7組  渡辺 公徳

 

 「ヒンズー教では人の一生を四つに分けています。学生期(ガクショウキ)、家長期(カチョウキ)、林住期(リンジュウキ)、巡遊期(ジュンユウキ)の四つです。第一は修行時代。第二は一家を構えて子供を育て世の為人の為働く時代。第三は仕事を終え家を出て林に入り静かに己に帰る時期。第四は色々のしがらみから自由になって四方を歩き己をきたえつづける時期。第三と第四は順序が逆になってもよろしい」。

 平成三年正月、初膳を家内と祝い年賀状を区分けして落着いた気分でテレビをつけたら、京都大学教授河合隼雄さんとの新春対談で中村元さんが恰度こんなことを言っておられた。中村元先生の説かれた人生の四期は印度四姓の最上位婆羅門についての事と思われる。我が十二月クラブの面々は現時点では大部分家長期を終えて林住期・巡遊期に入っている。この表現は現役を退いて年金生活に入った者への心構えをも示している様で、数千年前の印度上級社会の人々についていわれたことが今日の日本の社会全般の人にあてはまるのが面白い。

 私はアメリカ銀行を三十一年一ヶ月勤続の後、昭和五十四年二月満六〇才で退職した。敗戦で壊滅した設備を再建し新しく産業を興し経済を復旧した上アメリカをしのぐ生産力を作り上げた日本。アメリカ銀行は他の外国銀行と共に戦後の日本にノーハウと資金を供給しその努力を助けた。私はアメリカ銀行という有利な視点から日本経済の復興成長発展を観察することが出来た。「外銀から見た邦銀」という題で日本工業新聞にこの三十余年の経験を回顧する報告を書いた。昭和四十五年一月から四月まで毎水曜日十七回に及んだ。次の週から同じ欄に長谷井輝夫氏が「私の金融・証券史」を連載したのも濃い縁を感ずる。

 アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス市はアメリカの人口分布の重心点、交通運輸の要、地域経済の中心をなす。セントルイス圏通商産業推進協会(セントルイス・リージョナルコマースアンドグロース・アソシエーション、RCGAと略す)日本駐在代表に委嘱された。アメリカ銀行を退職して家内と共に、セントルイス、ワシントンDC、ニューヨーク、ロンドンの旧友を訪ね、パリにいる息子の案内でロワール河の城を見て歩き一ヶ月余りの旅行から帰ったのは、昭和五十四年十月のことであった。アメリカ銀行のシニアバイスプレジデントであったチャド・マキルベイン氏がピーボデイ・コール・コーポレーションの財務担当副社長としてセントルイスにおり、商工会議所の役員でもあり彼を通じての依頼であった。日本の企業をこの地域に誘致する為、数年努力しているがその活動を助けるのが任務である。セントルイスはミシシッピ川にミズーリ川の合流する地点にあり中西部経済の中心で、水路・空路・自動車道・鉄道の集まる交通運輸の要衝でアメリカが本部から西部へ拡大しつつある頃、幌馬車に物を積んでここから希望のカリフォルニアヘ向けて出発したものだ。一九六五年に建てたゲートウエイ・アーチ(小型飛行機でこれをくぐった者がいる)はセントルイスのスカイラインを劃するがセントルイス圏経済が東部を越えて発展する意気込みを示す。セントルイスにはマクダネルダグラス、ラルストンピュリナ、アンホイザブッシュ、モンサントなどフォーチュン五百社に入る会社の外に、シュヌークマーケットなど地域で有力な企業が盛業しており、商工会議所会頭のシュヌーク社長などに会い、日本の企業の立地を歓迎する熱意を感じた。又チームスターユニオンの地区委員長ドーシイ氏に会って組合指導者の経営に対する考え方を聞いた。既に現地に進出しているタカラスタンダードの評判がよいのは心強い。又丸紅、三菱商事など商社の人々が仕事をしているのを見て頼もしく感じた。アメリカの経済は単一なものでなく違った背景をもつ互いに競争する多数の市場から出来ていることを実感した。この仕事は一応目的を達して昭和五十六年十二月に終了した。

