4組  田中 仁栄

 

 最近の私は毎朝六時に起床、六時半からラジオ体操、八時半過ぎラッシュアワーを外して会社に出掛ける。会社といっても少人数のちっぽけな会社で、時間の制約を受けないことを勤務条件にしている。

 中学時代からと思うが、将来は海外と関係のある仕事につき、定年までは一生懸命に働き、その間お金を貯め、定年後は世界の中のどこか好きな所で、好きなだけ暮らして過ごしたいというのが夢だった。しかし大学卒業と同時に戦争、そして敗戦、海外に出られる機会は殆どなくなり、日本が世界経済に復帰した後も仕事の関係では事志と異なり、余り海外には出られなかった。定年を迎えた時は住友不動産で勤務していたが、若い時の理想からは程遠く、優雅に海外で暮らせるような状況ではなく、自らの選択で日本熱学の子会社エアロマスターに入社したところ、倒産の憂き目に会い、まごまごしている中に満六十才の還暦を迎えることになった。これも自らの選んだ道で仕方がないが、若い時の理想に少しでも近い人生を過ごすにはどうしたらよいか考えてみた。この年ではサラリーマンの延長では到底果たせないので、冒頭に書いたように時間の制約を受けない半自由業的生き方を始めたところ、これが案外うまくゆき、今では毎年二、三回海外旅行も楽しんでいる。考えてみるとこれも私の持って生まれた運命だったのだろうが、ここまで来るにはやはり色々の岐れ道があった。自らの選択によった場合もあれば、自分ではどうしようもない運命に翻弄されたこともあった。この機会に自分の辿った道を振り返ってみよう。

 先ず私の人生の最初の岐路は、当然のことながら田中家の長男に生まれたということだった。父は高松姓から田中家へ養子に入ったのだが、祖父は田中汽船鉱業株式会社という船会社を経営、第一次世界大戦で財をなし、私の生まれた頃は戦前の貴族院の多額納税議員を勤めたほどだったので、私の幼時は大変恵まれたもので、幸先よいスタートだった。 
 祖父は私の小学校一年生の時に亡くなり、その後中学一年の時父母が離婚した。私は妹一人弟二人の四人弟妹だったが、離婚の条件として父母の何れにつくかは子供自身の選択に任された。結果としては四人とも父親につくことになり、父は船会社を辞め、祖父の事業の一つ黒鉛坩堝の製造会社をもらって、離婚は成立した。しかし日常の生活はそれまでと余り変らず、やはり世間から見れぱ恵まれたものだったと言えよう。寧ろ船会社の方は戦時中大連汽船グループに合併され、消滅してしまった。

 小学校は兵庫県芦屋の精道小学校を卒業、この学校からは神戸一中を志望する者が多かったが、当時一中はスパルタ教育で有名で、余り丈夫ではなかったからだろう、父は私を大阪府立北野中学へ進学させた。私の故郷は鹿児島県姶良郡福山という所で、桜島に近い、お酢の産地であるが、祖父は教育熱心で、故郷の子弟教育のため私立の中学校を寄贈した。当時は小学五年から中学に特別進学出来る制度があり、この福山中学から特別入学させるから来ないかと誘いがあった。私の父は断わったが、私とは子供の時から兄弟のように育ってきた同年の従兄弟がいて、彼はこの誘いに乗って五年から福山中学に入った。七高から京大に進学、卒業後電通に入り順調に人生を歩んでいた。しかし鹿児島の空気の澄んだ所で中学、高校を過ごしてから都会に帰ったため肺結核に罹り、結局五十才の若さで死んでしまった。私も行っておれば同じ運命を辿ったかも知れない。

 中学生活も良い先生、良い友人に恵まれ、東京商科大学に進学出来たのも北野中学のお蔭である。父も一橋の出身だったので、時々如水会大阪支部へ連れて行ってもらい、多くの如水会先輩に接する機会があったこと、如水会々報で「太平洋クラブ」という海外旅行のクラブがあることを知っていたのが一橋を選んだ主な理由だった。中学の成績は悪い方ではなかったので父も初めは賛成だったが、四年からの受験に失敗した時、不安を感じたのか、大阪商大を受験するように勧めだした。又同期生は殆どが大阪商大を目指し、東京を志望したのは私一人だった。多少心細かったが、窮屈な家庭を離れ、自由な生活をしたいという願望もあって、どうしても東京を受験すると最後まで頑張り通し、結局父も認めてくれたので、これが私の人生にとって重大なキーポイントになったといえる。

