6組故渡邊健妻  渡邊 寿子

 

 はじめに、亡夫が天下の名門東京商大の出身である事、そして御立派な御友人方の輪の中に入れていただいておりました事、心より厚く感謝申し上げます。想い出を語るに当って、或部分仏を冒漬するかも分りませんが、ドン底より立上るさまを具(つぶ)さに記してみたいと存じます。

 私は最愛の主人と訣れて早や一年半!月日は容赦なく流れ去り、国の内外の事情は目まぐるしく移り変り、漸く湾岸の戦いも落ち着いた様であります。

 何の幸いか私は、人々の限りない愛に支えられて、あの日から一人で暮しておりますが、お蔭様で健康に恵まれ、趣味の同好の方々と睦み、数年前の修羅場がまるでうそのように、静かでささやかな日々を送っております。

 それは余りにも悲惨であった。一つの事態から端を発して連鎖的に起った事は幾重にも波のように重なり合い、私は四面楚歌!すっかり生きる自信を失ってしまった。頭の中の細胞が一時空白になった時、いつの間にか大きいタンクローリーの中へ片足をすべりこませていた。それは夫がこの事態の対策の為に弁護士・金融機関へと走った直後であった。ふと、家に残した九十才の舅の夕餉の事が頭をよぎった時、我に返って、ふらふらと明日失うかも知れぬ我が家へと帰って行った。それまでの幾十年にも切羽詰った事態に見舞われた事が幾度もあり、その都度死線を越えて来たように思います。世間には往々にしてあり勝ちな事でしょうが、私共にとりまして、経済的なピンチは救いようもございませんでした。やはり私共夫婦の内面の問題として、どこか落し穴がございましたのでしょうか。

 大切な一人息子のアルコール漬け故に親達の悲しみ憎しみを我が一身に受けていた時、酒乱の夫へ向ける愛情が貧しくて、差しのべる手に愛がうすく、益々エスカレートして行く彼へ、呆然自失、冷えて行く自分をどうすることも出来ませんでした。

 人生の不思議、妙味をたっぷりと味わう事が出来ましたのは、その頃からでしょうか。
 生来亡夫は無類の好人物でありましたから温床に置かれていたならば、社会の荒波にもまれる事なく瓢々と生きつないでいたならば、今頃は生仏か、菩薩の境地でありましたでしょう。肉体的な老いは如何ともし難くはございましたが、万年青年の意気は盛んで、私が上手な聞き役に廻れば、夜通しでも大演説をしてくれました。しかし彼を受け容れる社会も職場も、家庭も決して温床ではなくて、はげしい競争社会はドンドン彼を置いてきぼりにして行きました。お酒だけが無二の友となった彼は、思いのたけを酒の上でぶちまけ、暴れまくって家族を困らせました。そのような幾十年かが過ぎて、ふと、自分の人生の空しさを感じたのでしょうか、プッツリと好きなお酒を止め、一人残されたその父に孝養の限りを尽し、子供達には温顔の優しい父、又物知り博士の称号を貰った程の博学者!

 それより残された全愛情を妻の私に向けてくれました事は、神のみぞ知るというところでございましょうか。片時も離れ難く、寝物語りは尽きるところなく、朝は必ず夫の方から照れる事なく「今日も一日よろしく頼みます」との挨拶に思わず笑って受けている私。現職時代、社会的に名を残す何物もなく、私共母子は随分と肩身の狭い思いをいたしましたが、後年地域社会では、誠実に、謙虚に黙々と蔭になり日なたになりして町民に尽しておりました。いくつかの神戸市からの褒状も無用のものとしてすぐに破り棄て、あのくずれるような和顔は、酒乱で吠えた過去を溶かしてしまったようでした。

 疎遠であった長男夫婦から海外旅行の誘いがありましたのが一昨年夏!一切の旅費はこちらで持つから、という嫁の申出でにまるで私共夫婦は夢か幻かと喜び合いました。海外はおろか国内もあまり旅行はしておりませんでしたから!夫はよろこんで健康診断を受けてくれました。

 健康で優しく、夫は永い老後を之からたのしんで行こう。長い間、苦労の連続であったから之からウンとたのしもうな!と言っていた矢先。

 医師からの宣告は、青天の霹靂、何と残酷だった事でしょう。すでに末期の肝臓癌左葉は腫瘍で機能不可、大体三ヶ月が目処!との事、私は我が耳を疑い、地ひびきがして何かが音立ててくずれて行った。伜は目に涙を浮べ乍らも比較的淡々としていましたが…。

 海外旅行が病院へと替わり、検査のあけくれの日が続きました。暑い暑い真夏日が稍々衰える頃、ホスピスは家庭が一番という事で、又以前のように二人だけの暮しがはじまりました。私がショックで体調をくずし寝込んでしまいましたら、癌とは知らぬ夫は、すっかり看護人に早替り、掃除、洗濯、買物と頑張ってくれました。この時、私は本当に癌の末期なのかと疑いました。

 医師の許可を得て、二人で最後の一泊の旅を、墓参をかねて但馬の湯村温泉へと向かいました。健康な夫婦の旧婚旅行のように。亡くなります三週間前の事でございました。御先祖の墓参をすませ一路家路へと走る車中から道の辺の真紅の彼岸花が目に焼きついて、まるで野辺の送りかと思われました。

 日常と大して変りなく暮し、十月十四日出身校神戸一中の総会の幹事としてのお役も、前後の段取りだけは、何とか果たし終えて、十八日最後の入院を待たずに、我が家で午前八時、静かに永久の眠りにつきました。本人はさぞかし苦しかっただろうし、又迫り来る死を予期していたかも知れませんが、一度も苦痛を訴える事なく、平常心を失う事なく、知らぬ顔で、後々の事まで要領よく言い残してくれましたので、私はお蔭様で、一人居の淋しさの中にも、何とか恙無く暮しております。

 亡夫の想い出にひたって、涙を流すより、之からの老後を何とか明るく楽しいものにして行き、皆様から可愛がっていただけるよう、年を重ねて行き度いと切願いたしております。

 駄作乍ら亡夫の俳句をお笑い草までに。

鳥渡る六甲の嶺薄明り
冬至には忙中閑のひびきあり
梅林の人気の疎ら陽の疎ら
移り来しテラスに立てば山長閑
転宅に四月馬鹿かと電話あり
この年で寄生虫のごと居を移す
かき氷フラッペ等と酒落にけり
鈴虫の声のみ定か虫時雨
日溜りの菊に和みて人を待つ
寒灯の下繙(ひもと)くは古典なり
春嵐うつつの中を吹き荒れる
仙人の如くにも立ち松の花
秋晴れに腕の初孫欠伸せり
枯木立朝日を浴びて蘇る
流燈の最後の一つ沖に消ゆ
都会には都会の風情月の照る
冬ざれや動物園の鶏の声
何気なき一輪挿しや寒椿
老夫婦つましき卓に麦御飯
マンションに意外に似合う葭簀かな
父の日のハイビスカスが今日も咲く
病床に大暑の街の妻想う
退院に差しかけられし秋日傘    健