6組  矢守 勝一

 

 ーー私の終戦秘話ーー

 余り自慢して人に話すべきことでもなかったから今迄身内にも知人にも一度も話したことはありません。何故か急に書いてみたくなった。

 昭和二十年の八月二十日過ぎマッカーサーの厚木到着の日と覚えてます。勤務先の南方開発金庫は戦時機関のため解散必至となり、なすことなく会社の阿佐ヶ谷の寮でゴロゴロしていました。しかし此れからの日本はどうなるのか、又吾が身の振り方はどうしたものかとラジオに齧りついてニュースを聞いていると、外務省が米軍の進駐に伴い緊急に英語の通訳を募集すると繰返し放送していました。

 良く言えばボランティア精神というより野次馬精神で又反面私達学校英語で育った者には苦手の発音も違いスラングだらけのアメリカ英語を体当りで習熟するのにチャンスで此れから役に立つだろうとの功利心で翌日指定された時刻に外務省の会議室に行きました。その日は志願者が四十名位集っていた様ですが臨時終戦事務局係官と自称する役人が一人入って来て履歴書を受取るでなく面接やテストをする訳でなくいきなり目分量で線を引き右半分の人は米軍が上陸を開始したから下にバスが一台待たしてあるから館山に直に出発して呉れ、左半分は厚木飛行場へ行って貰う。くわしいことは私も同行するからバスの中でというあわただしいというより当局も周章狼狽の出発であった。私は厚木組で数日前迄降伏を肯んじない海軍々人が立て籠っていたという兵舎に連れて行かれて今夜からの宿所としてあてがわれた。

 翌朝滑走路の横にある指揮塔の下で待機していると次から次へと大型のC五一輸送機が着陸してポパイみたいなのがチューイング・ガムを噛みながら手旗で指図して所定位置に停止さすと後方の扉が開いて兵隊や車輌が自走して下りて来るのが見られその能率の良いのには驚きでした。その間に私達の待機所に任務をあたえられたらしい兵隊が順々にジープに乗ってやって来て通訳を連れて出発して行く。二世とか自称米国大学卒業生とか米語に自信のあるのから売れて行く。その内に四人程兵隊の乗ったジープがやって来て一人乗れと合図しますがそれは良いのですが全員背嚢の左右の前ベルトの尾錠穴にフックで三発ずつ計六発の手榴弾を吊り下げて居り若い指揮官以外はカルビン銃を握りしめ正に此れから戦闘に向うといった物々しいいでたちです。此の姿を見て皆尻込みをしていると私を指して直ぐに乗れと催促します。観念して乗込みました。後に知ったことですが此の兵隊は第十一空挺師団の砲兵隊でパラシュート降下が本業だと言っていました。指揮官は少尉で大学生のまま召集されたらしく元気が良かったが単純であった。

 少尉は航空写真で作成した関東地方南西部の地図を見せて三浦半島と覚しきところとその先端の小さい島を示して今から此の島へ行くが案内出来るかと質問しましたがルートは大体見当つくがその島は多分要塞であるから行ったことはないと返事するとそれでOKと出発しました。片言でも言葉が通ずると分った為空気が隠やかになりました。
 此の島が北原白秋の詩で有名な「城ヶ島」であることに気付いたのは後年のことでした。

 さて初秋には珍しく上天気の三浦半島を鎌倉、逗子、葉山と南下して来る間に兵隊達は手榴弾もカルビン銃もジープの床に転がして御機嫌になって来ました。安全栓がしてあることは分っているが足に触れたりするので物騒でかないません。彼等が警戒心を解き出した理由は鎌倉から先は人っこ一人出会わないからです。私は住民はかなりいる筈だのに不思議だと気が付き道筋の家屋をよく観察すると晴れた日の午前九時頃というのにどの家も閉めきって住民が隠れている気配があり中には二階の雨戸を僅かに明けてジープの通り過ぎるのを恐る恐る覗いている様子である。どうやら空襲に備えての隣組組織の通報システムがよく働いて、私達の乗っているジープより早いスピードで先へ先へと警報が伝達されていた様である。

 無人の路を行くのですから意外に早く半島先端の漁師町三崎町へ着きました。現在も地図で見ると三浦市三崎町といっている様である。狭い水道を隔てて向うに見えるのが目的地の「城ヶ島」である。現在は観光地になって島へ渡るには立派な鉄橋が出来ているそうですが当時の要塞島には渡る橋なんかありません。岸壁には十隻位の小型漁船がつないでありましたが漁師は一人も見つかりません。兵隊は向うの島に渡るため早く船頭を捜して来いと言っていますが海岸通りにも人影はありません。さてどうしたものかと思っていると向うから体格の良い漁師のおかみさんらしい中年女性がのしのしとやって来ました。早速彼女にこんな訳で困っているのだが何とか骨を折って貰えないかと頼むと一寸待って呉れと引返して二、三人の男を連れて戻って来ました。そして彼等に対し『私は若い頃横浜で働いていたから良く知っているがアチラの人でも良い人の方が多い。今迄は戦争だから仕方がなかったが此れからは考えを変えねばいけない。船の一杯位さっさと出してやりなさい』と説得を始めました。結局彼女の一声で亭主か兄弟か知れませんが一隻仕立てて呉れることになりましたが燃料油の配給がないとかブツブツ言っていました。

