1組  田辺 一男

 

 私は元来野球が好きで、小学生からこの方、何となく続いている。若い頃は野球も精々四〇才台迄と思っていたのが、七〇才を越しても(勿論軟式ではあるが)やれるとは不思議である。

 元の勤務先日本郵船のオーバーフォーティ・べースボールチーム(所謂0・F・B)に長年在籍させて貰っていたが、六五才位までで御払い箱になるものと予想していた。急に運動不足になるのも困ったものと思っていた処、杉並区に還暦野球クラブが発足した。六年前のことである。之に加入し、殆ど毎週末、十数名で練習に、試合に、楽しく過していた。運動のあと二、三日は心身共に快調で、些事に拘らなくなり、大変結構であった。

 七、八年前から全国的に還暦野球の気運が高まり、各地にチームが出来て、五、六年前から全国大会が開かれるようになった。岐阜商業OBで固めたオール岐阜、桐生中や前橋中或いは水戸商業OBのチームが流石に強いが、東京都でも八チームが結成されている。

 わがチーム『杉並・アメニティ・シニアーズ』(名前が長く、意味を解さない大会委員長が、読み上げるのに苦労している)は、人員を若干増やすつもりで、杉並区の住人に限らず都内全域から参加を受け容れることとし、年齢も五〇才台迄引き下げるようにしたところ、希望者続出して拒み切れず、遂に四〇名の大世帯に膨れてしまった。

 年齢の関係もあって、私は断り切れず、監督に祭り上げられる破目になった。本来『下手の横好き』の部類で、高度な采配を預る等は全くおこがましいのだが、兎に角、助監督や主将に万事委せて『良きに計らえ』方式で結構ということなので引受けた。

 クラブのメンバー構成は、六〇才以上(八○才台一名、七〇才台四名を含む)が約三分の二、のこりが五〇才台であり、全員の半数近くが未だ現役で働いている。職歴も多岐に亘り、企業の役職員、官僚、裁判官、校長、自営業等であり、球歴も多彩で、社会人野球、六大学及び東都大学・旧制高校野球.旧制中等学校及び新制高校野球等の経験者が三分の一以上を占めているが、一方草野球で鍛えた人で案外セオリーに一家言を持つ人もいる。

 試合後のミーティングなどでは、熱心で議論百出し、お互いに譲らず賑やかである。熱心さの方では.良い年をして毎日バッティングセンター通いの人が居たり、休日平日昼夜を問わず各種意見の電話がかかってきて、些か辟易したりする。

 メンバーの中で入会同期の人々、住所が近い人々、年齢の似た人々、同業の人々等から、夫々のグループのコンパの際に声がかかったり、開店祝や新築祝に招かれたりで当方も色々と忙しく、愉快に過せることもある。

 他方、たまには、そりの合わないメンバー間や、異なる年代間のいざこざもあって宥めるのに苦労することもあるし、何かと平日の雑用もある。

 チームの実力の方は逐年上昇し、昨秋の還暦野球東京都大会では先発メンバーに私(外野手)を含めて七〇才が四名と、全チーム中平均年齢が最高であったに拘らず、決勝戦迄進出、品川チームに惜敗はしたが、一応の成績を残している。

 当初は珍しかったせいか、テレビ、ラジオや一般紙、更に老人・健康・スポーツ誌の取材も相次いだが、近頃はかなり下火になっている。

 このような老年野球チームの監督は、プロ野球の監督などと異なって、いわば遊び事の世話人であり、その心構えでやってきたが、気苦労の多いことである。

 先ず難しいのが毎回三十数名出て来るメンバーをグラウンド(このグラウンド手当が大変であるが)でどのようにして均等に楽しませプレイさせるかである。学生野球やプロ野球では色々とやりようがあろうが、効率良い方法を見つけるのに苦労している。

 無難なのは二組に分けて紅白試合をすることだが、この場合私は率先して球審等つとめ、自分はプレイしないようにしなければならない。それでも万遍なく全員が遊ぶためにはなお細々と気配りが要る。

 メンバーの考え方には二通りあって、一方は只管野球を楽しみたい人達、もう一方は、より強くなり、対外試合は勝に徹したい、出来れば東京を制して全国大会に出たいという考えである。対外試合の場合、勝つ為にはベストメンバーで臨み、下手な人達は出場出来ないことであり、折角グラウンド迄来たのに出してくれないと憤慨する人も出る。なるべく多く出場して貰うとして、若しタイムリーエラーでも出たりすれば、早速監督批判につながる。この二つの行き方をどう調和させるかが最も悩みの種である。

 又、こわいのは怪我である。幸にしてメンバー中に体操の名手が居て、プレイの前のウォームアップとあとでのクーリングダウンの体操指導を充分すぎる程やってくれている。その御蔭かこれ迄大した怪我人は出なかった。都内の他チームで私と同年代の人が試合中に急死した例もあるので、一層入念に体操は実施している。

 このチームに入るときは自分の健康増進をと目論んでいたのが、右のような状況で運動量は限られて、事志とかなり異った上に相当な精神的負担を感じるようになった。八二才の会長が七一才の副会長と共に毎回グランドの抽せんに朝早くから出かけてくれ、真先にグランドヘ来て手入れ等をしてくれているを見て、簡単に投げ出すわけに行かなかったが、ようやく今年一ぱいで御役御免と決めてもらった。

 来年は一プレーヤーとなるが、年齢からして果して曲りなりにも体が動くだろうか?気になりながらも、一、二年は気楽にやってみたいと望んでいる。

 一方、OFBの野球は既に一昨年で五〇シーズン(二五年)出場の表彰を受けて一区切りはついているし、後輩の好意に甘えて更に居据わるのも如何かと思うので、之は今年限りで引退のつもりである。

 以上のようなことで私はここ数年を過してきた。
 私には本当に残念ながら趣味がない。この激動変転する世の中で、見ること聞くことわからないことだらけであり、おそまきであっても少しでも勉強し直しをしたいとの漠然とした気持はあった。にも拘らず結局このような中途半端な野球だけで無為に過してしまった。

 十二月クラブの諸兄と比べてあまりにも知的生活の乏しさを恥じ、いら立たしさを強く感じると同時に、せめて健康だっただけでも良かったではないかとも思ってみたりしている。