4組  武川 祥作

 

 一、英国贔屓

 リヨンで元ナチのバルビーの戦犯裁判が行われている。三歳から十三歳までの子供達四十一人をアウスビッツに送った罪である。四十三年の後にアメリカのCIC(米軍のカウンター・インテリジェンス・コルプス)にかくまわれていた彼を探し出したユダヤ人の執念は怖しい。そして又、そのことをあらしめた彼等の経験、過去の歴史も又、我々の想像を越えるものであっただろう。

 シャー国王華やかなりし頃のテヘランは、夜中に独りで街を歩いても、時に警備の警官の姿を見るとしてもまことに平和そのものであった。アメリカンクラブの映画会には行きは会社の車で行き、帰りは約三十分を歩いて帰るのが常であった。シャーは聰明で尊敬を受けていた。日本企業の投資も積極的であった。唯心配なのは後継ぎが幼少で、もしシャーに事故が起ったら蜂の巣の様になるかも知れないとのかすかな惧れが、我々の心の底に澱となっていただけである。イランの先行きに不安を匂わせるものとてなかった。

 そして我がイランニッポンペトロケミカル社(当時社長)の副社長はユダヤ系イラン人であった。お互いの家庭に呼びつ呼ばれつの親しい友人でもあった。八歳の女の子は小生の顔を見ると合掌するのには閉口であった。彼は日本に出張して来ると毎日必ずテヘランの自宅に電話するのである。「サラム、ハレショマチェトーレ」で始まる彼の電話には私は何時も馬鹿々々しいと思った。申し込んでも何時間でつながるか判らない酷い電話事情の頃である。又、彼は曰く、自分はイスラエルに土地が買ってある、と。それでどうするのかネ。答えは無言である。これ又、馬鹿々々しい事と思った。

 隣に住んでいる米政府関係のアメリカ人は定年后の為にスペインに別荘を買ってあると言い、夏休みにはそこで数週間を過した。これはよく判る。しかし何でイラン人の彼がイスラエルに土地をである。

 米国で大統領選があった。自分はフォード贔屓だ。力ーターは何をやるか判らんぞと私は言った。お前もそう思うかと彼は同調する。彼は余りにも経験が少ない。アメリカは悪い方へ転ぶぞとわれわれは話した。そして力ーターは勝ち彼の人道主義強行、シャーの圧政への圧力が始まった。でもまさかあの様なことになろうとは。私は既に帰国していたが一夜にして捕れの身となったユダヤ人は多い。そして彼は逃れた。イスラエルの土地も今は役に立っているだろう。

 最近の米誌によるとゲリーハートは大統領選から降りる事はない。たかが女のことではないか。ルーズベルトもケネディも同じ様なことがあった。彼等がもし居なかったらニューディールもニューフロンティアもなかったではないか。これでは米国はまだ大人になっていないと欧州人に馬鹿にされるぞとある。米国の過度の人道主義は力ーターを生んだ。そしてイランを傷つけ中近東を混迷の中に陥れたのはこの人道主義ではなかったか。勲章と握手の故もあるけれども、シャーがそのままイランに居たら世界は今どうだろうと時に思うのである。米国の強大さ、そしてそれから波及する世界への影響、それを米国はよく認識しなくては困ると言いたい。力ーターは、政府は国民の反映だと言ったことがあるが民主党有力候補の脱落とその後継者難、そしてレーガンのイランスキャンダルとなるとわがユダヤ人副社長ならずとも毎日家に電話をかけたくなるかも知れない。

 この四月初め季節外れの北欧に旅行した。汽車の中でも、市電の中でも、寒いバス待合所でもみんなが親切であった。日本人と知って特に好意を示した老人も何人か居た。伯父さんが日本贔屓でオクサンオイルという商品があったという。是非本物の奥さんと握手させてくれという。

 また汽車の中で子供がヨチヨチと近づいて来て背のびをして、座っている小生にどうしてもキスしてくれると言う。そしてお母さん曰く「ヒー・ライクス・ユー」。何とも気持のいい毎日であった。そしてロンドン空港、タクシーの運転手曰く「お前は日本人か、英国中、日本製品で溢れている。俺達は失業に脅えている」と。どうもホテルまで遠廻りをしてくれたらしい。サッチャー再選確実と言うけれど彼にとってはとんでもない悪女となる。だが英国病を療したサッチャーとレーガノミツクスで名を売ったレーガンとではどうだろう。どうも役者が違う気がする。大統領と首相とはどうなのか、そして又経済とは一体何なのか。成功とは何か。そして不成功とは。

英国贔屓というのは英国滞在者によくあると聞く。借金の算段で度々出張した小生としては滞在とまでは行かなかったが、それでもロンドンのタクシーは安全確実でドーバーの舌平目は美味しくて、ロンドン英語はきれいでサッチャーは立派となる。最後の晩レストランでバラを一輪進呈されたのはそのお返しであったか。

(「化学工業日報」昭和六十二年六月一日所載)