 一橋時代も私にとっては大変恵まれたもので、殊に大学三年間の夏休みは、一年の時はフィリピンー香港-広東-上海、二年の時は待望の米国一周、三年は中支の上海から南京に出掛けた。しかし三年の時は実は、当時のサイゴンからカンボジアとタイの国境にあるアンコールワットを見てバンコックーシンガポールに行く計画だったが、陸軍の仏印進駐等もあり学生の海外旅行が禁止になった。当時学生勤労報国隊というのが夏休みを利用して中国大陸に派遣されていたが、この年昭和十六年、一橋は海軍の管轄下で中支を割当てられていた。慌てて太刀川学生課長にメンバーに加えてもらうよう頼み込んだところ、丁度リーダーを捜していたとのことで大学、予科、専門部計十名のリーダーとして参加させてもらい、漸く日本脱出を果した。しかしアンコールワットの遺跡を見る機会は得られそうもない。

 次は就職。就職については早くから商社か、銀行か、船会社か何れにしても海外勤務の出来る会社に行こうと思っていた。大学二年の時アメリカに行き、ニューヨークに約一ヶ月滞在したが、当時岩井商店(現在の日商岩井)のニューヨーク支店長の菅谷さんは一橋の先輩で、この人に会ったことが就職の岐路になった。又三井物産の支店長の宮崎さんもやはり先輩だったが、後に宮崎さんが社長の白洋貿易に転職することになるのも運命の出会いと言える。菅谷先輩の曰く、「三井、三菱は余りにも大き過ぎ、組織化されていて、一人一人は歯車の一駒に過ぎず、個性を発揮出来る余地は少ない」。これが潜在意識になって、就職先の選定に当たり先ず商社に行くことは決めたが、結局三井、三菱を除き当時海外に最も多くの支店、出張所を持っていた岩井商店を選択した。七組の伊藤信典君も一緒に入社したが、残念ながら同君は戦死した。

 当時米英蘭の日本に対する圧力が次第に強化され、風雲急を告げ、我々も卒業を三ヶ月繰上げられて昭和十六年十二月大学を卒業、翌年一月岩井商店に入社したが、僅か一ヶ月で二月には大阪堺金岡の輜重聯隊に入隊した。輜重といえば当然馬だと思っていたが、入ってみると自動車中隊だった。学生時代から小型免許は持っていたのでこれ幸い、無理に将校にならなくても兵隊のままでもよいと考え、幹部候補生の試験は受けないことにしたが、教官から試験を拒否するのは不忠の民だと叱られ、試験だけは受けることにした。しかし試験である以上落ちれば元々である。皆夜寝床に入っても懐中電灯で一生懸命勉強していたが、私は昼間の疲れもあって十分睡眠をとった。いよいよ試験当日白紙で出せば故意と見られると思い、どうせ勉強していないのだから知っていることくらい書いても受かるまいと考えて、ある程度は答えを書いて出した。四月一日に第一次の発表があったが、ビリから何番目かで受かってしまった。どうせ幹部候補生になるのなら乙幹では面白くない、甲幹を目指そうと思ったが、甲乙の結論が出されるのは四月二十日、その間僅か二十日しかない。駄目だとは思ったが兎に角この間は一生懸命頑張った。いよいよ発表の前夜偶々私達の教官が週番で部隊に泊まっていて、当番兵が呼びにきたので教官室に行った。教官からいきなり「貴様は大器晩成型じゃ」と言われ、ポカンとしていると「お前は将校になる資格があると思うが、如何せん最初の試験成績が悪い。自分としては大抜擢の答申をしたが、自分には決定権はない。幸い甲幹になったら一生懸命頑張って、あれはメガネ違いだと言われないようにしてくれ」と言われ、多少の望みが出てきた。翌日発表の日、半分あきらめていたが、ふと私の名前が出てきて、後もう一人名前が呼ばれて以上となった。つまりビリから二番で滑り込むことが出来た。後から知ったのだが、当時私の中学の同期生の大内君というのが私の部隊に見習士官でいて、私のことを教官に宣伝してくれたお蔭で、教官も特に注目してくれていた結果で、これも運命とつくづく思った。

