7組  壺井 宗一

 

 (一)

 二十一世紀まであと十年。いまわれわれを取り巻く世界の情勢はめまぐるしく激変している。一年経つと世の中は全く変ってしまう、という体験を昨年も味わったし、今年もどのような変化が突出するかわからない。一橋を卒業して五十年。戦争勃発と共に、戦地で、内地で戦争の坩堝の中で懸命に生き、引き続き戦後の苦難を家族と共に歩み続けた。そして今激しい時代の流れに生きている。

 太平洋戦争に敗れてから四十五年が過ぎ去り、今では戦後生れが六二%を占めているという。それらの人達は、生れる前にわれわれが経験した戦争の悲痛といわれてもとまどい、聞き流してしまうのも当然である。たとえば戦争の悲惨さ、恐ろしさの体験がなく、マスコミから軽量トリオと酷評される政治の指導者達でさえ、平和憲法を強引に拡大解釈して、自衛隊派兵などと平気で口にする。平和憲法をむしろ一つの制約と考えているのではないかと疑いたくなる。日本外交は世間からいわれるように打つ手を逃がし、国民に増税までして多額な金を出しながら、国際間の不評を買い、わが国に独自の外交理念がない現実を露呈したのはまことに残念である。

 さもあらばあれ、ソ連のペレストロイカ、東欧の変革、ドイツ統一、湾岸戦争と世界の歴史は大きく変りつつある。戦中戦後と苦しい世代を送ることを余儀なくされた私達は、青春とはほど遠い生活ではあったけれど、一方では激しい世界の変化を毎日この目で見ることができ、それは過去から現在への歴史の証人として貴重な体験であるはずである。

 戦争は一年毎に遠くなる。戦時戦後の悲痛な体験を発掘し、継承する貴重な努力が、心ある人によって続けられてきた。私も生と死の体験を、当時を思い出して歴史的現実を書きとめて置きたい。

 (二)

 昭和十六年十二月二十九日に鉄道属に採用され、大臣官房勤務となった。徴兵検査は右眼が極度の近視で第二乙種合格だった。間もなく品川駅助役を命じられ、駆け出しの見習助役にすぎなかった私は、軍の輸送の中心であった品川駅の助役ということであろうか、召集令状も来ないまま十八年十一月に東京鉄道局の要員課長を命じられた。この課はそれまでの人事課が戦時組織改正で各部の人事、動員事務等を一つに集めたもので、東鉄六万人の人事を掌握するという大変な課になって、独身の若輩には大変な重荷で日夜苦労したことを思い出す。石炭はじめ戦時重要物資を輸送するため、機関士や線路工手等軍の要請による召集事務もあずけられたので参謀本部兼務を命じられた。そのため終戦まで召集されることはなかったが、戦局が破局に向うにつれて帝都の空襲は日に日に激しさを加え、戦地よりは東京の中心地の方が生命の危険性にさらされていたように思う。昭和十九年鉄道業務は軍に準ずるものとされ、鉄道は戦闘隊に組織化されることになった。これは完全な竹やり部隊で、玉砕精神をたたきこまれた。私は東鉄全職場を戦闘隊に組織化するため、東京外七県の管内を走りまわった。若き体力と気力が充実していたからであろうか。そのうち東鉄庁舎が焼け落ち本省の七階に移って間もなく、あの衝撃が起ったのはたしか丸の内、神田が焼尽した日だった。

 その日は朝からB29が何機も飛来し、驚く程の低空飛行で襲いかかり、丸の内一体は爆弾と焼夷弾で火の海となった。その爆弾の一つが本省の中庭に落ち、物凄い大音響が上った。私はたまたま当時の総務部長吾孫子さん(後の国鉄副総裁)と二人で窓ぎわに腰をかけて話し合っていたが、その窓のふちを削りとって中庭で爆発したのだった。ヒユーッという金属音がして「今度は近いぞ近いぞ」と言い合って皆で机の下にもぐり込もうとした途端だった。窓ガラスはすべて飛び散り、砂塵濛々とした室内に書類は全部舞い上り、そこにいた者は皆倒れてしまってしばらくは起き上れなかった。しばらくして吾孫子さんと二人で部屋の横の便所のドアから外をのぞいたら、窓のふちが五糎程削りとられていた。若し五糎内側だったら室内の者達は木葉微塵だった。「おいおい」と吾孫子さんと肩を叩き合ってしばし絶句したことだった。生と死の一瞬の人間の運命はこういうものかと今でもしみじみ思うことである。

