6組  山本 孝次

 

 (十年前の続編として)、昭和六〇年六月、取締役の任期を一年残して、監査役を二年間経験する事とした、これで通算二十六年に亘る人事担当を終了。この間ヒラ部長当時辞表を懐に社長に対し従業員の労働条件改善を強硬に主張した事も、一つの思い出である。
 六一年四月、二年前から同じ敷地内に家を建て、住んでいた息子に対し「隠居」を宣言して仏壇を預け、左の挨拶状を出して船堀(新宿から東へ十五・八キロ)でコ・アビタシオン(家もお互いの退職金を持ち寄って共有)を開始した。

 拝啓陽春の候益々御清祥のこととお慶び申し上げますさて。
 この度左記へ転居致しましたのでお知らせ致します。都営地下鉄新宿線で荒川を渡った所です。
  昭和六十一年四月江戸川区船堀二の四の六の三〇五   角田唯子

 たまには庭の無い家に住んでみたいと「すみたきょうこ」さんに無理を言って、割り勘で共同生活を始める事にしました。
 五十年間住みなれた荻窪とはしばしのお別れです       山本孝次

 江戸前の魚と地元特産の小松菜(吉宗の命名という)等で大いに食生活を改善(外食削減、孫向きの献立から離れ)することが出来た。
 上記二項目が巧まずして小生の延命策につながったのかも知れない。

 同年七月、戸辺君の訃には言葉も無い。当時の社長に口説かれてなった後発の為苦難の道を歩いていた子会社の責任者としての苦労が、彼の命を縮めたものとしか云えない。(小生も同社の取締役・監査役として少々手助けをしたつもりであるが)。

 船堀で始めた生活で、五十年以上住んでいる東京(二十三区に限定しても)なるものを余りにも知らない事を思い知らされ、江戸・東京探険を始めようと決め、先ず隅田川左岸から千葉県境の江戸川迄(山の手、下町に対して「川の手」と称するようだ)を最初の目標と定めた。

 六二年六月、監査役の任期満了、顧問となる。その挨拶に「昨年からの同居人と二人合わせて、七十九年余会社にいたので、若い人が見落すような点も気付く事もあろうかと思うので、気軽に相談されたい」と述べる。
 一九八九年一一月、十五年間片手間にやって来た健康保険組合理事長の職(お蔭で耳学問乍ら「医療」について少々知識がふえた)を次の世代に引継いだ。これで責任ある仕事から全く離れ、週休四日として前記探険に身を入れる事になる。
 九〇年七月、初めて息子と一緒にゴルフをやり、そのテイアップの姿を見て、フトこちらの方が後に残るかも知れないなとの予感が頭をかすめた。(予々息子の嫁さんには、彼の仕事柄五十才迄もつかどうか分らないよと云ってある)その予感がもう一方の方に現実となった。
 同年八月、母親の血を余計に承けたか、医者から娘の重病(良性でない腫瘍)を知らされた。健康と運動神経には自信があったであろう彼女(小柄乍ら大学時代バレーボールで、リーグ新加入の五部から二部迄引上げ、子育てもそこそこにママさんバレーに打込んでいた)にも「急所」があったのはショックである。

 娘の結婚に際して相手方に対し「姓はそちらの分を名乗る事は承知であるが、小生が病気になった時には、息子の嫁さんよりも先に実の娘に看病して貰いますよ」と注文をつけた。(名簿の家族欄の書き方でお分りと思うが、これが小生の現行民法親族編に関する考え方である)。「その逆も真なり」孫の面倒は結婚後十九年で初めて同居を開始した許りのお姑さんにお願いし、小生は婿及び本人と共に手術の断行を決め、術後の看病(というより生きる為の激励か)に当った。
 本人も十数時間に亘る大手術に耐えて、九一年二月初め退院リハビリ中であったが、四月半ば再手術準備の為入院した。
 小生は実父を予科二年の春に失っている。下の孫がその年齢に達する迄(高校卒業)あと五年、その間娘が何とか頑張って呉れる事を願っている。