6組  田中順之助

 

 敗戦の様相、日に日に濃くなりつつあった昭和十九年六月、凡そ物の用にもたつまじき小生にも、赤紙が舞い込み、東部第六十二部隊に入隊致しました。三、四ヶ月訓練の後、中隊全員の見送りを受け、仙台の士官学校に入校しましたが、筋骨薄弱の故をもって、二、三日いただけで、帰れた義理じゃない部隊にもどされて了いました。その後やりきれない思いをし乍ら二ヶ月程、重火機部隊の猛烈な訓練にホトホト参って居りました処、経理部幹候の試験がある旨を知り申し込みましたが、採用五名受験者数約千三百人と聞いては、到底問題にならんと思い乍らも受験。当時社会人生活二、三年の時で、少しは勉強していたとみえ、殊に偶々入隊直前は、会社法などのぞいていた訳ですが、試験問題をみると驚きましたね、出てるじゃないですか。内一問は「人的会社と物的会社について」、それこそ一写千里の勢いで書きあげ、思いもよらぬ五名の内に入って了いました。不合格の多数の方々は、十日程後レイテに向い、その一週間後、全員上陸もならなかった旨の悲報が届きました。小生生涯顧みて、何一つツイテませんでしたが、之だけは大ツキにツキ今日ある訳でして、爾来この事をどれだけ思いだした事でしょう。

 それにつけても老境にあるこの頃、殊に健康に恵まれず来ました小生、最近気がついてみると、生とか死とか言ったテーマを考えてる自分を見出し、時に苦笑する事も屡々で、かねがね考えていた事ですが、誰に誘われるでもなく数年前、可成りの勇気が要りましたが、教会の門を叩きました。爾来二年半、只の一度も礼拝を欠かすことなく相勤めましたが、あの形式ばった在り方には、どうしても入信出来ず、遂にその旨牧師さんにご挨拶致しました。

 屡々脳裏を去来するこの様な根源的なテーマに、凡俗がいくら取組んでみても始まらない訳でして、最近は生死、職業、家庭その他一切は、生れおちた時点で既に刻みこまれてるのではないか、と言ったかねがねの平凡な考えに、一段と傾斜しております。

 処で小生この処体調益々ふるわず、長年消化器疾患に色々悩まされて来ましたが、昨年思いもよらぬ心臓疾患による脳梗塞に見舞われ、幸い軽症で後遺症も殆どありませんでしたが、心臓の症状、発作は物凄く、年末どうにか歩ける様になる迄、散々苦しみました。

 之だけ苛まれては何どこでもなく、思えば嘗て十二月クラブの会計を三年間程つとめた頃の様に、元気で人中に出る様でなくては駄目だなと、つくづく感じております。

 長年親しんで来た油絵、自ら願いでて非常勤にして戴いてまで打ち込んで来た画作、然し中年から殆ど独学に近い形で始めた小生の油絵ごとき、又絵なんてそんな生易しいものではないこと万々に承知し乍らも、次第に只趣味的に楽しく描いている事にあきたらず、絵の性格とでも言いますか取組みだして苦吟(結局「絵とは何か」と言う事になりますが)。ある日さる画家が、「美は驚きだ」「縞麗にうまく描いた絵は、人の目を楽しませはしても、その心をおののかせる事はないだらう」と、精神性を唄い上げてるのを目にし、いたく感銘。正に之だとばかり、性格丸だしの激しい、厚塗りの、凡そ一般性のない作品を物しては悦に入っておりました。

 その頃でした。数々の不調を訴える様になり、大作など思いもよらず、洵に残念ながら、日本美術家連盟会員を除き、団体、グループの類いは皆退会して了いました。爾来数年を痛い無為、空白の内に送って了い、今は只復調を願ってるだけですが、それでもまだ諦めきれず、幸い機会に恵まれれば、家内と喜寿・古稀二人展を開き、小生の悲喜劇の幕としたいなど、凡そ叶わぬ夢物語に興じたりしております。

 家内は健康で、長年小生の健康管理に懸命につとめてくれており、有難い限りですが、今は看病の合間をぬって、油絵・テニス等々、精々老春をエンジョイして貰っております。

 この処、学友、知己等の相次ぐ訃報を耳にするにつけても、この年齢、大台前後の厳しさを、つくづく感じ、このどうにもならない体調ながら、何とか少しでも克服をと、闘魂を燃やしている昨今です。