6組  内山 正雄

 

 (一)

 中学五年の晩秋か初冬の頃であったと思う。私は平河町の坂上で電車を降りて永田町にある中学の北口の校門に通ずる道を五、六分歩いて通学していたが、この校門の手前左側に新築の木造西洋館があって、その家の前に時々車が停まって主人を待っているのを登校の折見かけることがあった。ある朝停まっている車の後ろの席に立派な紳士が一人端然と坐しているのが見えた。さして広くもない道巾なので車の横を通りながら中の人物をかなり近くから見るともなしに見ることができた。常人にはない気品と風格、それにどこか見覚えのある顔立ちから直ぐ近衛さんだと気がついた。当時は貴族院議長であったと思うが、その時の印象は何時迄も記憶に残って、その後近衛さんというと何か親しみを感じたのであった。お隣りは来栖大使のお宅で向い側には広い敷地の外国公館があり、静かな道筋であった。

 年が替わって受験も間近に迫った二月二十六日の朝には停留所に近い道端に制服の巡査が寝かされているのに出合った。血の気が無く、じっと動かず死体のようであった。登校途中青山通りに電車は走らず、止むをえず行合った者同志で乗ったタクシーも赤坂見付で兵隊に取り囲まれて銃剣を突き付けられ通行を阻まれたところで、ただならぬ気配を感じたのであった。

 教室では授業はなく教壇の先生は椅子にかけたままただ「軍部に暴動が起った」と咳くように言った。その時私は知らなかったが、教室東側の窓から見える議事堂も西側の廊下の窓から見下ろせる崖下の料亭も蹶起部隊によって占領されていたのであった。やがて教練の教官から「今日見たことは一切口外しないように」との注意を受け引率されて南口の表門から溜池の方に向い解散した。この後雪が降りはじめた。翌日から学校は休みとなり戒厳令の布告、「兵に告ぐ」の放送があって事件は数日で収拾に向った。

 北口の校門を通る道は放課後授業から解放されて級友と時には冗談を言い合いながら一緒に帰った楽しい道でもあった。来栖大使の令嬢や金ボタンの学生服を着た令息が帰宅されるところをお見かけしたこともたまにあった。

 卒業後私は予科に入学し寮生活を始めたが、この級友は浪人となり二、三カ月後手紙を呉れたが終りの方にこう書いてあった。

「君も折角一橋にはいったのだから何時かは来栖さんに会って、後輩である私にどうぞお嬢さんを、と言い給え」

 翌年の六月近衛さんは首相として国民の前に英姿を現された。そして七月には盧溝橋事件が勃発した。その近衛さんも敗戦の年の暮に自決された。来栖大使の令息は太平洋戦争の末期に九十九里浜上空で米機と交戦して散華された。アメリカは母君の母国であった。令嬢については知る由もない。

 今は高校となった昔の中学に隣接する場所で例年行われる同窓会に最近久し振りで出席した折、昔話をしたり附近を歩いてみたりしたことから、すっかり忘れていたあの頃のことを思い出したのである。手紙を呉れた友人とは何十年も会っていない。

 (二)

 予科三年の夏のある夕べ、日比谷公会堂で大陸に出発する従軍作家の一団の壮行会が催された。団長菊池寛をはじめ同行の久米正雄外有名文士達がずらりと舞台に勢揃いして一人ずつ挨拶をし、最後に佐藤惣之助が自作の詩を朗読して会場は熱気に包まれた。日華事変が拡大の一途を辿り、やがて武漢攻略の作戦が展開されようという頃であった。

 それから間もなく私は義兄に誘われて式根島に行ったところ、島の宿で佐藤惣之助夫妻と一緒になった。ずんぐりした御主人にすらっとした夫人が連れ添い帳場や海岸で顔を合せた。大陸に行った筈の人と出合ったことを意外に思いながらも、この詩人には特別の関心もなく、私は寧ろ夫人の方に興味を引かれた。お顔はよく覚えていないが御主人の活発なのに較べて物静かな優しい言葉遣いの方で竹久夢二の絵にでも出てくるようなタイプの女性だったという印象が残っている。