 一方、昭和五十四年十二月からフィリピンの新鋭銀行アライド・バンキング・コーポレーション(ABC)の駐日代表を勤めた。アメリカ銀行のエグゼキュティブバイスプレジデント・アジア本部長であったルイス・マルカーン氏の依頼であった。この仕事は私をいわば古巣のバンキングコミュニティに引戻してくれたので、日銀、大蔵省、在日外銀、日本の銀行などとの接触は楽しかった。会長のタンさんは中国系の実業家で役員会議で明治維新の時の日本の指導者の意気込みを例に引き、積極的な事業方針を説いていたのが印象に残った。昭和五十六年三月、マニラで第三回日比経済会議が行われた。頭取コウさんの指示で私も銀行の席に列なり日本側代表五島昇氏の司会振りを比側から見た。日本が貿易、投資などいかに頼られているかを実感した。その中、フィリピンの外資収支が悪化し自行発行の信用状の支払の資金も中央銀行から弗割当が出なくなった。昭和五十九年末、駐日代表事務所を閉じた。これは残念であったがABCをやめて後も比経済の動向について身近な関心をもち続けることになった。

 昭和五十五年五月のある日、日貿商事株式会社(社長大蔵修氏、一橋大28商)の野口副社長から電話でスイスの実業家マックス・ロイガー氏に会ってくれという。日貿商事は占領時代シュリロ・トレーディングの下で修行した気鋭の若い貿易マン五人で独立した輸出入会社である。パテック・フィリップの高級時計の輸入やティファニーの代理店をやって手堅い実績を上げている。そのまじめで熱意ある経営態度に感じてアメリカ銀行時代取引を始めた。その野口さんの紹介なのでロイガー氏に会った。ロイガー氏はチューリッヒに本社があり世界十五都市に事業網をもつ国際的スカウト会社TASAの社長である。シニア・レベル・エグゼキュティブ・サーチという事業内容である。重要なマーケットになる日本にも拠点を作り度いからパートナーになって呉れという申し入れである。私のことはよく調べてある。私は既に二つの仕事をしているが、これからの日本の進むべき道に助けになると考え承諾した。RCGA日本代表、ABC駐日代表の仕事は人を知ることによりTASAの仕事にプラスになると考えた。このことは「波濤」に書いた。 (マネー・フローからマン・フローへ)

 九月末家内と共にチューリッヒの本社を訪問しオリエンテーションを受けた。引続きパートナーズ年次総会に参加した。チューリッヒから総会開催地ベニスまでロイガー夫妻の運転するBMWで走った。朝、宿舎のホテル・エデン・オ・ラックを発ち、しばらく走って湖畔沿いの山道に出ると鮮やかな色彩の着物を来た老幼男女が三々五々教会に行くのに行き違い、平和な村の生活を見る思いがした。スイスからイタリーへ降りる道にかかってふりかえると青い空の下視野一杯の緑の大斜面に二枚屋根のシャレーが大きな間隔で建っている。あの屋根はこのアルプスの山にぴったりだ。イタリーに入って、オートルート際の食堂でひるめし。肉の種類の多さと器の鷹楊として大きいのが印象的。ベニスについたのは四時頃。車を駐車するとモーターボート(タキシー)で宿舎・会場のホテル・ダニエリに着く。世界各地から集った二十七人のパートナーは各国の違った業界で夫々に高い経歴をもつ人物である。各自に誇り高き侍共を一つの目的に向って仕事をまとめるのは大変だと思ったと同時にロイガー氏の会議の統裁ぶりは立派であった。よいグループに入ったと実感した。家内はレディス・プログラムによって船でムラノのガラスエ場、ブラノのレースエ場を見学。ディナーパーティでも夫人方と交流で主人達についての一寸した情報を聞いて男だけの会議では得られない親しさを感ずる様になる。三日目の打上げディナーパーティはホテル・チプリアニにゴンドラで渡って行う。この年のはじめサミット会議の会場になった町でTASAの正式名発表のよい舞台であった。翌朝食後、散会した。私共夫婦は引続き、ミラノ、ロンドン、ニューヨーク、マイアミ、メキシコシティ、ロスアンゼルスと各地のオフィスを訪問し、人を知り新規ビジネス開拓の打合せをした。