 人も物も輸送が逼迫して暗い気持の時に、私にとって一つのよき思い出がある。焼夷弾による破壊が増々激しさを加えてきた二十年を迎え、焼夷弾が国立の図書館に命中して窓ガラスがこわされたことがあった。

 図書館には商大が誇るメンガー文庫とギルケ文庫がある。これが焼失したら大変だと思われたのであろう。時の高瀬学長と田上教授が、米谷教授の手紙も持って私のところに来局された。両文庫を守ることは世界の文化財を守ることだ、一日でも早く両文庫を疎開できないかと切羽詰った要請だった。私は局長、関係部長や貨物課長の細田さん(後の運輸大臣)に執拗に説いてまわり遂に信州の伊那に疎開することに成功した。膨大な両文庫が貨車積みで送られたその日の感激は忘れられない。幸いにして終戦まで無事に保管され、私は本省の会計課事務官に転出したので、何時図書館に返ったのかその後のことは知らない。

 (三)

 一九六五年六月、私はベルリンの壁を越えて西独から東独へ行ったことがある。東独の監視兵に銃剣をつきつけられて所持品全部を調べられた後、ベルリンの中心ブランデンブルグ門を仰ぎ、破壊されたままのライヒスターク(旧ドイツ帝国議会)の建物の前に立った。街を歩いている人は少なく、無口で、老人が多く、それは正しく死の街のように思われた。それが一九九〇年十月三日、西独の主導のもとに東独の併合が実現した。私は茶の間のテレビで、ライヒスタークの正面に設けられた高さ四十米のポールに三色旗が掲揚され、国歌「ドイツの歌」の歓呼の斉唱や打ち上げられる花火を見た。ドイツの統一だ。正に世紀の一瞬であった。私は二十五年前の同じ場所に立った時を思い、間違いなく世界史に残るこの光景を見て深い感動を覚えずにはいられなかった。ドイツ人は体制を異にし、武力で対決してきた二つの国を無血で一つの国にするという歴史上の快挙をやってのけた。ドイツ人の優秀性に敬服し、同じ血の流れる民族の強固さを思うことだった。

 しかしその後のドイツはどうだろうか。一九九一年二月末で旧東独の失業者は七十八万七千人、失業率は八・九%といわれ、ドイツ統一の時は五十三万人であったから、急速度をもって増えているという。東独の経済的貧困は予想以上に深く、それに湾岸戦争の財政負担は大きく膨張し、又ソ連等の東方貿易は壊滅状態に陥っているといわれ、東欧の優等生といわれた東独の現状がこれだから東欧諸国の変革は遠く、未だ未だ不安定が続いている。

 (四)

 湾岸戦争は一応終った。フセインの侵略行為によって起ったこの戦争は、期せずして色々の歴史的事実と教訓を与えてくれた。そしてこの戦争は改めて内外の人々の日本の政治への関心をかき立てた。エジプトの新聞はイラクと並んで日本もこの戦争の敗者だったと論評したそうだ。世界の有職者から日本は与野党を問わず、重要な問題はひたすら先送りにし、選挙に勝つ以外に眼中にない政治行動の中から、一体何が生れるのかと指摘された今この日本という国をあずかるリーダーの間で、「何ができるか」「何をなすべきか」について外交の哲学もなく、確固たる判断とそれに伴う責任を引き受ける覚悟に乏しく、抽象的な国家論議に貴重な時間を空費し、いたずらに後手後手にまわっていたことは確かであろう。米欧(ソ連も含む)の指導者達の識見に比べ、日本の対処方に情けない思いをしているのは私独りだけではあるまい。

 さもあらばあれ、中東地域について改めて民族、宗教の複雑性、その長い興亡の歴史に今更ながら思いをいたされた人が多かったのではあるまいか。中東秩序を破壊したのはフセインであったが、中東地域に現在の諸国家を人工的に造り、自己の権益拡大のために動いたのはイギリス、フランス、アメリカトであった。民族の独立と宗教を無視して、両大戦を通じての勝者達の世界観で「つくられた秩序」が今日の中東地域に多くの傷痕を残し、それが吹き出したのが湾岸危機であったことを私達は知った。しかし日本は平和の担い手としての地位を確保する惜しいチャンスを逃がしたものである。ことはアジア地域で起り、しかも日本は過去に中東での支配の歴史をもたない、いわば手の汚れていない唯一の経済大国である。しかも石油は七〇%も依存している最もよき商売の相手国であり、友好地域であった筈である。かつてアメリカより無差別爆撃を受け、挙げ句の果は広島、長崎で原爆により十数万人以上の無事の民を殺傷された世界唯一の被爆国である。何故声を大にして戦争の悲惨さを訴え、アメリカに対して簡単に武力を行使することなく、経済封鎖の強化により戦争の抑止に立ち上らなかったのであろうか。そして又武力戦争開始後、日本はいち早くアメリカとイラクの間にたって、イスラエルの問題(リンゲイジ)について国連で討議するよう、一応風呂敷をかぶせておいて、武力抗争の抑止を世界に訴えなかったのか。唯二十億ドル、四十億ドル、九十億ドルを簡単に支出して、アラブ諸国の反感をかい、西側諸国にも好感をもたれず、ただ親方星条旗、アメリカ一辺倒に終始したことはまことに残念であった。

