2003年6月23日
型破りの芸術家たち:藤田嗣治、小沢征爾、江文也
                                       5組 張 漢卿

  1.独創と革新

企業家精神が経済界の飛躍的発展に寄与する、と言う理論は既に定着している。
個人の才能と独創が芸術の飛躍的発展に寄与する事実も、また疑いの無い処である。
もし指導者たる人達が伝統ばかりに囚われ、自分に従わない者は尽く排斥するとあれば、飛躍的発展はおろか、過去の水準を維持するのでさえ、難しい日が来ることことであろう。

 その線に沿っていえば、洋画家藤田嗣治と指揮者小沢征爾は二人とも、それぞれ「若すぎる」という理由で、有り余る才能の発揮を国内で否定されたが、失望のあまり海外に飛び出した為に世界的な名声を博し、翻って日本の芸術界に多大の影響を与えるまでに至った。

 そう言う成功に比べれば、日本の国民として生まれた江文也は、「若すぎる」という上に、「外地人」という二重のハンディを付けられ、不遇の身を抱えて大陸に渡ったところ、そこでも猜疑の眼をもって見られ、遂に不幸な一生を終えた。同じく型破りの芸術家でも、故郷に錦を飾れる人と、終生いばらの途を歩く人とが居る。

   2.藤田嗣治

明治19年牛込生まれの藤田嗣治は、東京美術学校在学中から才能を認められ、教授の助手として帝国劇場の壁画や背景の制作に携わり、各種の民間美術展覧会にも前後10点の出品をしていた。しかし格式を重んずる政府主催の文展にはJ三年続けて落選し、当時陸軍軍医総監をしていた父の承諾を得て、フランスに旅立った。

 渡仏一年にして、彼はモジリアニ、スーチン、シャガールなど当時まだ新鋭の画家たちと交友を始め、間もなく個展を開いてピカソの絶賛を受け、六年後の大正8年(1919)には、全世界の美術家が注目するサロン=ドートンヌに6点も出品して全部入選し、直ちにその会員に推挙された。2年後同サロンの審査員となり、その余勢を借りて、38才にして日本の帝展委員に迎えられた。
僅か12年前までは、3回も落選の憂き目に遭っていた新進画家が、自らの道を切り開いた為に、ここまで成功したのである。

 その成功に甘んじなかった藤田嗣治は、戦前の船旅の苦労も厭わず、日本、フランス、アメリカ、南米、中米などの諸国にそれぞれ永く滞在し、大小多数の作品を残し、パリに戦火が迫った1940年になって帰国した。戦後ニューヨーク経由でパリに戻る際、「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」との別れの言葉も、この人に相応しい所感だと言えよう。それでいながら、彼は69才になってから、始めてフランス国籍を取得し、73才に洗礼を受けて、カトリック敦に帰依している。
永い外国生活にも拘わらず、日本に対する愛着を持ち続けていたのであろう。

 彼は39才にして、フランス政府からレジオン=ドヌール勲章を、ベルギー政府からレオボルド勲章を授けられて居り、また71才にはフランス政府から再度の叙勲を受けている。それに比較すると、生前彼が日本で貰った褒賞は、昭和17年度の朝日文化賞だけであり、昭和43年彼がスイスで他界したニュースが入った後、始めて遅まきながら、勲一等瑞宝章が追贈された。それから見ても、藤田嗣治の芸術に対する日本の態度とヨーロッパの態度には、かなり大きい開きが有ったと言はざるを得ない。

Thu, 26 Jun 2003

  3. 小沢征爾

藤田嗣治より約半世紀遅れて、満州で生まれた小沢征爾は、日本に帰って教育を 受け、桐朋学園で卓越した音楽教育家、斉藤秀雄教授について作曲と指揮を習った。
皆から恐ろしがられていた斉藤教授が、小沢征爾の天分と才能には絶大の賛辞を 惜しまず、愛弟子の彼が日比谷で交響楽団を指揮できるよう、色々と努力したとのこ とである。
ところが楽団の側から、小沢では「若すぎる」との理由で断られた。
普通の音楽家ならば、この次ぎの機会まで待とうと、涙を呑んで引き下がるかも 知れない。
だが小沢征爾は自分が普通の音楽家でないことを自負しており、年功序 列を重んずる国内に、このまま居残っていては一生を無駄にすると意識した。

