小平キャンパスについて

 

                                           昭和32年 社    中路 信

                      酉松会会員(一橋大学サッカー部OB)

 如水会報3月号に石学長の「国際大学村開設−創造の杜」構想なるものが、初めてわれわれ一般会員に公表された。

 小生は、自分の学生時代には前期と呼ばれ、戦前には東京商大予科と呼ばれた学舎が閉鎖され、戦前の商大専門部が存在した国立東キャンパスに新校舎が建設されるという話が出てから、大学は小平キャンパスをどうするつもりなのか、との疑問を持ち続け、これは昭和初年にあった文部・大蔵官僚の“商大つぶし”運動の再来で、一橋から小平キャンパスを没収してしまおうとする陰謀ではあるまいかとの消し難い疑惑をもっていたので、この構想を見て吃驚仰天し、疑惑は深まるばかりで、われわれ同窓生はこの構想を支持出来るだろうかと思った次第である。以下に、自分の思いを纏めて披瀝し、会員諸兄の本問題に対する見解を問いたいと思う。

 

1)この構想は一橋の沿革に照らして同窓生の賛同が得られるか。

 一橋の同窓生の母校への思いの深さと、それを行動に表す強さは自他共に認めるところで、これが一橋大学の一大特色である。

 従って、今回の構想も、立案関係者のそれなりの苦悩と努力はあったとしても、多数の同窓生の思い出の籠もったキャンパスに関することであるから、同窓生の心からなる納得と、賛同を得ることなしには、到底実現することはできないと思う。

 特に、このキャンパスは、国立大学ではあっても国や文部省から与えられたものではなく、多くの先輩方が心血を注いで自らの努力で獲得し、維持してきたものという歴史を顧みれば、同窓生の納得と賛同は至難のことと思って頂きたいと思う。

 

 新制大学になってからの同窓生(含如水会客員)と現役学生(他の大学から進学した大学院学生を含む)諸君は、戦前の一橋学園史の知識は希薄であり、戦前の先輩方は逆に新制になってからのキャンパスのことをあまり知らないと思われるので、この中間にある新制初期の如水会員の義務として、まず、所論の基礎となる「わが大学の成立」と「母校キャンパスの成立」の概略沿革についての小生の理解を以下に記してみたい。(1980年代に母校先輩教授の先生方や如水会の先輩方が詳細かつ厖大な「一橋大学学園史」を数十冊の分冊に取り纏めておられる。それを拾い読みした上での小生の理解である)

 

 一橋大学の歴史は「大学の自由と自治」の理想を掲げ、将来有為の人材たるべき学生を育てるために、度重なる官僚の圧政に対し、それへの衝突も辞さずとの学生・教官・同窓生が一丸となって行動してきた歴史と言えると思う。

 東京高等商業学校時代、ベルリン留学中の福田徳三先生等の教官が「東京高商を商科大学に昇格することが国家の為になる」が宣言し、学生、同窓生及び実業界の絶大な支援を得て昇格運動が開始されたが、既に大学生なみの“商学士”を世に輩出していた東京高商として当然の運動だが、文部官僚の陰湿なる“一橋つぶし”策謀により昇格運動への抑圧や、換骨奪胎の計画にすり替えが行われ、この抑圧により、あわや廃校の危機に見舞われた。これが、夏目漱石は《一橋の学生騒動》と冷やかし半分に書いているが、我々如水会の発展を願う会員には忘れてはならない明治41/42年の所謂「申酉事件」である。

 武井大助さんの“校を去るの辞”の檄文にあるとおり、全学生の退学による抗議運動が起こったが、同窓生の事態収拾の活動により、福田教授が慶応へ移るなど一部教授の転出、一部学生の退学などの犠牲を払った上、将来の大学昇格の希望がつながり、廃校も免れた。

 その後、十年余の教官・学生・同窓生一丸の苦闘が実を結び、大正九年、他の高商からの進学者もあった高商専攻部を商科大学本科に昇格させ、これに従来の東京高商を専門部として商業教員養成所と共に大学に付属させ、新たに大学進学を前提とした旧制高等学校と同等の商大予科を発足させて、念願の我が国最初の商科大学が、勅令により「東京商科大学」として成立したのである。東京商大は文部省大学令にしたがう国立大学ではあるが、以上の経緯からも分かるとおり、教官・学生・同窓生が一丸となって、自らの努力により成立させた大学であり、発足時のカリキュラムはじめ運営は大学自体が決定し、商科大学の何たるか、その学問の意義に認識の薄い文部官僚に母校の自主運営を承認させていったという歴史がある。これが、他の国立大学ときわだって異なる《一橋の自由と自治》の伝統であると、小生は理解している。

 