 幹部候補生となって東京馬事公苑にあった自動車学校に行った。この学校では真面目にやったが、幸い半年の間に二度あった学科試験はどちらも一番の成績をとることが出来た。卒業前五区隊ある各区隊から一名ずつが選ばれて校長の試験を受け、一名に教育総監賞が授与されることになった。第三区隊からは私が代表になり、試験を受けた。結果は広島の部隊から来た男が受賞したが、卒業成績はこの男が一番、二番は私の部隊から来た中尾君、そして私が三番だった。つまり私はビリから二番で甲幹となり、トップから二番で原隊に帰ることが出来たので、教官は大喜びだった。

 原隊に戻ってから転属先の希望を聞かれたので南方行きを志願したが、身体検査の結果は北方適の一番ということで、東満の林口(後に平陽に移動)にあった第二十五師団司令部に転属となった。師団司令部にいたので他部隊への転属命令は見ることが出来、南方要員の場合はいつも志願するのだがなかなか出してもらえなかった。ある時シンガポール燃料廠付きの命令がきたが、資格は自動車将校、二十五師団には当時自動車将校は五名しかいなかった。今度は確率五分の一、先ず当確と思っていたところ、当時師団司令部にもう一人中尉の自動車将校がいて、彼が自分が行くと言いだし、結局彼に譲ることになった。彼は勇躍出掛けて行ったが最後はビルマに行き、残念ながら戦死したとのことだった。もしも私が行っていたらやはり戦死したかどうか。

 昭和二十年三月、私の部隊に動員命令が下され、西部軍司令官の管轄下に入ることになった。当時未だ沖縄は落ちていなかったので、我々は多分沖縄へ行くのではないかと思っていた。私は参謀長に随行して先発、福岡の西部軍司令部に出頭したところ、結局宮崎県に行き、米軍の上陸に備え本土防衛に当たることになった。あのまま満州に残っていたらどうなっていたか。当然ソ連に抑留されただろう。幸い宮崎県で無事終戦を迎え、十月頃復員、岩井産業に復職して戦後の社会生活が始まった。

 満州では師団司令部勤務で比較的のんびり過ごしていたので、父から結婚のことも考えるようにと見合いの写真が何枚か送られてきた。司令部はお役所のようなもので、電話交換手とかタイピストとか女子職員が大勢いたが、彼女らが面白がって私より先に開封して良いの悪いのと勝手なことを言っていた。その内前述のように動員となり、写真は一括して送り返した。終戦で自宅に帰り暫くして落着くと共に又父から見合いを勧められた。最初に持ち込まれたのは京都の旧家のお嬢さんということだった。兎に角見合いの手配を承知した直後に、もう一つの話が持ち込まれた。こちらは郵船会社のサラリーマンの娘、どちらかというと後口の方が家庭環境も似ており、好ましいと思ったので、無理をいって後口の方を先にしてもらった。それが今の家内である。先口の方は会っていないのでどういう人かは分らないが、私にとっては今の家内は寧ろ過ぎた女房、後口を先にしてもらって良かったと思っている。

 ご承知のように終戦後財閥解体で三井物産、三菱商事は解体され、小さな会社が沢山出来た。その中に白洋貿易という会社があり、社長は三井物産最後の社長宮崎さんで、当時世界の五大商社に数えられていたブンゲの総代理店だったので、海外へ行けるチャンスも多いのではないかと思った。前記のように宮崎社長とは太平洋クラブの旅行でアメリカに行った時面識があったので、幸い入れて頂くことが出来た。

 私もいくつか会社を転職したが、今にして思うと年齢も丁度働き盛りでもあり、この白洋時代が一番働き甲斐があって楽しかったので、私の選択は大当たりだった。しかし昭和三十一年、白洋貿易はリッカーミシンの関係で行き詰り、日商株式会社に吸収合併されることになった。これは余談だが、後に岩井産業も日商に合併され、今日の日商岩井となったのだが、私は此の日商岩井を構成する三社-日商、岩井、白洋のすべてに正式社員として夫々に約七年ずつ在籍したことになる。これは日商岩井の社員多しと雌も私一人しかいない。