 二、イラク雑感

 「後になって考えて見れば、それは全く明瞭、いやらしいくらい理に叶っている。そこにクウェートが在る。肥えて熟れて巨大な油田とドル、ペルシャ湾の良港、そしてイラクの練度の高い戦争機械に全く無力。片やフセイン、金に飢え、そして野心満々、兵士達を越境させる前からほんの一薙ぎと知って居た。その通り十二時間でクウェートは彼のものに」と米誌はいう。イランでの駐在経験からするとこれから何が起こるのか見当もつかない。

 「理に叶っている」だろうが、それはイスラムの理であって所謂西側の理ではない。曾てはソ連にも別の理があって、独ソ戦の頃、レニングラードの郊外はソ連兵で死屍塁々と聞いてソ連にも東洋人の血があると思ったりしたものだが、今や東洋人も西側と同じ土俵の上にたって嫌がらずに、或いは少しは嫌がり乍ら、世界経済を担う一員としてつき合いは欠かさない。だがアラブともなればそうはいかない。彼等はまだまだ遠い人達である。そして彼等にとって欧米は又近いのである。

 イランの田舎のホテルに行けばフランス語が威張っている。ミューゼアムの説明もフランス語が多い。ホメイニはフランスに亡命していた。イラン人の金持ちは手術となると英国に行く。もっとも英国人はドイツに行くと聞いた。アラブはミドルイーストなのである。不幸にして彼等よりずっと疎遠な日本が最大の石油をアラブに依存しているのだから、こういう事態になると見通しはいよいよ難しくなる。曾てイランのシャーを庇護したキッシンジャーを始めとするシンパ、この人達もアラブ通の一翼を米国で担っている。日本に如何なるアラブ通ありやである。

 泥棒の手は公衆の面前で切断される。姦通者は首だけ出して土に埋められ大衆の投石で殺される。これは数年前、明らかにサウジで行われている。シャーの時代のイランは治安がよく美人秘書といえども夏は窓を開け放して気温五十度で熱くなった煉瓦の放熱の中で眠る。人質となった人達はイラクでどうしているだろうかと胸が痛む。当時でさえ、バグダッドは停電が多く冷房ストップが瀕発して苦しい生活であると聞いていた。まだイランが禁酒国となる前であったが、某メーカーの社長によればサウジ駐在社員はお酒がない為にストレスを紛らせる事が出来ず、のべ一回は全員が胃潰瘍になった計算になると。

 日本のエネルギーのオイルヘの依存度は一九七三年の七七%から現在の五八%まで下がったという。しかし、EECは同時期六〇%から四〇%となっているという。米国マグローヒルによれば、それでも二五ドルのオイルとなるとして日本の痛手は成長率○・一%程度だという。しかし、一説には一バーレル八ドルの値上げは米国の成長率を一%下げるという。そしてこれは米国の成長を殆ど零とし、下手をすると「深い深いリセッション」にするという。対策としての赤字財政は、これ以上膨張させられない。では利下げか。今やインフレをどう抑えるかの時に利上げこそ考えられている。これは正にお手上げの状態であり、世界中がリセツションに陥るという。

 ペレストロイカから始まった共産圏の資本主義化、それに伴う衛星諸国の自由経済化で資本主義の世界化は紛れもない事実となったわけだが、丁度その時に資本主義、或いは合理主義を否定するアラブ勢力が孤立した存在でなく、オイルを通して我が陣営をキリキリ舞させる事となったのは皮肉である。誰かがケインズを殺してしまったそうだが、それに代わる人は何処に居るのか。中央銀行のやる事といえば市中追随の公定歩合操作、では金融政策の無力化は否めない。もはや残るのは見えざる手のみかと弱気の我々に、見えてはいるが、どう動くのか見当もつかないもう一つの手が加わったということになるのか。

 休日には緑の街路樹の街からわざわざ車を駆って木一本とてない砂漠の真中に敷物を敷いて、場合によってはお茶まで沸かせてピクニックを楽しむ人達、ラッシュ時ともなれば交差点で右側通行の道路に左側路線まで車がはみ出し、対向車と正面切って向かい合い一寸も動かぬ渋滞を惹き起こすマナー、これ等は所謂ベドウィンの生活からの知恵であり、それなりの理を持ってはいる。物の値段はある様な、ない様な。払える人は払うべきであり、それこそはイスラムの金持ちの施しの精神である。だが余りにもかけ離れたこの距離をどう共感しどう話し合おうというのか。或いは事態が変化する可能性はないのか。

 イランの例では文盲撲滅、外国留学奨励、社会制度の西欧化を図ったシャーは結局この人達に足をすくわれ、足をすくった彼等も又、イスラム教の狂信者に追放されてシャー以前の状態に戻ってしまっている。そして一見安定である。イスラム諸国がこの安定をいきつく光と見るならば、今後の話し合いはお互いの誤解の上に成立する以外には当分チャンスはないと悟るべきだろう。そしてそれはどんな誤解だろうかと思う。

(「化学工業日報」平成二年十月八日所載)