そしてヨーロッパ中をオートバイで乗り廻したあげく、彼は24歳の若さで、1 959年フランスのブザンソンで行われた交響楽指揮者の国際コンクールに参加し優 勝した。
その翌年、ボストン交響楽団に招かれて、世界中の新進音楽家が競うタ ングルウッドのサマーキャンプで、有名なクーセヴィツキー賞を勝ち取った。
小沢征爾は次々と、カラヤン、ムンシュ、ベルンシュタインから、彼等を継ぐ次 代の巨匠と目され、その薫陶と支持を受けつつ、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ各地 の交響楽団を指揮して、世界一流の音楽家として公認されるようになった。
特に彼が120年の歴史を誇る名門、ボストン交響楽団の音楽総監として、最高 記録の27年も勤めたことは、日頃文化と芸術について、くち喧しいボストン人の気質と思い合わせると、感心せざるを得ない。 そう言う要職につく者は、単に楽団の指揮に優れ、団員との親和力が強いばかりでなく、楽団を支える社会との折り合いも 良く、進んで国内、国際間にも人望の高い長所を持たないと、永く勤まれない。
円満な性格をもつ小沢征爾は、外国で大成功をしながらも、嘗て自分を低く評価 した日本の楽壇に対して怨みを持たず、しばしば帰国して後進の指導に当たり、更に サイトウヒデオ.キネン.コンサートを創立して、恩師が託した要望に報いた。

また彼は中国に生まれたことにも愛着を感じたらしく、文化大革命の終結と共に、 二度も大陸に渡り、ボストン交響楽団を率いて各地で演奏したばかりでなく、当局の 懇望に応じて、衰えた中国楽壇の復興に力を貸し、良質な楽器の購入まで世話をした。
北京訪問の暇をぬすんで、彼が生まれた町、奉天をもう一度見たいと言うので、 主催者側が、昔の住処まで案内したところ、「子供の頃、家の天井に向けてピストル をぶっぱなしたんだが、まだ傷跡が残っているかな」と思出を語った。 そして、四 十年前の弾疵が見つかった時、小沢征爾は、童心に返って嬉しがり、はしゃいだとの ことである。  
彼の童心には、嘗て啄木が「その昔、小学校のまさやねに、わが投げしまり、 いかになりけん」と歌った心境に近いものが感じられる。音楽と詩の世界はかくも 深い繋がりを持っているのかと、思わざるを得ない。


Sun, 29 Jun 2003

  4. 江文也という「日本人」

四年前に白水社から

『まぼろしの五線譜ー江文也という「日本人」』(著者: 井田敏=いだびん)


という本が出版され、好評を博したようである。 
戦後の日本で滅多に聞かない名前であるから、音楽を愛好する若い人達の間で、好奇心につられて読んだ人も多かったことであろう。
著者が「序章」で述べているように、1996年のオリンピック大会開催中、ア トランタの美術展覧会場に於いて、著者と筆者とが偶然に巡り会ったのが、この本を 書くきつかけになったらしい。 
筆者は井田氏に、「60年前ベルリン=オリンピッ クの芸術競技に、江文也が日本人として管弦楽曲を提出し、佳作の銅メダルを貰ったが、惜しいことに、国内では大事にされなかった」との話しをした。

井田氏は昭和の初期に生まれていながら、江文也という音楽家の名は、それまで 聞いたことも無かったと驚き、筆者の話しに耳を傾けたあと、「日本に帰ったら是非 とも調べて見たい」といって別れた。