 日商と合併の時私は名古屋支店勤務で、今流行りの単身赴任の走りだったが、合併と同時に大阪に帰してくれ、本店燃料課長兼雑貨課長となった。この燃料課は男子と女子の社員が一人ずつ、石炭のベテラン田中老という顧問が一人の計三名という顔触れで、当時は石炭は貴重品の時代、日商で扱える石炭は殆どなかった。調べてみると石炭を扱うには資金を必要としている鉱山に先ず融資し、その上で扱わせてもらう外なかった。そこで九州の中小炭鉱で資金を必要としているところがあると出掛けて行き、現地調査して見込みのある山へは融資してぼつぼつ取り扱えるようになった。その頃佐賀県にある今里炭鉱という中規模の鉱山が開発資金を必要としているという情報が入ってきた。偶々この時私はボルネオの石炭調査のため出張を命ぜられたので、前記の田中老に出来るだけ資料を収集しておくように依頼して約三ヶ月ボルネオに出張した。帰国してみると私の出張中に燃料部長と経理部次長の二人が今里炭鉱に出掛けて調査の結果、一億二千万円の融資を決定。その中九千万円は既に融資されており、残金三千万円は帰国後私が否応なく融資せざるを得なかった。そのお蔭で漸く月一万トン程度の石炭は扱えるようになったが、突如として所謂石油ショックに際会、石炭は出るが今度は売先がなく、徒らに九州若松の埠頭で野ざらしとなり、みるみる貯炭の山となってしまった。

 これと平行して台湾にある南荘炭鉱を経営している林為恭さんがアプローチしてきてこれも採り上げ、色々経緯はあったが、結局百万ドル(当時の換算率で三億六千万円)を投資し開発に踏みきった。この方も炭層が不安定でなかなか計画通りに進まなかった。この計画推進中のある月曜日の朝、部長から呼ばれ、丁度この頃ブラジルのウジミナス製鉄所の建設が決定され、日商もサンパウロに出張所を開設することになり、その所長に転勤を打診された。私としては願ってもない話で直ちに承知したが、待てど暮らせど発令にならない。おかしいと思って人事部に聞きに行ってみると、今私を外しては台湾炭の開発がうまく行かないとの意見が出て、結局代わりの者が行くことになったとのことだった。此の時若しブラジルに行っていたら恐らく私の人生も又違っていただろう。

 九州の石炭は時代の大きな変革に際会、一会社や個人の力をもってしてはどうにも仕様がなく、止むなく縮小計画を作成したが、台湾の方は原料炭でもあり、投下資金も大きいので現地で再建計画を練るべく志願して台北支店長になった。幸い台北支店の業績は私が赴任してから約一年で取り扱い金額も約三倍になったが、石炭の方はなかなか炭層が安定せず悪戦苦闘していた。一方九州炭の方は益々状況が悪化して後任者がお手上げとなり、結局その手仕舞いのため帰国命令が出た。以来整理に当たったが結局約一億五千万円の損失を出すことになった。

 これも運命という外ないが、漸く整理の見通しもつき始めた頃、偶々住友不動産にいた麻生泰正君を訪ね、同社の瀬山社長に紹介された。話している中に瀬山社長が住友商事時代住んでおられた西宮のお宅の隣りが私の父の家で、面識があることが偶然分かった。その頃住友不動産も人材不足だったので、来ないかと誘われた。石炭の後始末も略々見通しがついたことでもあり、気分一新に丁度よいと考えて、三ヶ月の猶予を乞うてお受けすることにした。約二ヶ月で整理も終り、日商の方も円満退職して住友不動産に転身した。

 日商時代四十二才の厄年の時、暮の忘年会で食後どうも気分が勝れないので、トイレに行くつもりで部屋を出たところで貧血を起こして倒れた。この時は暫く休んで落ち着いたので一旦帰宅、翌日阪大病院の中学同期の医者を訪ね診察してもらったところ胃潰瘍との診断だった。丁度暮で会社も休みになるので直ぐ手術して欲しいと頼んだが、一ヶ月様子を見てから手術の有無を判断することになり、一ヶ月後の再検査では今のところ落ち着いているので手術は必要なして言われた。その代わり毎年一回は胃のレントゲン検査を義務づけられ、それから六年目の四十八才の時例年通り検査を受けたところ突然手術するように言われた。病室の空くのを待って入院、胃の三分の二切除の手術を受けた。この時もう一人別の医者に診てもらって本当に手術の必要があるかどうか判断した方がよいという人もいたが、担当の医者は中学の同期生であり、もう一人診てもらうとすると全く初めての人なので、もし違う判断が出たとしたら私としては友人の方を信用するからと言って、そのまま手術してもらった。以来既に約二十五年、お蔭でその後は健康で今日に至っているので、この選択も結果としては大変良かった。