 若い日は何時しか過ぎて私も引退の身となり勤めを辞めた当座よく近くの図書館から本を借り出しては読んだ。その中に萩原朔太郎関係のものもあって読むうちに佐藤惣之助夫人は萩原朔太郎の妹さんだと知って成程そうだったのかと遠い昔を思い出した。更に別の本から御主人は私がその姿を見た二、三年後に急逝し、その後夫人は望まれて三好達治と再婚されたが、この結婚も幸せなものではなく戦時下、北陸での厳しい生活の中で破局を迎えたことも知った。私は何故かこの夫人に同情を覚え、どこか淋し気に見えたその姿を式根島の海原とともに思い浮べたのであった。

 最近、佐藤惣之助生誕百年記念展というのが彼の生地川崎の市民ミュージアムであると知って出かけてみた。展示されていた写真から夫妻の当時の面影を偲ぶことができた。会場の一隅には「赤城の子守唄」から「湖畔の宿」迄彼の作った数多くの庶民向き流行歌のメロディーが静かに流れていた。私はこの詩人が小学校を卒業しただけの人であったことを知った。又釣りが何より好きで伊豆七島へもよく出かけていたと知って、従軍の直前に式根島に居たのもうなずけた。強い夏の日の下、あんなに元気で幸せそうに見えた彼も二、三年の後には亡くなり、一方、夫人も高名な詩人と再婚しながら不幸な運命を辿ることになったのであった。

 ミュージアムを出ると、私は五十何年も昔に旅先で一寸出合っただけの縁もゆかりもない人達を古い知り合いのようにも感じながら、目の前を流れる多摩川の広い河原を見晴らせる堤の上に登って暫くは独り仔んだ。やがて日も西に傾いた川沿いの道を帰る私の心には戦前の昭和の名残りの時期であり私にとっての青春時代でもあった昭和十二、三年頃のことが色々懐かしく浮んでくるのであった。

 (三)

 終戦後の東京の巷は到る処焼跡と進駐軍の兵隊ばかりが目についた。宮城は焼失し、代ってお濠端にGHQが出現してマッカーサー元帥が君臨した。占領時代の到来であった。

 それでもお濠の石垣や松の緑は昔と変らず桜田門内の桜は一際美しく咲いた。有楽町に勤めていた私はたまには桜田門に近い土手の上に登って腰を下ろし眼下のお濠の向う側、参謀本部の消えた三宅坂の高台に沈む夕日を眺めた。「国破山河在城春草木深……」の情景であった。二、三年で勤め先も変り、その後この辺りに行くことはなかった。

 それから四十年も後のこと、私は義父のお供で初めて新年の一般参賀の人波に加わった。伏見櫓の白壁を左に見て二重橋を渡る辺りは東京随一の景観である。天皇と参賀の人々が互いに手を振り合う姿には家族的な気持の交流が感ぜられ日本は甦った思いがした。天皇崩御の後は一般参賀に加わることもなかったが最近、近く迄行った折、昔眺めた景色をもう一度見たいと思い桜田門迄行ってみたが、人民広場と呼ばれていた頃とは様変り、芝生の中にも土手の上にも行かれないことが分った。当然のこととはいえ何となく満たされぬ思いで門外に出ると濠端の道を半蔵門に向って歩き出した。歩いているうちに終戦後この辺りで最初はGHQ上級将校姿、二度目は背広姿のスピンクスさんに出合ったことを思い出した。予科の英語の先生だった彼は上機嫌で私達は立話をして別れた。予科時代はその頃から見ても十年の昔であった。私の大学生活は病気や軍隊などで三つの時期に分断され、先生も学友も世相も入れ替わり丁度千切れたフィルムを繋ぎ合せたようで纏まった印象は薄く、それだけに予科の頃が強く記憶に残っているのである。私は寮や教室や運動部で共に過ごした友達のことを思い浮べながら歩いた。そして何人もが既に世を去っていることを思った。私は自分のことばかり考えて友達のことを余り考えない人間であった。今は亡きあの友にも、この友にも詫びねばならぬことが沢出あるような気がした。しかし今となっては後の祭りである。空に向って許してくれと心で叫ぶ私の目の前に、それでも皆の笑顔が現れるのであった。それぞれが立派な価値ある人生を生きて今は浄土や天国で新しい命を得ておられるのであろう。私も負けずに行くのだと元気を出して歩き続ける右手には深い谷間のお濠を挾んで築かれた皇居の土手の緑がいつ迄も続いていた。