2組  冨安(石井) 直助

 

 一口に五十年というが経ってみると夢のような気もするし早いものだと思う。「生を受けて五十年」とは異り卒業後の五十年故に尚一層その感が強い。お互いの人生も昔ならばとっくに浄土の主になっている筈がここまでこれた今、先ずは両親に感謝しなければ……と思う。

 俺は三度死んだと時折り、ここ福岡の友人や知人に語ることも再々あった。
 母が逝く数年前に初めて告知された乳幼児の頃のこと、熱病に冒され末期の水を口にしたこの俺がパッチリと目を開いたと云う嘘のような本当の話が飛び出し赤ン坊としては記憶し得ざる最初の死との遭遇であったらしい。

 長ずるに及んで昭和十一年、恰度予科に入って最初の夏休みの八月下旬予期せざる自動車事故(故障)で大ケガを受け眼、鼻、口と耳を残してグルグルと包帯につつまれて過した病院生活、よくぞ即死を免れたものだと周囲の者から強運な奴だと云々された当時を思い出す。第二の死とのめぐり会いとはこの事である。

 約二週間遅れて九月下旬、包帯の鉢巻姿で「小平村」に戻った憐れなこの俺を覚えて呉れてるクラスメートもまだ健在である筈……。その頃はプール横の砂利道を踏んで寮→教室→体育館→寮というのが毎日の順路だったが、当時小平寮内では盗難事件が相ついで起っていた。直ぐに運営委員会?の対策が打ち出され各部屋(五、六人部屋)毎に一名の当番制で講義を休み天井近くの狭い個人用荷物棚(押入れ)を片付けエビの様になって横臥、ハリ番という事が定められた。ところが……である。偶々小生のハリ番の日の講義内容(物理の実験)が前期試験に出題され参った参った。遂にその一問を棒に振る破目となると云う寮生活のひと齣が第二番目の命拾いと共に甦ってくる。

 頭のケガはその後快方に向ったが本来のバスケット部に戻るのが恐くて暫時の休み、ポヤポヤしてたら先輩の小島慶三さんに口説かれC組の漕手となり隅田川通いが始まったのである。

 大久保駅で電車をおりタクシーでの艇庫通いだが車の定員一名オーバー、これを逃げる手だては一番小さなコックス(誰だったか?)を中央にのせ「交番所」の横を走る時は彼を押し付けコートで蔽って通過すると云う今にして思えば苦しくも楽しい修練の毎日であった。

 翌春のHCS対抗レース迄の六ヶ月余りではあったがこのポート体験と、卒業まで続けたバスケットボールの鍛錬で予期せぬ体力増強が出来たわけで、今こうして想い出にペンを走らせ乍ら当時の苦しく且つ楽しくもあった鍛錬に培われた体力があったればこそ現在があるのだろうと小平から国立への青年期に感謝の念を禁じ得ない小生である。

 さて、第三の死とのめぐり合いは戦時中のことゝ相成るがそれは戦地に非ず、銃弾に非ずである。
 十二月末の慌しい異例の卒業、そして日ならずしての軍隊へとお定まりのコースはあの時の流れだ。処が米軍機の空襲も日を追って激しくなる昭和十八年夏も過ぎる頃から激しい胃痛に苦しみが始まった。戦火も日々激しさを加え戦友は次々と野戦へ征くなかで休養も取れず、到頭胃潰瘍となった。連日の吐血、下血で苦しみ、まさに死の思いの毎日だったが突然とも云うべき重病のお蔭?でとうとう戦地出征も不能のうちに敗戦の日を迎えた心境は複雑としか云い得ない小生である。

 さて、闘病の記のハシリだけ書かせて貰うことにしよう。医者は「命の保証はない、直ちに切開手術を」と診断を下された。厳しい宣告だったが、「一寸待てよ」と当時の部隊長、休暇は与えるが腹切りは何時でも出来る、まずは温泉治療に行け、湯の平温泉の湯ならばキット治るよとの御託宣。可なり乱暴な意見だったが上官の指示に従い腹切りをやめ薬のご厄介にもならず強運か悪運か生きのびたこの俺も不思議不思議としか表現の言葉もないという心境であった。

 この湯の平という温泉は十二月クラブの諸兄には無知無縁の存在だと思う。大分県、由布院の山奥にある北部九州では最も厳しい寒冷の地であり、温泉で胃腸病の湯治場として広く認められているところである。昭和十九年二月の寒く冷い山峡の温泉郷で孤独と寒気と胃痛に堪え忍びながら一人淋しく湯をのみ続けて十日余りのある朝、温泉宿のオヤジが「オヤッ顔色が少々ピンク色をさしてきたぞ、お粥に少々米を加えてやろう」と。

 やっとゴハン粒が探せる位のお粥で塩分も少々味付けされた食事の美味しさよ、途端に元気になったしだいである。こんな大病ー吐血、下血ーも医者の世話にもならず病死覚悟のこの俺が今日まで生き永らえて五十年の思い出にペンを把っていようとは。

 三回もの死神との出合いは、おかげであの世の景色も眺めず仕舞いのひとり語りとなった駄弁をお許し願いたい。
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 さて、一転して昨今の心境をいま一つ。
 金属疲労でシャフトも折損する。人間も金属疲労ならぬ老化(Aging)で同じことが現われるしそれは避け得ぬことである。人間の細胞は三十才位から徐々に減り続け体力も相呼応して衰えてくる。体力の限界かな?と急に身に泌む昨今だがこれもAgingのせいでどうにも防ぎようもない。在京の諸兄とて同じ心境であろうと推察する。

 若い人と一緒に負けずに飛ばしたいと往年を偲んでも無理な事はわかっていてもつい力でとばしたくなるけど「己を知れ」と云うことか?

 朝食が美味しく平らげられるよう夜食を避けバランスの良い食生活ーそれはプロの食事に非ずー家庭食にあると思う。こんな事を考え乍ら余生を勉めて強く生きていこうではないか。

 中学二年の春、オヤジに連れられ富山は永平寺本山に参詣した。この時老管長に戴いた人生訓を頭に入れて頑張って来た俺だが時折り、余り強調すぎて却って他の誤解に及んだことも再々あったが本意を理解されず残念だったことも止むを得ぬことか?その時の教えとは、

自ら活動して他を動かしむるは 水なり
常に己の進路を求めて止まざるは 水なり
障碍にあいて 激しくその勢力を倍加するは 水なり
自ら潔くして 他の汚濁を洗い 清濁合せ入るるの量あるは 水なり

 水の心、水の一生は人生そのものであろう。ただ強さ故の誤解を受けぬよう自ら反省、チェックが肝要と、今はわが孫に判り易く云い聞かせる昨今である。

 十二月クラブの諸氏よ、一層の長寿と幸福をかち得られんことを祈る。そして思い出の雑記帳ー駄文を判読して欲しい。文章のかき方がこれ程の重荷であろうとは、これ程に難しい事かと五十年ぶりに意識したしだいであるが、反面ではこれも頭の体操かなとも考える小生である。
 そして原稿十枚の責めを果せず渡辺編集委員長に低頭あるのみ。ごめん、ごめん。バイバイ。