 住友不動産には約十年勤め、五十五才の定年を迎えることになった。その約二年前カナダのモントリオールで世界不動産連盟の総会が開催され、瀬山社長夫妻が出席することになり、その随行を命ぜられた。総会も無事に終りシカゴに行ったが、ここで当時住友不動産と緊密な関係にあった日本熱学の牛田社長が合流した。シカゴからマイアミ、アトランタと約一週間行を共にしたが、瀬山社長は奥さん同伴でもあり、又全くお酒を召上がらないので夕食後はすぐ部屋に引っ込んでしまわれる。さりとて外出することも出来ず、牛田社長とホテルのバーで飲んで過ごすことが多かった。これが又定年後の私の運命を左右することになる。帰国後新設の管理部長を命ぜられ、その業務の確立に全力投球、略々その基礎が出来たところで定年を迎えた。カナダから帰った後日熱の牛田社長から盛んに引っ張られたが、定年も近いことであり、又管理部長になったぱかりでもあったので殆ど聞き流していた。しかし定年が近づくのにその後どうなるのか会社から何の話もないので、ある日牛田社長を訪ね、私に何を期待するのか聞いてみた。同氏の話は、日熱も会社が大きくなったので組織化が必要になったのだが、社内にそれが出来る人がいないので、私にそれをやってくれないかとのことだった。それなら三十年も組織の中で仕事をしてきたので、私にも出来そうな気がして引き受けることにした。後で分かったが、住友不動産では定年を延長して、管理部長のまま新設の不動産管理会社をやらせる積もりだったらしい。これも素直にそうしていたら又今日の私とは大分違った人生を歩むことになったかも知れない。

 さて日熱ではその生産部門のエアロマスターの専務に就任したが、入社してすぐ同社の内情が出鱈目であることが分かった。しかし自ら選んだ道であり、何とか建直しが出来ないものか一年位はやってみる積もりだった。これと同時に、子会社の不ニエアロセルという建設現場の仮設建物に空調器をリースする会社の社長に名義を貸して欲しいと頼まれ、承知した。直ぐ専任社長を選定するという約束だったが、何時までも決まらず、結局この方の実務も見ざるを得ないことになった。日本熱学は牛田社長の夢はどんどん拡がるのだが、実務が伴わず、経理担当の専務の財務運営が出鱈目だったこともあり、翌年五月末結局不渡りを出すことになった。そうなるとこの難局を収拾する人がなく、結局私を含む数人が中心になって会社更生法の適用を申請した。一方不ニエアロセルの方は初めは資金繰りはすべて親会社の日熱で面倒を見てくれていたが、途中で親会社の方が資金繰りがつかなくなり、当時はまだ通用した日熱の手形を渡され、これを割引して経費を賄うよう要請された。当時既に社員も約五十名おり、放ってもおけず、銀行に割引枠を作るためには個人保証せざるを得なかったので、倒産と同時に銀行から自宅を差押えられた。会社更生法の方は結局日熱は破産、エアロマスターの方は更生法の適用が認められ、管財人からは会社に残るよう要請されたが断って浪人した。不ニエアロセルの方も不足分は私個人で負担して支払い、自宅の差押えだけは漸く解除出来た。

 その後は日商時代石炭で付合いのあった人と半々の出資でテイオーパーツという銀の接点の製造販売会社を大阪で設立、社長に就任したが、銀相場との関連もあってどうも私の手には負えそうもないので手を引き、その人に一任し、私は関西で住友不動産関係の仕事をさせてもらっている内に満六十才になってしまった。