 この仕事は幸先よい発足で上級職人材の発見・斡旋を行った。顧客は商業銀行、投資銀行、証券会社、コンピューターメーカー、化学会社、製薬会社、繊維メーカー等多岐に渉り、知的刺戟を受け勉強になり多くの人を識った。

 ロイガー氏を本社に訪ねてよかったのは、エングストローム女史という有能で行届いた知的魅力ある秘書に会ったことであった。私もアメリカ銀行時代よい秘書に恵まれた。石田洋子さんといって東京支店長のとき発掘し、アジア本部副頭取になっても離さなかった。石田さんは後にアジア本部長の秘書になり私が退いた後、パーソネル・オフィサーとして新しい経歴を開いて行った。TASAの仕事をするについて秘書を使うことになり、よい人に恵まれた。タイム・ライフ日本支社長の城戸英彦氏(一橋大昭30商)の前秘書で育児のため家に籠っていたが働ける様になった人、野間口貴子さんである。秘書の基本が出来ている上にバイリンガルで英語のステノをとれる人である。RCGA・ABC・TASAと三つの帽子を冠り分けるボスのために、アポイントをとりまとめ、スケジュールを作り、英文の手紙の口述をとり、報告書を作るということをこの有能で頭の回転の早い秘書は見事にさばいた。

 スタンフォード大学はカリフォルニア・シリコンバレエの北端パロアルトにある。綜合研究機関のスタンフォード・リサーチ・インスティテュート(SRI)はパロアルトにあってTASAの顧客である。SRIの子会社コミュニケーション・インテリジェンス・コーポレーション(CIC)がコンピューターの手書き入力装置を開発し、漢字を使う日本市場に売込むために日本支社を作る。そのCIC・JAPAN(CIC・J)の社長になる人を探して欲しいと言って来た。CIC社長ジム・ダオ(漢字名・陶錦磊)氏は電気技師で半導体シリコンチップを作るステッパーを製造して日本の電気メーカーにも売込んだ実績をもつ成功した実業家である。帝国ホテルの一室でダオさんの経営哲学、CICの事業計画、SRI研究者達の開発した漢字手書き入力装置の現況を聞いた。私はスカウトの方針、手法、段取など説明した。ダオ氏はその晩、私と家内を帝国ホテルの北京飯店に招んだ。翌日ダオさんは私にCIC・Jの社長をやってくれという。TASAの顧客を投げ出すことは出来ないと断ったが、創業三年間で、はじめ私の時間の30%だけかけてくれればよいということで引受けさせられた。かくて麹町、秀和紀尾井町TBRビルに事務所を開き、セイコーと業務提携をして技師以下十名の出向を受けCIC・Jは発足した。私は約束通り三年で退いたが世界の尖端産業、半導体、コンピューターメーカーの現状、動向、人脈を知ることが出来たことは有難かった。秘書の野間口さんはCIC・J創業時から社長秘書兼総務担当で本社にも出張しキーパーソンとして残った。(私はここで貴重な秘書を失ったが本人の為には私と一緒にCIC・Jに来たのはよかったと思う)。私の下に副社長だった技術担当のアール・ジョーンズ氏はSRIに戻り今はSRIソウル支店長で時々人を紹介してくる。ダオさんは今でも三ヶ月毎に事業状況を報告してくれる。しかし、その後CIC・Jの理解者であったセイコー・エプソンの社長服部一郎氏が若くして急遜したことはCIC・Jにも私にも痛手であった。