 東京商大本科・専門部・養成所の国立移転、予科の石神井−小平移転については、関東大震災で神田一ッ橋の校舎が一橋講堂(昭和8年改築前の)以外は全焼してしまったことが契機であることは周知のことではあるが、何故、国立や石神井−小平だったのかの経緯については、年若の同窓生は案外知らないのではないだろうか。昭和32年卒の小生も、関西大震災の時までは全く知らなかった。関東大震災の時には母校の教官や学生はどう対処したのだろうかとの疑問から、当時学生だった大先輩から話を聞き、その示唆に従い、学園史や「一橋会」発行の《復興叢書》を読んで見たら、当時の一橋人(教官・学生・同窓生)は《一橋の自由と自治》の精神を発揮、一橋の学問を応用して見事にこの難局に対処したことがわかり、その結実が、我々後輩学生がその恩恵を享受した国立や小平の学舎やキャンパスなのだ、ということが理解出来たのである。

 これを、小生の大胆な推測を含めて解説すると次の通りである。

 大正12年12月20日「一橋会」発行の復興叢書第一輯には、堀 光龜教授の「帝都復興と東京築港」という論文がある。交通問題を中心に横浜港・京浜工業地帯を含む首都圏の復興政策の堂々たる提案である。大震災の僅か二・三ケ月で出来る内容ではない。長年の研究をこの機会に纏めたものと推測される。後藤新平が、震災の直前東京市長をやっていた時に首都圏改造計画を纏めるため、各大学教授等の協力を求めて「都市計画研究会」や「市政調査会」を作ったようであるが、堀教授など何人かの母校教授が後藤の計画にも参画していて実際的な都市計画、交通問題の研究をしていたと推測される。関東大震災で、震災当日の朝に成立した山本権兵衛内閣に副首相格として入閣し、内務大臣となった後藤新平が復興院総裁を兼務して、いち早く議会に提案した復興計画案の中には、各種学校の再配置計画も含まれていたから、都市計画の研究に実績のある母校教授等の提案は大いに尊重される状況にあったことは容易に想像される。

 一方、一橋大学学園史刊行会の学園史によれば、「一橋会」(教官・学生で構成、大正15年には如水会と並んで社団法人格をも持った自治組織)は福田徳三教授等を中心にして、大震災の大正12年内に既に移転先を国立に決定していたとあり、国立の土地は、東京西部地区の開発計画に執念を燃やしていた箱根土地(株)の堤康次郎(西武グループの創設者、戦後衆議院議長)が買集めていた桑畑及び荒蕪地(約73,000坪、単価13円)と、神田一ッ橋の学校敷地(約3,400坪、単価280円)とを《等価交換》したものであり、その交換契約には当時の佐野善作学長が調印したとある。おそらく年若の同窓生は、国有地である神田の大学用地を、学長が、そのような交換契約に調印出来る筈はない、何かの間違いだろうと思うかも知れないが、当時は大学教授の実力を備えた権威は、《末は博士か大臣か》の言葉が残っているように、なまじの文部官僚や大蔵官僚では相手にならぬものがあり、こと教育問題の国策に関しては、総理大臣なみの実行力を有していたのである。 商大予科の石神井、小平の土地の入手についても、同様大学が自主的に決定していたと考えてよいと思う。

 昭和4年には国立の本館、図書館、兼松講堂、専門部校舎と付帯設備が完成、昭和8年に小平の予科の校舎キャンパスが完成するというスピードを思う時に、経済政策、民法、商法の第一人者を自負していた当時の教授先生方が、土地の《等価交換》を発想し、一橋人が一丸となって理想の学園を構築するという大英断と熱意があって、はじめて実現出来た事業であったことが理解出来よう。

 

 商科大学の実現に当たって、一橋人は、文部省が機械的に考えて、初等教育−中等教育−高等教育−大学教育と単線型の層別にし、中等教育で進路を決定してしまうような教育制度では社会の指導層を担う人材は育たないとして、複線型の教育制度に固執して専門部、商業教員養成所を温存し、大学予科と並んで大学に直結する教育制度を取った。関東大震災の災害をむしろ好機として、この教育制度に見合う「理想の学園」として国立西地区に大学本科。東地区に専門部、養成所。小平(当初は石神井)に大学予科。のそれぞれに独立性を維持しながら、東京商大として一つの纏まりのある学園を構想し、実現させたのである。従って、この三地区の校舎、講堂、図書館のみならず、学生寮、グラウンド、体育館などの付帯設備などは、一橋人が自主的に構想し、実現したものであり、いささかも文部官僚の容喙を許したものではないことを断言できる。

 我々の学生時代には大部分がまだ建設時代の姿のまま残っていたから、何となく“伸び伸びとした雰囲気の学園”とは感じていたが、先人が何十年後の学生、一橋人をも念頭において作り上げた構想の賜物であることを知れば、改めて当時の教授陣の構想力の雄大さと、これを実現した当時の一橋人の気概と実行力に感嘆せざるを得ない。

