5組  和田  篤

 

 平成二年十月初め光文社文庫より阿川弘之氏が「海軍こぼれ話」と言う本を出した。海軍部内で使われた隠語の説明や軍艦生活の色々な裏話が興味深く書かれている。約五年間海軍主計科士官として海軍生活を送った私はなつかしく思い早速読んで見た。

 十二月クラブの文集、「波濤」で前回海軍のことを書いた私は、その続きとしてこの阿川氏の本にない私の体験の海軍こぼれ話を書くことにした。私が家内や娘達に戦争の話をすると、戦争は楽しかった様に聞えるとよく笑われる。

 つらかったり、悲惨だったりしたことは話さないからだろう。しかし私は駆逐艦で「ガダルカナル」や「キスカ」その他危い所に随分行ったが、一度も敵弾にあたらなかったので、余り悲惨な光景に出会わなかったのも事実で、こうして今日まで生き延び得たことに感謝している次第である。それでも一歩間違えれば、生命はなかったようなことも度々だったので、好運だったのだろう。これから思いつくまま、私の海軍こぼれ話を書くこととしよう。

 一、底質カレイ(鰈)

 北方領土、四島返還問題が騒がれているが、私は駆逐艦「朝雲」に乗って昭和十八年五月より七月まで、千島列島の北端占守島の幌莚港に淀泊していた。

 軍艦は入港の際錨を入れるが、海底の情況(岩石であるか砂地であるか、又海流の強さ等)によって錨鎖の長さを加減する必要がある。入港に当っては艦首に水兵が先に鉛の分銅のついたロープを持って艦長の指示によってこの分銅(サンドレッドと云った)を海中に投げ込むが、この分銅の底がくり抜いてあって、そこにグリスがぬってあり、引き上げると海底の情況が分りこれを艦橋に報告する。これによって艦長は錨の入れ方を指示するのであるが、幌莚に入港した時の報告は「底質カレイ(鰈)」であった。即ちサンドレッドに鰈の鱗がついていて、海底は全部鰈で敷きつめられていたのである。入港後私自身もこの鰈を沢出釣り上げ士官室の食卓に供したものであった。この後我々はキスカ撤退作戦に出動、二度目に無事五、○○○人の将兵の救出に成功したのであった。

 二、広島の原爆を見た

 宇和島航空隊主計長の時、主計科幹部を引きつれて、呉軍需部に糧食の調達に行った時である。昭和二十年八月五日に用事を済ませたところ、皆が広島に泊り度いと云い出したが、私は前夜泊った吉浦にせよとこの申し出を断った。広島でゆっくり遊び度いと思っていた部下をがっかりさせた訳である。翌六日朝吉浦桟橋で広島から来る船を待っていた時、空襲警報が鳴り、ピカッと閃光が目に入りズーンと云う響きと共に広島上空にモクモクと煙が上がった。

 これが初めての原爆であった訳で、若し皆の言う通り広島に泊っていたら、全員やられていたことは間違いなく、怪我の功名とは云え私の判断で生命拾いをしたのであった。因みに吉浦は広島より二十粁の所で、今の原爆ならやはりやられていたと思う。同じ中山ゼミの西川元彦君も陸軍で長崎の原爆に会い、九死に一生を得た由で、同じゼミで二人も同じ様な経験をしたことに驚いた次第である。

 三、コロンバンガラ島での座礁

 こんな名前は初めて聞くことと思うが、ソロモン群島ガダルカナルの北方にある小さな島で、昭和十八年一月頃ここを基地としてガダルカナルを攻撃しようと、設営隊を夜陰に乗じ揚陸した時のことである。駆逐艦朝雲で無事揚陸を終り、湾内を遊文中、ズシーンと言う衝撃があり、艦橋に上がって見ると艦長がのし上げたと言って後進一杯を指令しているところであった。後進の波が進むのを見て艦が動いていると思ったが、実際は水ばかり後に下がって艦はのしあげたままであった。このまま夜が明けると敵の空襲は必至で、明朝は艦と運命を共にすることになるということであった。この時艦長の頭に本艦のスクリューは二基あるので、これを交互に後進をかければ船は左右にゆれ乍ら後進するのではないかということがひらめいた。早速やって見た所艦はスーッと後進出来、我々は胸をなでおろしたのであった。
本当に危い所であった。

 四、眼前で見た米巡洋艦の轟沈(ごうちん)

 「轟沈」こんな字は今の辞書にはないかと思ったら「艦船が砲撃(雷撃、爆撃)を受けて、一分間以内に沈むこと」とあった。私は敵巡洋艦が轟沈したのを目のあたりにすることが出来た。昭和十七年十一月の第三次ソロモン海戦での夜戦で、敵味方の入り乱れて衝突しそうになったが、前方から向って来る艦が敵か味方か区別がつかなかった。艦というものは横から見れば、艦橋、砲塔、煙突の格好等で区別がつくが、真正面からでは仲々区別がつきにくいものである。(先日NHKの「百点満点」で魚を真正面から見て当てる問題があったが、船の場合と同じである)。大きな望遠鏡で見ている見張兵は「敵に間違いなし」と云っているが、艦長としては、砲撃の命令を下せないでいる中、お互いにぶつかりそうな至近距離となったので、右に舵を取った。横になったところを見ると大きな敵巡洋艦であることが明らかになったが、転舵中は攻撃が出来ない。ところが後続艦が放った魚雷数本が美事に命中、目の前数百米の所に大水柱が上がり、この水柱がおさまった時はあの大きな巡洋艦は影も形もなく水中に没しており正に「轟沈」であった。

 五、艦隊出港

 海軍の艦内は文字通り「男ばかり」の世界で、特に士官室は兵員とは隔離された別世界であったが、ここにも「従兵」という兵員が居た。士官同志の会話で、この従兵に聞かれてはまづい話は、隠語を使ったのであるが、例えば料亭は「レス」、芸者は「エス」、猥談は「ヘル談」、淋病は「アール」、梅毒は「プラム」等々と言った。中には仲々気のきいた隠語で「艦隊出港」と云うのがあった。これは、艦隊が出港すれば、妻は用事がなくなることからもじって、「爪楊枝がない」と云う意味に使われた。食事時に「艦隊出港」と云うと、従兵がすぐ爪楊枝を持って来たものであった。

 この外にも、戦艦霧島の最後や、ラエサラモア作戦等色々と経験したが、紙数も尽きたので、筆を擱くこととする。我が五組で海軍に入ったのは、天谷幸和君と井上一造君と私の三名であったが、天谷君は飛行機で戦死し、井上君は戦後死亡したので、残ったのは私一人となり、淋しく思っている。二人の分まで長生きしつつ、御冥福を祈っている。