 かくて昭和六十一年半ばにCIC・Jから解放されるとすぐTASAから復帰する様要請があった。私が留守をしている間にTASAの組織は大きくなり南北アメリカ・アジア太平洋地域の業務を統括する本部がニューヨークに出来、こちらの社長はクラウス・ジェイコブズといい、ニューヨークのユーロピアン・アメリカン・バンキング・コーポレーションの頭取をしていた人だが、その前にドイチェ・バンクの総裁アプス氏の秘書役をしていた。その頃からの知人が日本にも多い(日本興業銀行頭取黒沢洋氏、元財務官松川道哉氏、前開発銀行副総裁緒方四十郎氏等)。公認会計士事務所アーサー・ヤング東京支店長エド・ホークスハースト氏がA・Yを退職するので二人でコンビを組みTASAの業務を再開することになった。ホークスハースト氏は十年以上日本及び極東に勤務して、日本の上場会社の重役にも知人が多い。私は野間口さんという有能な秘書を失ったが、事務は彼がA・Yの秘書を使ったりして処理する。日本人のキャンディデイトは私が面接して経歴・能力を評価し、ホークスハーストが語学力.人物も評定する。クライエントの要望事項は共同して協議する。二人で仕事は楽しく順調に捗りアサインメントも多くこなし成績も上がった。

 昭和六十三年十月にTASAの年次パートナーズ・ミーティングがトルコのイスタンブールで行われた。モスコー回りのエアロフロートを使ったので家内はこの度は敬遠した。TASAに加ったIBIの吉崎公雄さんと二人で参加した。マックス・ロイガーを長とするヨーロッパ・中近東・アフリカ部の人々も参加しロイガーの外私を知る古い人は私の復帰を喜び楽しかった。ドクター・ゲルハルト・シモンズといってTASA創生の一九六九からのパートナーでOECDの部長をしたことがあり、ドイツ大会社に知人多く業務成績も常によい。やせぎすの学者タイプの人で、はじめてチューリッヒで会ったときから感じのよい人と思っていたが、イスタンブールの会期中移動のバスで隣り合いお互い戦中の話をしていたら、彼はドイツ軍の機械化砲兵隊長でレニングラードの近くまで迫ったが、冬将軍にあい行動がとれなくなり多くの部下を失った。パートナーズ・バイオグラフィカル・サマリにも書いてない。そういえば私の頁にも業歴としてアメリカ銀行以降しかのせていない。人間理解を深めるにはこういう会合が大事なことがよく分る。

 トプカプ宮殿やスイレマンモスク、バザーを見て回り、打上げのディナーはヨーロッパ側にある宿舎ヒルトン・インタナショナルからバスでアジア側へ橋を渡り、ポスフォラス海峡を見下す森の中にあるアツバ・ヒルミ・パシャの夏の宮殿で行われた。ドレス・フォーマル。帰ってすぐに現地の地図を見ながら塩野七生の「コンスタンティノープルの陥落」を読んだ。旅行の思い出がハッキリと再確認され、十五世紀半ば東ローマ帝国がトルコ帝国に滅ぼされた時の様子が再現される思いがした。(足利義教の頃であった)。

 所でそのオークスハースト氏は昭和六十四年末に東京を引払ってシアトルに家を作り隠退した。TASAの後事はIBIとクラウス・ジェイコブズが契約を結びこれに託したが、私もホークスハーストと同時にTASAの仕事を引くことに決めた。クラウス・ジェイコブズからの特命の案件も平成二年二月一杯で片づき全く自由になった。

 中村元先生の言及した人生の四期は、今から三千年前のインドで力ースト制の最上級階層婆羅門の人々についてのことと思われる。この区分に従えば、私は昭和十六年十二月大学を卒えすぐ兵役に服し、昭和十八年一月陸軍経理学校を出て見習士官になった時に第一学生期を終えた。主計少尉に任官し結婚して第二家長期に入った。敗戦復員後、勉強し直してアメリカ銀行に勤めて世の為働き、二人の男児を得て育て世に出した。銀行退職後スカウト業等に携り、平成二年乃ち一九九〇年始めに現役を退いた。つまり第二家長期を終えて林住期に入った。社会的責任から解放されて家内と共に余生を人に厄介をかけずに生き度いと思う。