日本放送作家協会の理事であった井田氏は、帰国後多方面に渉って江文也の資料 を集め、当時85歳になる未亡人瀧澤のぶ女史にも会えて、世に知れない秘話を色々と聞く機会を得た。 
また文也の故郷である台湾にも往って、その生い立ちを調べ、 更に進んで、北京に飛んで、文也が大陸に残した遺族たちから、文化大革命前後に彼 が経験した数々の悲話を聞いた。

その間、筆者はロサンゼルス、北京、台北などから入手した資料を、トロントか ら次々とファックスで、福岡に住む井田氏に宛てて発送した。  かくして厖大な資料を踏まえ、広範囲に渉るインタービューを重ねた著者が、淡々たる筆調で描き出した「江文也」という人間像は、天性明朗な音楽家が、若くして国 際コンクールに入選するほどの才能を発揮しながら、日本国内で重要視されず、中国 大陸に新天地を求めて渡ったところ、そこでも政治闘争の余波を受けて、身動きも出 来ずに沈淪する姿である。 

常に独創と革新に努力した江文也が、もがけば、もがくほど自由を失っていく経過は、井田氏の詳しい著述を参考にして頂きたい。

筆者はここで、単にその幾つか のターニング=ポイントを取り上げて論じたい。   


Sun, 29 Jun 2003
  5. 運命に翻弄された江文也

江文也の型破りぶりは、彼の結婚を見ても明らかである。 
13歳の年に長野県 上田に移り、そこで知り合った、のぶ女史と音楽を通じて10年つき合い、結婚に踏 み切る。
だが当時銀行を経営し、しきたりを重んずる実家では、父親が同意しなかっ た。
もともと長女には婿養子をと考えていた滝沢氏が、「台湾人では困る」と反対 したのも無理はない。

武蔵野高等工業に籍を置きながら、音楽学校の分校で山田耕筰に師事した文也は、 結婚後の生活を維持する為に、音楽界にとび出して、三面六臂の活躍をする。
合唱団の指導者に見い出されて独唱者となり、コロンビア=レコードの歌手とな る。
JOAK放送に度々出演し、オペラ「タンホイザー」で、主役ボルフラムをう たう。
プッチーニ作「ラボエーム」で、藤原義江と新橋演舞場の舞台に立って、そ の相手役を歌う。

その傍ら作曲に勤しみ、交響曲、協奏曲、独唱曲、合唱曲などを矢継ぎ早に発表 し、コンクールに提出するが、いつも二位に終わる。

このような努力と失望を繰り 返して居た文也に、ベルリン=オリンピックで銅メダル獲得のニュースが到着した。
新聞でそれを知った一般の読者は、あるいは歓迎したかも知れないが、楽壇での 反応はかなり冷淡であったらしい。

ここで筆者は、永年考えてきた問題を、20世 紀の日本音楽史に興味をもつ方々に、敢えて提起したい。
ベルリンでオリンピック大会のあった年は、ナチス政権成立から三年目、ドイ ツの国力を世界に示すべく、大会のテーマを「民族の祭典」と決め、ゲルマン民族の 意気高揚に尽くした。 日独同盟が締結された年でもあった。

日本もドイツも同様に、民族の純潔を誇る国であることを知りつつ、何故に日本 から提出された五つの管弦楽作品の中から、ドイツ帰りでもあり、日本洋楽界の大御 所でもあった山田耕筰氏の作品を採らずに、植民地出身の駆け出し音楽家江文也に賞 を与えたか?それは審査委員会の決定であって、ドイツ一国の意志には依らないとも言えるが、 後者の意志が前者の決定に多大の影響を与えた疑いは諸処にみられる。
交響曲部門 での入選者が、一位ドイツ、二位イタリア、同二位チェコ、四位日本と、全部日独伊 同盟の傘下にあったこと、歌曲の部門に至っては、前三位すべてドイツが独占したこ と等が挙げられる。
果たして江文也の作品が、彼に作曲を教えた山田耕筰の作品より優れていたか、 それともドイツが、日本楽壇の微妙なセンスを予測できなかった為の失策であったの か、後世に残る疑問である。
いずれにせよ、銅メダルを貰ったことが、文也の生活 をより楽にした形跡はない。

