2組  鵜澤 昌和

 

 われわれが在学した時代に、わが東京商大にカメラアートクラブという名の写真部があり、当時としては極めて積極的に活動して専門家の間でも高く評価されていたことについては、意外と知られていないと思われるので、この機会に記憶を辿って同クラブのことを記すこととする。とくに、われわれの年度での部員三名の中、光永君、林(英雄)君が物故された現在、一人生き残った小生が思い出を書くことは、両君の追悼の意味もあると思うからである。

 去る昭和六十三年四月に一橋大学写真部OB会によって「一橋大学写真部五〇年史」が刊行されたが、それによってもカメラアートクラブ創立の正確な時期は不明であり、大体昭和七、八年頃であろうとされている。はっきりしているのは、東京商大の発案で神戸商大写真芸術研究会、大阪商大カメラクラブと合同の第一回三商大写真展が昭和十年十月に開催されたということである。小生自身のことになるが、予科の時には硬式庭球部に入部して、国立専門部裏のコートで専らボードに向って球を打ってばかり居たが一向に上達もせず、自分に愛想がつきるといったことで庭球部もやめてしまい、その後でカメラア ートに入部したので、光永君か林君かどちらかの勧誘によるものであったと思う。入部当時の部には写真が大好きでしかも腕前も優れた先輩方が活躍しておられ、部としても活気が溢れていた。主な先輩は、小牧、木下、吉岡、市田、煙谷、原などの各氏であり、具体的な活動としては、毎月の如水会館での例会を中心とする制作(撮影、現像、引伸)が中心で、皆極めて熱心であった。例会では各自が作品とそのネガを持参し、当時コダック・ジャパン社の技術者であった田中良雄先生(後に浅沼商会)のきびしい批評と技術指導を受けるのだが、例えば当時アメリカで発表されて間もないような微粒子現像液の処方を田中先生から教えられて、自分で調合し試用するというように、かなり専門的で高度なことに挑戦したものである。

 なお、部長は化学の木村恵吉郎先生(後に吹田順助先生)であった。この当時の田中先生及び先輩方の技術指導によって、実に多くの知識と技術を得ることができたことを、今でも感謝している。田中良雄先生は、当時日本の写真界では著名であった福森白羊氏の紹介で依頼した方とのことであるが、福森氏の令息は一橋の後輩である。

 ところで、例会の外にわれわれの重要な活動として、毎年秋に催される前記の三商大展のための作品制作と、三商大展開催のための諸業務があった。東京商大の作品はすべて全紙大に引伸すことになっており、処理は業者を一切利用せず、すべて自力で行うのであるが、ブロー二ーフィルム(つまり六×六センチ、六×四・五センチ等の大版)はよいとして、三五ミリフィルム(当時はライカ版といわれていた)から全紙に引伸すとなると、現像は微粒子でなければならず、極めて高度のテクニックが要求された。引伸機その他の機械や暗室も、当時は学校には何ひとつ無いし、全員が所有しているわけでもないので、互いに融通し合い、また先輩後輩へだてなく家に押し掛けて徹夜で作業をしたのは、懐しい思い出となっている。

 とくに、戦死された原鉄三郎先輩のお宅にはしばしばお世話になり、母堂のおもてなしも受けた。光永君、林君のお宅も同様であり、後輩の大野滋雄君宅にも頻繁に伺ったし小生宅にも皆が集まった。この当時の苦労がどれ程皆の技術を高め友情を深めたかはかり知れぬものがあり、当時の何もかも無い時代に何とか工夫してよい作品を作り上げるという努力は、今日のような時代では得られぬ貴重な経験であったし、また楽しみでもあったと思う。それだけに、互いの交友も緊密であり、前記の原先輩とは、指導の田中先生もお誘いして、志賀高原に冬も夏も撮影合宿に出掛け、林君とは三商大展出品作が出来ず、二人で直前に神津牧場に泊り込むといったように、カメラアート部中心の生活にひたり切っていた感がある。

 三商大展は、東京では当時日本橋室町にあった小西六写真工業の本社二階の展示場を借りて開催したが、大阪、神戸でもそれぞれ中心地の会場を借りることが出来、この年一回の展覧会は日本の写真界でも高い評価を得るに至った。展示作品の中、毎年数点がアサヒカメラをはじめ数誌の口絵にとりあげられ、また、各誌の展覧会批評欄でも殆ど例外なく好評であった。ある時には、歴史のある早慶写真展よりもはるかに水準が高いという評価を得て、部員一同の意気大いにあがるといったこともあった。日米関係が険悪になりつつあった時にもかかわらず、部員の原、林両氏が太平洋クラブの夏期旅行に参加して渡米し、アメリカでは滞米中のOB小牧氏のお世話になりながら撮影したカラースライドが三商大展に出品されたが、これなどは当時としては極めて珍しい作品であり、注目を集めたものである。