 生産活動をする家長期から林住期、巡遊期に入ると純粋に消費活動になる。死ぬまでボケずに健康で子供達の生活を見守り、孫達の成長を見届け、日本の発展を願い世界の平和を祈らねばならない。

 そこでアメリカ銀行退職以来始めた次のことをこれからも続け度いと思う。

  1  千代田フォーラム 木内信胤氏を囲んで時事、経済、政治、宗教を論ずる。会員四〇名、毎月第二火曜日夜
2 ニューオータニサロン 三月に一度。講師は今まで、加藤寛、渡部昇一、長谷川慶太郎、堺屋太一、飯塚昭男、小川和久等。
3 定期購読している雑誌・新聞
 金融財政事情(週刊)、世相、選択(月刊)、日本経済新聞、産経新聞、ジャパンタイムズ
4 外国人との交友
  (1) ジャン・ジャンセンアメリカ銀行時代の同僚
 毎月一回外人記者クラブで昼食を共にする。話題はアメリカ銀行時代の仲間の消息、日本の政治情勢、アメリカ経済の動向、ヨーロッパの動き等。ジャンセンは貸付審査担当バイスプレジデントで退職後も東京白金のマンションに住み、油壼にヨットを持ち時々、伊豆大島、長崎の方にも帆走する。年に一度は奥さんとオランダに旅行する。お互いに月例昼食会が待たれる。
(2) チャド・マキルベイン、前アメリカ銀行シニアバイスプレジデント
 アメリカ、メイン州に住み、山中湖畔にも家を持ち半年宛奥さんと大きな犬をつれて移動する。日本にいる間はジャンセンと共に会談する。
(3) エド・ホークスハースト
 三月に一度位シアトルから東京にくる。必ず会う。ふだんはFAXでやりとり。
5  アテネ・フランセCICをやめてからアテネ・フランセで週二回位コースをとる。仏検二級並の実力をつけることが当面の目標である。
6  ゴルフ
 好天を選んで週一度は鷹之台ゴルフクラブに行く。退職時28のハンデ今は22、目標は19ハンデ、10台になったら月一回にへらしてもよい。
7  読書
 仕事を離れて最も嬉しいことは読み度い本を好きなだけ読めることである。濫読、雑読だが大体次のクセジュ叢書を読む。
  (1) 日本人はどこから来たか。古代日本はどう成立したか。戦後、日本古代史の研究が自由に出来る様になって支那の史書から三世紀の日本列島の状況を組立てられて実に面白い。岡田英弘の「倭国」。李進煕の「好太王碑の謎」。上田正昭の「大和朝廷」など。「騎馬民族国家」江上波夫の説く如く、百済・高麗・新羅の建国者達ばかりでなく降っては清王朝を生み出した、満州或は東アジアという風土と人間はどういうものであったろうと思う。渡部昇一の「日本史から見た日本人、古代編・鎌倉編・昭和編」はイデオロ偏向のない日本歴史書である。日本の将来についても自信を与える様な歴史書である。

(2) 日本は世界の中でどう動いて行くか。世界のコミュニティの中で疎外されず尊敬される一員として栄えて行くであろうか。この問題に答える本として次々に出される、長谷川慶太郎、石井威望、牧野昇、堺屋太一、天谷直弘、飯田経夫のものは皆読む事にしている。日本を大きく間違った方向に行かせない指導的意見を示していると思う。

(3) 日本の研究開発は更に進展するか
 立花隆の「サイエンス・ナウ」、石井威望の「日本から新世紀が始まる」、牧野昇の「製造業は永遠だ」を読んで日本の技術進展について期待をもてる。

