6組 山本 孝次 |
(十年前の続編として)、昭和六〇年六月、取締役の任期を一年残して、監査役を二年間経験する事とした、これで通算二十六年に亘る人事担当を終了。この間ヒラ部長当時辞表を懐に社長に対し従業員の労働条件改善を強硬に主張した事も、一つの思い出である。 拝啓陽春の候益々御清祥のこととお慶び申し上げますさて。 江戸前の魚と地元特産の小松菜(吉宗の命名という)等で大いに食生活を改善(外食削減、孫向きの献立から離れ)することが出来た。 同年七月、戸辺君の訃には言葉も無い。当時の社長に口説かれてなった後発の為苦難の道を歩いていた子会社の責任者としての苦労が、彼の命を縮めたものとしか云えない。(小生も同社の取締役・監査役として少々手助けをしたつもりであるが)。 船堀で始めた生活で、五十年以上住んでいる東京(二十三区に限定しても)なるものを余りにも知らない事を思い知らされ、江戸・東京探険を始めようと決め、先ず隅田川左岸から千葉県境の江戸川迄(山の手、下町に対して「川の手」と称するようだ)を最初の目標と定めた。 六二年六月、監査役の任期満了、顧問となる。その挨拶に「昨年からの同居人と二人合わせて、七十九年余会社にいたので、若い人が見落すような点も気付く事もあろうかと思うので、気軽に相談されたい」と述べる。 娘の結婚に際して相手方に対し「姓はそちらの分を名乗る事は承知であるが、小生が病気になった時には、息子の嫁さんよりも先に実の娘に看病して貰いますよ」と注文をつけた。(名簿の家族欄の書き方でお分りと思うが、これが小生の現行民法親族編に関する考え方である)。「その逆も真なり」孫の面倒は結婚後十九年で初めて同居を開始した許りのお姑さんにお願いし、小生は婿及び本人と共に手術の断行を決め、術後の看病(というより生きる為の激励か)に当った。 |