 米兵を乗せて船が水道の半ば辺迄来ると島の桟橋に力ーキ色の日本の軍人が一人立っているのが見えました。途端に米兵は小さな船の中に伏せの姿勢をとりガチャガチャいわせて弾丸を込め出しました。船が着いても中々上陸しません。止むを得ず私一人で上り古ぼけた軍服に指揮刀を吊った中年の日本の少尉に声をかけました。彼の言うには自分は町の在郷軍人会の分会長であるが要塞兵も町に駐屯していた暁部隊(戦争中に急編された陸軍船舶兵)も私を呼び出して後はよろしく頼むと一事言ってまるで夜逃げ同然に解散復員してしまった。米軍に引渡す迄と毎日一人で島へ渡り見廻りをしているがやっと来て呉れて助かった。砲台へは自分が道案内するからと伝えて呉れとの話です。私は米兵に心配するな、此の男はリタイアした士官だが町の住民に過ぎない。島にはも早日本兵は残っていないと言っている。彼が案内すると言っているから信用しなさいと伝えるとやっと銃にロックして上陸して来ました。

 在郷軍人殿は船着場近くの小高い丘の上に立ってる旗竿に白旗が掲げてあるのを示した上銹だらけのサーベルを腰から外して米軍少尉に差出しました。若い少尉は刀身を抜いて二、三回フェンシングの型をやった上刃のついてない飾りものであることを確認記念に貰って帰り度いがスーブニア・ハンティングは厳禁になっているからと返却しました。分会長氏はそれを草むらの中に放り投げて此れで儀式は終わりだとニヤッと笑ってスタコラと先頭に立って案内を始めました。島の先端部に近い砲台に行き主砲と思われる口径二十センチ位の加農砲がありましたから米少尉は閉塞器を外して兵隊に海へ投棄しろと命じました。兵隊が重い鉄の塊を転がし出しましたら分会長氏はそれなら近くに丁度適当なところがあると下には波浪が岩を噛んでいる絶壁迄案内して真下の海を目がけて投げ棄てました。

 敗れたとは言え東京湾口を掘する半島先端の要塞に僅か大砲一門だけと云う筈はないが後何門あってどう処置されたか記憶ありません。とに角終戦時には城ヶ島の砲台には貧弱な装備しか残っていなかった様に思います。
 その他に対空対海上兼用と思われる探照灯があちこちに五、六基あったと思いますが真上を向けてありましたから順々に発火さした手榴弾を投げ込み反射鏡のガラスを破壊して廻りあっと言う間に島の武装解除は完了しました。

 桟橋迄帰る途中無人となった官舎らしい家屋の庭にトマトが熟しているのを見つけた兵隊は歓声を上げて飛び込み夢中になってカブリついていました。ニューギニァ、比島と廻って来たらしく缶詰ばかりで.ビタミンに飢えていたのでしょう。次にオニオンと言うからそんな物はないが此れならどうだと葱を引抜いてやるとグリーン・オニオンだと言って辛い白根を齧っていました。

 町側の船着場迄戻ると先程の在郷軍人氏が先廻りして待って居り今警察が来て暁部隊の遺留していった兵器類があるからついでに頼むと案内して呉れました。来る時に確かにその前を通った筈だが何も無かった警察署前の広場にあるわあるわ所狭しとばかり歩兵砲(?)、重機関銃、自動小銃が並べられて居り大小合わせれば数百挺になったかも知れません。米少尉は警官にも手伝わせて閉塞器や遊底を外さして弾薬箱と共に前の海に棄てさせてあっという間に終ってしまいました。その頃になると漸く安心したのか沢山の町民が現れて来て遠巻きに見物を始めました。

 別れ際に在郷軍人氏に「御苦労さん」というと、「もう自分の任務は終わった。今晩は良く眠れる。明日から腰抜け警察が何を言って来ても本来自分の仕事でないんだから手伝いなんかするものか」と。

 帰り道鎌倉の大仏を見物さしてやり七里ヶ浜の海岸へ行って旧式の格調あるホテルヘ行ったら蝶ネクタイの支配人が出て来てもう御見えになると御待ちしていました。貴方達は第一号です。でも残念ですが御出し出来る食物も飲物もありませんがと言ってました。米兵はザッツOK心配するな食物は持っている。お湯を呉れと言うと真白なテーブル・クロスを敷いた食堂へ案内して空の皿とカップとナイフ・フォーク・スプーンを持って来ました。Kレーション(携帯口糧のセット)を開いて皿に盛りインスタント・コーヒーをお湯に溶かして遅い昼食でしたが故郷に帰ったみたいだと喜んでいました。私にとつてインスタント・コーヒーにお目に掛り飲んだのは生まれて初めてでした。戦前の日本にはあんなものは無かったと思います。軍用の発明品かも知れません。

 東京から手頃な距離にある「城ヶ島」は風光明媚な観光地として賑わっていると思います。北原白秋の詩歌は誰でも知っています。でも城ヶ島にはこんな一時もあったことを知って置いて貰い度くて十二月クラブ文集を借りて一筆します。