良くその場の状況に応じて判断して行動する必要性をこの時程ひしひしと感じたことはなかった。かくして六十才になって図らずも一介の素浪人となってしまった。普通は常務を六年も勤めた男を辞めさせる時は、その後の身の振り方を考えて呉れるものだが、小生が社長の座をねらっていると云う風評を流す者も居て、私は切り捨てご免となった次第だ。 この私の不幸はその前年から起っていた。重工を二年前に退職し、貴重な退職金を頂戴して居った。東京の住いが道路網の整備で環境が悪化したので、これを機に予て買い求めて置いた横浜の山の中に家を新築することとした。或る人の紹介で建築屋を選定したが、これが喰わせ者で、結局契約金額の四分の三を召し上げられて逃亡してしまい、家は棟上げ後建築がストップし八ヶ月も雨晒しとなり、再築に漕ぎつけた時には、上等なプレハブ住宅二軒分が出来る程費用を要し、文字通りスッテンテンになってしまった。気をとり直しA社の役員として六十五才位迄は勤められるからと自らを慰めて居った処、前述の通りその翌年六月退職の憂き目にあってしまった。 A社退職後電気工事会社に一年、千葉県の町工場の営業の手伝いを六ヶ年に亘って行い、この間学友諸兄の多大のご援助を頂き、茲に改めてお礼を申し上げる次第である。 私にとって不幸は更に続いた。昭和六十年八月、二男が東京の環八で交通事故に遭い死亡したことだ。享年二十七才の独身だった。未だこれから春秋に富む人生を送れただろうにと残念でたまらない。子供二人男子をもうけたが、うち一人をこのような事故で亡くしてしまって、本当に一時は自分自身生きる希望をなくしてしまい落胆に明け暮れていた。こんな時偶々級友の川口憲郎君が「自分も長女を小学生の頃踏切事故で亡くして居り、君の落胆は判るが、一日も早く立直って亡き子供を弔ってやることが先決だろう」と言われ、やっと我に戻り、朝晩仏壇に向って「般若心経」を唱え、子供の冥福を祈りつづけている。 冒頭私は軍隊で危うく死にかけて三回助かったことをやや冗長に書いた。晩年は遂に建築詐欺、A社への出向と退職、そして今回の事故、と不幸に連続して見舞われた。これで私の人生の不幸は打止めにして貰い度いと願っている。然し未だどうやら健康で夫婦して夫々好きなことをやって居られるのは、不幸とは言い難いと自ら慰めている。 人には「運、鈍、根」が必要と言われる。私の運は既述の通り初めは良くて終りは悪かった。鈍については云えば、総じて小生は鋭ですごして来た。今にして思えぱ、鋭が悪いのではなく、それを発揮する場合のTPOをわきまえて周到に振舞えば良かったかと反省している。急がば廻れとは蓋し名言だと思う。根について云えば、健康である限り一橋人たる者誰にも負けないものがあろう。 簡単な履歴を書いてその責を果そうと思いつつ、つまらぬことを稚拙な文章で長々と書いてしまった。現在は重工時代に知り合った富士電機の友人に紹介されて、その代理店へ健康のために週一回出勤している。趣味と云ったものもなく、已むを得ず地域社会への奉仕を心掛け、自治会、熟年会にも顔を出している。今となってみると全ての過去のことが恩讐の彼方に消え去って、良き友と交り、死ぬ迄健康で暮し度いと虫の良いことを考えている。偶々別掲の宮下八郎君の健康法を実行すれば私の願いをかなえて呉れるものと確信しているが……。 |