 日本熱学の整理がついた頃、如水会々報でドイツのロマンス街道行きの海外旅行の募集があった。丁度気分転換にもなり、生来の海外旅行熱もうずきだしてきたので、僅かに残った住友不動産の株を処分して資金を作り参加した。この時のメンバーでは私が卒業年次は一番若かった。久し振りの海外旅行でこの旅は本当に楽しかった。私は十二月クラブの海外旅行の関係で第一回しか参加しなかったが、このメンバーは七回海外旅行に出掛けた。しかし皆年をとり海外旅行は無理になったので、その後は「一橋遊子会」と称して国内旅行に切り替え、毎年三回は国内旅行をしたり、集まって食事をしたり楽しい会合を持ち続けており、私がその企画とお世話を一手に引き受けている。

 満六十才の還暦を迎え、それまでの自分の人生を振り返ってみると何とも空しい。後何年生きられるかは分からないが、少なくとも健康な間はもっと自分の人生を大切にした生き方をしたいと考えて、それまでのサラリーマンの延長のような仕事は止めて、自分のぺースで出来る自由業を始めたいと思い、大阪を引き揚げて横浜の自宅に戻った。しかし不動産取引主任、損害保険代理店資格等は持ってはいたが、直ぐそれで飯が食える程世間は甘くない。それからは暇に任せて友人、知人を訪ね歩き、何か自分に出来ることはないか模索した。その内住友不動産と密接な取引のあった和光物産を訪ねた時、社長から台湾の燐砿石の調査をしてくれないかと頼まれ、久し振りに台湾に出掛けた。この話は結局実らなかったが、偶々この頃この和光でアメリカから力ーペットを輸入することになり、輸入業務の出来る人がいなかったのでお手伝いすることになった。この時考えたが、仕事を引き受ける条件として、
 一、出勤、退勤、休日等自分の時間を制約されないこと(勿論引き受けた仕事は完全にし遂げる)
 二、その会社に出来る人がいない仕事だけを引受ける
 三、報酬は要求せず、貰えるだけを有難く頂く
 以上三点を心に決めた。

 面白いものでサラリーマン時代には到底考えられなかったが、浪人すると色々の仕事の話が持ち込まれ、お蔭で浪人してから今日まで仕事がなくて困ったことはない。そして老人の仕事として気を使ったのは前記の引受条件の二、即ちその会社の人がやっている仕事と競合しないことである。勿論こちらは経験豊富、若い人より少しはうまくやれることもあるが、やはり時代の相違ということもあり、又仮令こちらのやり方が多少は優れていたとしても、若い人のプライドを傷つけては寧ろマイナスの方が大きい。私の意見を求められれば言うが、求められていないのに出しゃばって意見を言うことは出来るだけ避けてきた。私は前記の和光物産で約十年仕事をさせてもらったが、その間私のような顧問格の老人が何人か入社してきた。しかし結局長続きした人はなく、皆短期間で辞めていった。それもやはり仕事のことで社内の人と合わなくなったのが原因ということが多かった。引き受ける仕事は貿易関係、経理処理、社会保険等の総務関連の仕事が多い。これらは僅か数人の会社ではその専任者を置く余裕がないので、私のような何でも屋は結構重宝がられる。これも一つ会社で一生ご奉公するのではなく、会社を転々とし、いろんな仕事をこなしてきたお蔭だろう。現在は所謂デューダーの時代、転職は当り前のようになったが、私達の時代では私のようなキャリアは寧ろ変り種だった。これも私の運命だったのだろう。

 以上長々と書き綴ってきたが、これからも健康が許す限り、そしてやらせてもらえる仕事がある限り続けたいと思っている。出来れば残りの人生はボランティアの社会奉仕等何か世のためになることが出来ればとも思うが、今の私には余り大きなことをする力はない。せめて自分の属する小さなサークルに奉仕することで満足している。十二月クラブ、高瀬ゼミの荘門会、前記の一橋遊子会、中学同期生会の六稜四九会それに親戚の集まり高松会等のお世話をさせて頂き、忙しいが充実した毎日を過ごしている。殊に海外旅行の企画、実行は現在の私には生甲斐であり、健康の元ともいえる。私の人生の中では色々の人との出会いがあり、それが私の人生の岐路になったのだが、結局これが私の運命だった。私は生まれつき余り物事を深刻には考えず、又仮令結果が悪かったことでも済んだことに何時までもくよくよせず、自分の運命と割り切って次の挑戦に向かってきた。余り運命に逆らわず、素直に従ってきた結果が今日の私の姿になったと言えるだろう。