7組小林頼男妹  武田 ちとせ

 

 顧みますと、幼くして父を亡くした、私にとって、長兄小林頼男は、父にも似た厳しさを、持ちあわせていましたが、一面とても優しい兄でした。
 群馬の辺境に聳え立つ、荒船山の登山口に、位置する尾沢村で、終生送る事を、可哀相に思った兄は、私に進学する事を勧め、共立女子専門学校に入る事になり、東京都三鷹町(現在三鷹市)の下宿先に、起居を共にするようになりました。兄は、これからどう生きねばならないか、又女性の幸せとは等、戦時下の生き方を、折にふれ事に従い、導いてくれると共に、護身の為の空手等も、教えてくれました。度の強い眼鏡越しに、私をじっと凝視(みつ)め、熱心に自分の事のように、幾度も幾度も、話をしてくれました。洋裁の実習に、ミシンが必要となった時、兄は乏しい預金の中から、一緒に行ってこれを、求めてくれたのです。今は又となき、記念となってしまったこのミシンを、こよなきものとして、大切に致しております。

 そのように、私に注いでくれた愛情の、数々が今も鮮烈な迄に、思い出されて参ります。
 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が始まるや、兄は繰上げ卒業、翌十七年二月郷土部隊に入隊。それを契機に私も、母一人で従事している、家業手伝の為、郷里群馬に立ち戻りました。昭和二十年八月、終戦を迎え、内地従軍の次兄は九月復員、相次いで私の夫も、南鮮より帰還しましたが、兄からは終戦の日付の便りが届いたのみにて、それ以降ぷっつりと、消息が絶えて了いました。その後十有余年の、歳月が流れました。そして昭和三十三年五月、遺骨なき帰還を、母、兄と共に、迎えました。亡き兄の霊魂は、「国破れて山河あり」の、感慨を抱き乍ら、故郷の山河と、相対したものと思っております。今は母も既に亡く、次兄も病む身となっております。私は二、三年前より、兄を偲ぶよすがとして、兄の好きであった謡曲を、夫と共に習い始めました。今は只ひたすら、兄の霊よ安らかなれと祈るのみで御座います。それにつけましても、同窓生の方々による、定期的な浅草寺での法要等の、御厚志。多年にわたって、数多くの困難を、乗り越えられ且つ又、出来る限りの手段を、尽されての追跡調査の末、兄の軍歴と最後の消息を、明らかにして頂きました、親友岩本治郎様、同川口憲郎様を始め、戦友会坂本藤雄様外、多数の方々の、真情厚き御努力の程を、親族一同只々頭を垂れ、感謝申上げるばかりで御座います。今は亡き母、病床にあります次兄主計(かずえ)に、なり代って謝意の一端を、申し述べさせて頂きました。