窮境を打開すべく、彼は当時の国策に積極的に協力し、レコード歌手として「肉 弾三勇士」を吹き込み、いくつかの軍歌を作曲する。 国策映画「東洋平和への道」  (白光主演)や、「蘇州の夜」(李香蘭主演)の映画音楽を作曲し、「大東亜行進 曲」を作曲する。
文也が軍部の工作に協力した動機には、日本の名家の娘を貰っていながら台湾人 なるが為に、平等に扱われなかった忿懣を発散したい、という潜在意識が有ったので はあるまいか。
その努力が報われて、彼は冀察政権下の北京で大学の音楽教授を勤 め、梅原龍三郎などの名士と交遊する。
しかし東京に残した家族と、北京の仕事との間を行き来して居るうちに、戦況は 日々に悪化し、ついに彼は北京で終戦を迎えることになった。

そして台湾人なるが ゆえに日本の国籍を失い、中華民国の国民となった。
蒋介石政府の役人が北京につくと、江文也は戦前日本政府に協力したという嫌疑 で10ヶ月監禁され、その後は、米軍クラブのジャズバンドの指揮をして糊口を繋い だ。 
中共政府が成立した後、彼が台湾人であり日本に家族を持つというかどで、迫害を受け、音楽の教授を勤めながらも戦々兢々の日々を送った。

文化大革命の迫害を受けた彼は楽譜を失い、レコードとピアノを売り去り、食卓 の端を指で叩きながら作曲を続けたとのことである。 

毛沢東の死によって、大革命 が終結したあと、多少自由を取り戻したが、間もなく健康を損ねて、1983年に不 遇な生涯を終えた。

    6. 江文也と日本

日本、中国、台湾のどれからも、他所者扱いを受けた点に、江文也の悲劇的な運命が潜まれていた。 
台湾海峡を挟んで中共と台湾は、未だにすべてを政治的に解釈 し、文也を芸術家として正当に評価する余裕を殆ど持たない。
もし彼の作品を21世紀の見方で再評価し、ふたたび世界の注意を喚起する機会 があるとしたら、それは日本から来るより外はない。

13歳で海を渡って日本に着 いた文也が、上田で中学に上がったときから、33歳に東京を最後に見るまでの20年は、疑いもなく彼の最も楽しかった時期であった。
ピアノ曲「千曲川のスケッチ」を作り、「島崎藤村作.潮音」による混成合唱曲 を作ったりして、彼は若い頃に接した長野の風物に愛着を寄せた。 
東京はまた彼の 音楽教育の場であり、音楽家として活躍した舞台であった。 
日本は文也が愛する女性にめぐり会って結婚し、家庭をもち、遺族たちが今でも彼の作品を大事に保存して いるところである。 
これだけ江文也の音楽に貢献した国はない。

前述の井田敏氏の著作が、より多くの人によって読まれ、江文也再評価の気運が 一日でも早く来ることを待つ。 

そして願わくは、世界第一流の指揮者であり、中国 をよく理解する小沢征爾氏が、こころよくタクトをとり上げて、日本ばかりでなく、 中国、台湾でも、江文也の作品を再び世に出す日の遠く無いことを祈る。(完)

Tue, 1 Jul 2003   
         ****    後 記    * * * *

Dear Yamatan,
禿筆をなめつつ、幾日もかけて書いた拙文「江文也」の信憑性に関し、 アタッチメントのような変化が起りました。 
残念なことですが、江文也の「四等入選」は、”「参加賞の間違いであっ たことが判明したので、井田敏氏の著書は絶版にした」と、出版元白水社から情報が入りました。