(4) アメリカはどう運営して行くのか、頼り甲斐のある国としてやって行けるか
 Michael Lewis "Liar's Poker"、 Bryan Burrough and John Helyan "Barbarians at the Gate"を読むとアメリカの銀行家、事業会社社長の経営目的が低くてアメリカ資本主義経済の運営は駄目になって行くのではないかと思われる。ジャンセンとの月例会はその様な書評と社会批判が話題である。
 Clyde V. Pretointz, Jr. "Trading Places"、Karel van Wolferen "The Enigma of Japanese Power"、James Hallows "More like us"なども何回か話題にし著者の講演も聞いた。ジャンセンはアメリカの将来については悲観的である。

(5) 敗戦で狭い四島に一億人を越える人口をおしこめられ武装解除させられたのに、五十年足らずの中に戦前を越える経済力を作り生活水準を上げて来た。どうしてだ。これからもこれで行けるか。これがいつも氏の問題意識で、読む本もこれに何かの答を与えるだろうと思われるものを片端から読む。
 林房雄「緑の日本列島」、武藤富男「私と満州国」、清瀬一郎「秘録東京裁判」、勝田龍夫「重臣たちの昭和史上下」、ハンス・W・ヴァーレフェルト・出水宏一訳「一億人のアウトサイダー」、吉田茂首相の要請でアメリカ銀行がシティバンクチェイスバンクと共に移民公社にドルローンを出し、主としてブラジル移民の移住資金として使われたが、今ブラジル移民の二世三世が日本語が出来なくても日本の自動車工場などに沢山働きに来ているという。私としては日本経済の発展を印象づけることと感ずる。

(6) クセジュ叢書の中にモリス・モロー教授の「日本の経済」一九六六版がある。ア・ムシュー・ワタナベアベック・メ・サンセール・レスペ一九六六年七月二九日東京にてグエン・フンと署名がある。アメリカ銀行サイゴン支店の顧客の息子が東京に来て一夕家におよびして晩飯を共にした。教養のある好青年である。そのグエン・フン君がくれた本である。東京からパリの大学に戻る所であった。その後ベトナム戦争があり、彼の家はどうなったか分らない。この本は一八六八年明治開国から戦中大日本帝国が最大にのびた時、敗戦で海外権益を失い、大人口を四島に局限してどう復興したか、一九六四年までをよく書いてある。北方四島も日本の固有領土だと書いてある。これは是非読まねばならぬと思ったのがフランス語学習の動機である。字引と首っ引きで一九八八年九月に二ヶ月かかって読み終えた。フランスの学者が日本の経済発展をしっかりと観察しているのに感服した。

 新宿紀国屋書店でクセジュの書棚でこの三月、同じ著者で同名の本があった。一九九〇年一月版で、一九四五年敗戦後最近まで日本の奇蹟的復興発展を後づけている。私の(5)に述べた問題意識と同じ意図で書いてある。辞書を頼りに四月末に読み終ったが、も一度熟読通読し度いと思っている。

 

8 旅行

 この五月家内と小旅行をした。家内が小学校まで住んでいた舞鶴を訪ね度いというので、京都から山陰線で綾部回り東舞鶴に行き小浜に泊った。
 小浜では昭和天皇がお泊りになったという青浜館に一泊した。部屋から庭の松を越えて海が見える。塀の下を海に沿う自動車道が走るが邪魔にならない。門を入ると玄関前に車廻しのある格式ある構えであった。
 二晩目は湖西線に出て雄琴温泉に泊ったが東本願寺宗徒集会があって思う宿は一杯で港の近く街道沿いの小宿に決めた。値段は小浜の半分であった。結果は部屋数の少い家人数でサービスする小宿の方が料理も冷めず掃除も行届いてよかった。
 料理の内容は、今はどこも同じである。人手不足が大きい問題だということを実感した旅であった。

 今年は十二月クラブ海外旅行クラブでドイツ、オーストリア、ハンガリに八月末に十一日の予定で行く。目下家内と行先の地理・歴史を勉強中である。
 今まで家内と世界一周旅行を五回しているが、これからも健康で毎年国内旅行を一つ、海外旅行を一つやり度いものと思う。それが巡遊期にふさわしい生き方だと思う。