7組  恒成  勲

 

 現在の住居(兵庫県三田市)における唯一の不満は、六甲の山並みに隠れて海が見えないことである。私は本州西端の港町下関に生まれ育ったため、物心がついた頃から海は何時でも手の届く処にあった。そして少年の頃から殆ど毎日、生家からほど近い下関港の埠頭に遊びに出かけ、関門海峡とそこを通過する船や門司港沖に停泊している船を見れば、それで満足していたものであった。何故それほど海と船に執着していたのだろうか。もともと母の実家が漁師であったので、波の穏やかな季節にはよく叔父について沖の漁労にでかけた。
 今にして思えば手伝いのつもりが仕事の邪魔をしていたのかも知れないが、夕方貰い受けた大きい魚を二匹、それぞれ鯉から口に通した細縄を両手に持って、四キロ余の帰り道は嬉しくもあり甚だ辛くもあった。叔父の漁船は五トン足らずの小舟で、延縄(はえなわ)漁法が主であった。終日海の上で過ごせることだけでも大いに満足したものである。尤も長じてから殆ど釣りに出かけなくなったのは、準備する労に耐えない物臭に因っている。

 それはさておき、私が船に憧れていたのには別の理由があった。時々関門海峡を西航する真っ白の船体と煙突に赤色で$のマークを付けた、甚だ格好の良い快速の商船を見受けていた。波止場の大人に尋ねたところアメリカのダラー汽船の定期船で、太平洋を横断して横浜か神戸に寄って香港に行くとのことであった。その後第二次大戦が始まる前からあのスマートな姿を見せなくなったが、会社が潰れたとか他の会社に吸収されたとも言われていた。かくして少年時代の夢は船乗りになることであった。その為には山口県には一つしかない商船学校に入らなければならないが、貧弱な体格の上近視では到底駄目だと身内に諭され、船乗りになることを諦めざるを得なくなった。父の要望に従って地元の商業学校に入り、やがて山口高商を経て東京商大に進学することになった。これは吾が人生のシナリオの最大の変更であった。ゼミナールは躊躇もなく伊坂先生の「海上運送論」を選んだ。卒業後の就職先には第一に海運企業入社を念頭に、機会があればパーサーになって、船乗りへの夢を実現したいものと真面目に思ったものである。ところが不運にも卒業する前年(一九四〇年)米国その他の連合国から邦人企業の海外資産の凍結を受け、各社海外駐在員は相次いで帰国を余儀なくされた。海運企業もその例外でなく、新卒採用を手控える必要があったとみえ、大阪商船ほか二、三の船会社総ての就職試験に不合格となった。私の失意を見兼ねられた橋爪先生(伊坂先生の後任)のご配慮により、船会社ではないが、船を造る三井造船では如何と言うことになり、同社の採用につき甚大なご尽力を頂いた。以来子会社を含め四十数年間こと志と違ったけれども、家族の生計を支え、かつ社会になにがしかの貢献ができたことに感謝せざるを得ない。

 さて、この年になってもなお私が海に拘り、引き続き深い関心を抱かせる海とは何なのであろうか。海は陸(おか)と陸を隔てるもの(barrier)なのか、それとも陸と陸を繋ぐもの(passage)であるのか。私には下関から見て門司が海峡で断ち切られた対岸の街ではなく、「渡し」で何時でも行ける「関門市」の一部だとしか思えなかった。(後年国鉄トンネルや関門大橋が完成して一層その感を深くしているが、残念なことに門司は行政的には北九州市を構成してい石)。すなわち、子供心にも海は障壁ではなく、船にさえ乗れば海外の何処にでも行くことの出来る通路であった。海峡を往来する大型商船が憧れの的であった理由も実にそこにあった。また後年日本史を学ぶに及んで、寛永十年(一六三三年)以降に採られた徳川幕府の鎖国政策(キリスト教の禁止、海外渡航および貿易の統制)の功罪を比較してみれば、幕藩体制を維持し得たことよりも、唐宋文化の導入消化が古代日本文化の骨格を造り、西欧文明・文化の渡来が中世以降のわが国学問・芸術興隆の活性剤となったことからも理解できるように、鎖国でなく対外交流が自由に行われていたならば、近世日本文化の様相は全く変わっていたであろう。鎖国が実施されていなければ、わが国は他のアジア諸国同様西欧諸国の植民地になっていたかもしれないと論ずる人もいるが、外来文明に呑み込まれるよりも吸収消化して、新しい姿に生まれ変わることの出来る伝統的特技を備えていたので、開国の継続は必ずや海外から一層の滋養摂取に役立ったものと愚考している。

 海は時には津波となって人命家財を損なう猛威を揮るうこともあるが、反面、降雨・降雪をもたらし、また、海空の汚染物質を浄化してくれるほか、勿論豊富な海産資源を提供してくれるなど、その恩恵を更めてここに挙げるまでもない。最後に私の最も好きな頼山陽の作詩『天草の洋に泊す』を記してこの稿を終わる。

雲か山か呉か越か
水天髣髴、青一髪
万里舟を泊す天草の洋
煙は篷窗(ほうそう)に横たはつて日漸く没す
瞥見す大魚の波間に跳るを
太白船に当たつて、明、月に似たり