 このようなわけで、当時の東京商大カメラアートクラブは日本の写真界に認められていたので、昭和十五年には毎日新聞社から、満州北支学生撮影行への参加を求められた。これは、満鉄(南満州鉄道)と毎日の共催で、著名大学写真部から選抜した十数名の学生カメラマンを一ヶ月程満州・北支の各地に派遣し、その作品を写真集として公刊すると共に日本各地で展覧会を開催し、満州北支の状況を報道しようという企てであり、団長は大宅壮一氏であった。当時としては夢の様な海外旅行であり、費用一切先方持ち、フィルム等も十分に提供されるということで、原先輩と小生が勇躍参加した。丁度三、四月の春休みであり、光永君は全く別に個人で同方面を旅行していたので、奉天(瀋陽)でわれわれの宿舎に訪ねてくれたことも忘れ得ぬ思い出である。日本では戦時色が濃くなり、フィルムも不足がちで写真など賛沢という風潮になりつつあった時なので、この旅行では皆魚が水を得た様に実に積極的に撮りまくり、結果的にも会心の作品が多数生れた。毎日新聞社によって発行された大冊の写真集は今でも大切に保存しており、原先輩の作品数点(遺作)など、何度見ても素晴らしい出来ばえである。恐らくこの写真集は歴史的にも意味のあるものであろう。小生の作品の中には、当時の名女優李香蘭(現在の山口淑子、大鷹淑子議員)を満州映画公司の新京スタジオで撮影したものがあり、後年大鷹議員にお会いした際、後日お目にかけると約束しながら未だ果していない。筆がそれたが、団長の大宅先生とは、車中や宿舎で親しくそのお人柄にふれ、多くの含蓄あるお話を承ったが、団員に甚だ好評であったのはその独特の猥談であった。

 この旅行の思い出は限りなくあるが割愛するとして、この時の団員の一人、早稲田の松田二三男氏はその後プロの写真家となり、今も元気であることをつけ加えるにとどめたい。この旅行の作品集や全国での展示会などが注目を集めた結果、写真雑誌などから作品提供の依頼がしばしば来るようになり、その後は結構各誌で作品を掲載してくれて、若干の小遣かせぎが出来、フィルムや印画紙の代に充当できた。今でいうアルバイトの走りでもあろうか。その後戦時色いっそう濃厚となるに及んで、前記三商大展は昭和十六年十月の第七回展を以って中止となり、われわれも同年十二月には繰り上げ卒業となって学窓を去ったのであるが、カメラアートクラブの例会は少くとも昭和十七年一杯、あるいは昭和十八年前半位迄は続けられた筈である。クラブ活動終焉の正確な時期は記憶にないが、今手許にある写真の中に、防空の遮光暗幕を引いた如水会館の一室で行われた例会の記念写真があり、小生は軍装姿でOBとして出席しているから、十七、八年頃迄細々と、しかもしぶとく活動していたことは確実であり、小人数とはいえ、わが東京商大カメラアートクラブの団結は立派であったと思う。この終末期に活躍した後輩の有力メンバーであった余語敏夫君、伊藤寛君などのことが今も思い出される。

 時移り人変って、戦后には一橋大学写真部が組織され、昭和二十七年七月に戦后第一回三商大展が復活した。しかし、戦后に出来たこの一橋大学写真部は全く新らしい組織であって、戦前戦中のカメラアートクラブの復活ではないが、その後同部からの呼び掛けによって、カメラアートのメンバーは一橋大学写真部OBということになり、同部が催す三商大展、学内展(小平祭、一橋祭)などにはOBの作品として出展するようになっている。そして、前述のように、同部によって「一橋大学写真部五〇年史」が刊行されるに至り、カメラアートクラブと一橋大学写真部の連続性がいっそう強く意識されるようになってきた。カメラアートクラブ時代のOBの生存者が十名弱と少くなってしまったのはまことに残念であるが、この少いOBは物心両面で現在の写真部を精一杯支えている。ただ、われわれの目から見ると、現在の恵まれた環境下にある一橋の写真部が、往時のカメラアートのような悪条件下でのめざましい活動に比して若干低調であるように思われるので、今後大いに頑張って往時をしのぐ活躍をしてもらいたく思っている。

 多分、大部分のクラスメートに知られていなかったと思うので、この機会を借りて、われわれの時代にカメラアートクラブが存在し、そして社会的にも高い評価を博する活躍をしたことを報告させて貰うこととした。
 この小文を亡き光永八太郎、林英雄両君の霊に捧げる。