明治初年母校の卜されたる所謂一つ橋の地は護持院の舊址である。
『江戸名所圖會』には次の如<書かれてゐる。
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護持院舊地
神田橋と一橋との間、御溝の外の芝生を云ふ。此の所は大塚護持院の舊址なり。元禄年間柳原の南にありし知足院を、引て護持院と號けられ殿堂御建立ありしが、享保回禄の後、大塚の地に移され、後明地となる。林泉の形残りて頗る佳景なり。
夏秋の間は是を開かせられ、都下の人こゝに遊ぷ事をゆるさる。
冬春の間は、時として大将軍家.こゝに御遊猟あり。
故に此所を薪駒が原とも唱ふるとなり。世俗は護持院の原と呼べり。