彼が三年もかけて書いた本が、一朝にして絶版とは、気の毒なことで、 小生もこれから慰めの手紙を出そうと思っていますが、とりあえずDCHP随筆に出 た拙文に、適当なNotationをして頂ければ、幸甚に思います。
同著6頁に出た写真は、昭和11年9月13日付け東京日日新聞に五段 抜きで出た記事を毎日新聞社が提供したことになっているから、この本が出て問題に なるまで、新聞社の方でも、60年以上も誤報にきずかなかった訳になります。  不思議なのは、報道された当時山田耕筰氏を含め四人の競争者が、その 訂正を要求しなかったのか、それとも彼らは参加賞さえも貰っていなかったから、追 究を取り止めたのか、在世者のいなくなった現在、永久の謎になりました。
賞状とメダルを大事に保存して、文也の帰京を何十年も待った乃ぶ夫人 も、恐らくご在世でないとおもいますが、いたわしい限りです?
「参加賞」の何ものたるやを明らかにする必要はあるが、もし他の競争 者がそれさえも貰っていないとすれば、日本から提出された五点の交響曲の中で、江 文也の作品が傑出していた事実は否定しがたいと思います。

従って小生は、嘗てアトランタで井田敏氏に文也のメダルについて語っ たことも、このたび拙文を書いたことも、すべてそれなりの意義をもつものと信じま す。 ご高見は、如何でありましょう。                                                  ED

(白水社からのEメール)
”このたびは「まぼろしの五線譜」をお読み いただき、ありがとうございました。 井田氏の連絡先は、下記のとおりです。 なお本書では、ベルリンオリンピックで、江氏が「銅メダル」とありますが、刊行後 「参加メダル」であることが判明したため、本書を回収・絶版といたしました。
当時の新聞記事をそのまま信頼したものですが、事実誤認によるご迷惑をおかけしま したことを、深くお詫びいたします。
井田敏氏連絡先 〒811−1353 福岡市中央区柏原3−6−9 ?092−565−1048
                                    白水社編集部 和気元    ”

Tue, 1 Jul 2003
Dear ED ,
貴メール拝承。 いずれにせよ「天才作曲家」だったのですよね。 彼の作品を聞きたいですね。
貴エッセイに続けてこの貴メールをHPに入れようと思います、よろしいですか? ご苦労様でした。
貴兄のご苦労は決して無駄ではありません。オリンピック入賞如何 は関係ないと思います。                                                     YAMATAN
Tue, 1 Jul 2003
Dear Yamatan,
「まぼろしの五線譜」の著者、井田敏氏と四年ぶりに連絡がつきました。
退院したばかりにも似合わず、三枚にわたるファックスを送って来ました。 
後程貴 兄にそのコピーを電送しますが、文字不明の箇所もいくつかあるので、以下のごとく、 概略を申し上げます: * 「まぼろしの五線譜」の初版は、国会図書館、公立図書館、学校な どや研究者たちの蔵書となって、よく売れたが二つの出来事によって、再版の間際で 絶版の処置を白水社が採った。
(1) 著者が北京に住む大陸側の遺族を訪問し、彼等の存在を公にし た事を東京側の遺族が、「父の名誉毀損」として、販売中止を要求した。
(2) 表紙の外帯びに編集部が入れた宣伝が、センセーショナルなの で反感を買い、文也の得た賞に対する疑問を呼び起こした。
* 本が売れて嬉しがっていた営業部と、告訴を恐れた編集部とが対立 したが、白水社は慎重を期して絶版に踏み切った。
* 海外からも翻訳の交渉がきているが、在京遺族の反対によって、進 行出来なくなっていた。 以上の要旨です。 
しかし、戦後まもなく日本の国籍を回復した東京の遺族たちが、中国の国籍を持ったまま北京で20年前に死去した父を、名誉毀損の盾 にして訴訟を起こしたら、引用すべき法律の複雑にして怪奇なことは、想像を超える ものがあります。
ロマンスで知られた音楽家は、ヴィヴァルデイ、ヘンデル、モッツアル トの昔から、ショパン、リスト、ブラームスの近代まで、数えるに暇ありません。 もし彼等の伝記作者が、名誉毀損の訴訟を恐れて、ひたすらに事実を隠し続けたとし たら、音楽に関する文献は無味乾燥な文書だけに、終わったことでしょう。 
                           ED