 (五)

 四月十一日、正式に湾岸戦争は終結した。しかしこの戦争の後遺症は続いている。クエートに於て油井の黒い炎は燃え続け、ペルシャ湾に流れ出た黒い潮流は地球を汚染しつつある。それにもましてイラク国内からクルド人の大規模な脱出が始まり、その数は次第に増加して現在百九+万人に達していると報じられている。クルド人はその存在が紀元前の昔から知られ、クルド語という独自の言語と文化を持ちながら、ほとんど他民族の支配下に置かれている。

 トルコ、シリア、イラク、イラン、ソ連の五ヶ国に接する山岳地帯に住み、その数千数百万人といわれるが、どの国にあっても少数民族という悲運をせおっている。この悲運な難民の救済が人道的立場から何物よりも早くなされなくてはならない。日本も今度こそ早く先手を打ってもらいたいものである。

 湾岸戦争はアジア、太平洋地域にも一つの教訓を与えてくれたと思う。中東諸国が相互に信頼と連帯の醸成につとめ、各国が安全保障のために話し合い、協調をはかっていたら湾岸戦争は避けられたかも知れない。今こそアジア、太平洋地域にも欧州通常戦力条約(CFE)のような地域的安全保障の枠組みづくりが実現できないものであろうか。四月四日に行われた日米首脳会議で、海部首相はブッシュ大統領に、中南米支援投資基金への出資約束と、中米援助会議となる「民主化と開発のためのパートナーシップ」への支援表明を贈った。日本は赤字国米政府の中南米援助のために、諾々として資金を流し込むだけでよいのであろうか。日本は遠い他の地域より、欧州に比べて遅れている近くのアジア、太平洋地域の信頼と協調の醸成を急ぎ、安全保障の枠組みづくりに本格的に急ぐのが先であろう。四月十六日ゴルバチョフソ連大統領の来日により、全国民が熱い目差しで見詰めた北方領土問題は依然として進展は見られなかったものの、ソ連は今回の訪日を「太平洋地域の平和と安定に向けての両国関係の改善」という枠組みの中で位置付けていることが明らかになったということも注目すべきである。

 (六)

 さて、戦争の悲惨と平和のありがたさを体験した大正っ子としての結語を急がねばならない。今からでも遅くない。先ず日本は世界の現実を直視し、真に求められているものに答えなければならない。たとえば人道的行動としてクルド人の救済を何よりも早急に急ぐことが第一であろう。

 第二は今後の世界の問題は国連中心に動くであろうから、日本とドイツの二大経済国を安全保障理事国に加えることが先決であり、そうでなければ世界の諸問題解決の現実に対処できないであろう。

 第三にアジア太平洋地域の平和、安定について、このたび日ソが共通の立場で話し合ったこと自体、両国のためにも、地域の緊張緩和のためにもよい影響をもたらさないはずがない。冷戦時代は想像もできなかったことだ。今後日ソで対話を継続し、充実させてゆかねばならないが、ゴルバチョフの主張するアジア太平洋地域安全保障会議も、韓国、北朝鮮も入れた日、ソ、米、中国、インドの七ヶ国で形成し、平和安定のために努力しなければならない。それは欧州に比べ地域は広大だし、民族、宗教も多様を極め、大変困難な道ではあるが、将来の繁栄のために一歩一歩歩みだしたい。それが世界平和のために大きな歩みとなって発展して行くであろうからである。アジア安保の協議に応じると米国は嫌がるであろうが、対米協力が我が外交の基軸であることは変らない。しかし「ソ連の脅威」を前提としての日米安保も、変り行く現実にふさわしいものでなければならない。

 冷戦後新しい国際秩序を提唱している日本は、今後こそ米国一辺倒のみの外交の殻から出て、欧州の変革を睨みながら、アジア太平洋地域の平和と安定のために大いなる役割を果してもらいたい。時代は激しく、急速に動いてゆく。