 その構想力が、単にキャンパス内に止まらず大学近辺の国立、小平の町造り、交通網の整備、更には東京の都市計画に及んでいたことを知れば、東京に於ける東京商大の存在感の大きさ思い知らされる次第である。

 

 昭和の5・6年に、文部、大蔵の官僚は行財政改革を旗印に、東京商大の予科、専門部と北大予科の廃止の議案を議会に提出しようとした。官僚の無為無策を棚にあげた権威主義には構わず、どんどん上記のような理想的教育制度や学園建設を実現していく一橋人に嫉妬しての“一橋つぶし”の計画であったようである。これに対し、廃校対象の予科、専門部ばかりでなく本科の学生も一丸となって、その議案を撤回させる運動に立ち上がった。神田一ツ橋に残っていた震災後のバラック仮校舎に泊り込み集合をし、戦前では希有の行動であった「学生デモ」を敢行、議案の撤回を世論に訴えたのであった。官憲に逮捕される学生も出た重大事件であった。これが、一橋人が「申酉事件」と共に忘れてはならぬとされる昭和6年10月の「籠城事件」である。これは、東京商大の存在意義の根本に係わる問題であったから、教官・同窓生も一丸となって学生の運動を支持し、逮捕学生の救出に奔走することは勿論、議案の予科・専門部の廃止による財政改善の金額の小ささ、東京商大学生の教育問題の大きさを比較した正論をもって、関係先に折衝し、ついに文部大臣と学生代表の会見を実現させた結果、議案の撤回、予科専門部の存続を政治的に獲得したのである。これは単なる学生運動ではなく、学界、政界、実業界の実力者先輩が必死になって活動した全一橋人の運動であったのである。

 

 その後、昭和19年の大戦末期には、大学の本体である学生が根こそぎ学徒出陣、学徒動員に駆り出され、校舎グラウンドは軍の高射砲陣地用や軍需工場に接収され、伝統の自治組織「一橋会」は「産業報国会」なる意味不明なるものに改編、大学名称まで「東京産業大学」に変更を強制されるなど、母校壊滅の憂き目にあった。文部官僚が軍官僚に迎合した結果であるが、文部官僚が如何に教育の根本意義に無知であったかを如実に示した例であった。

 幸い、間もなく終戦となり、復員学生が戻り大学名称も復活、校舎の損壊も少なくて済んだので一橋人は母校を取り戻すことが出来たのである。

 

 戦後、占領下の昭和二十二年、占領軍の指令だとして初等から大学までの学制改革が行われた。米軍に日本の学制を直して、日本の将来の国力の基本となる教育を左右しようとした強い意向があったのかどうか、調べて見ねばわからぬが、あったとすれば、近来方々から声が上がっている小学校から大学までの教育の荒廃の現状からすれば、日本の教育を国力を弱める方向にもって行こうとする意志であろう。小生は、占領軍の中心となったアメリカは単純に米国人に分かりやすい制度にしたいだけで、新学制は文部官僚が占領軍の権威に便乗して、自分たちの権力発揮と管理だけを考えた全部単線型の制度を立案したのではないかと推測する。事実、独立を回復してからも、直ちに教育制度の見直しをやろうとはせず、いろいろ問題が出てからやっと、公立では工業系に高等専門学校という一部複線型を制度を設けることにしただけで、商業系、教育系、医学系などは私立にはあるのかも知れないが、全く手がついていないのではないだろうか、文部官僚には教育行政の基本は人材の育成にあることに無知のまま、戦後も教育予算を握っているという権威主義から抜け出せないでいると思われてならない。

 

 それはさておき、戦後の大学制度改革で、東京商科大学は商科だけの単科では大学とは認めないという文部官僚の教育制度の無知さから来る脅かしを受け、日本一の社会科学の総合大学を自負していた一橋人は、かんかんに怒った。同窓生や学生には上記に述べたような長い伝統を持つ、「東京商科大学」の名称は捨てるべきではないとの強硬意見も多かった。結局本学が高商時代から、学校所在地に因んで「一ッ橋」の愛称で世間から親しまれていたことから「一橋大学」の名称とし、商学部、経済学部、法学部、社会学部の四学部を持つ新制大学となった。この大学名称は「東京商科大学」「社会科学総合大学」「一橋大学」などの候補名称の中から、当時の学生が投票の多数決で選んだもので、学生が主体的に決定し、教官もOBも納得したものである。我が母校の自治の精神を踏まえた決定であった。

 当時、各県毎に旧制高等学校や商業系、工業系、医学系の専門学校と師範学校とを合体して成立した新制大学や、旧制帝国大学が旧制高等学校を吸収合体した他の大学と違い、一橋大学は、東京商科大学の教育理念や運営の伝統をそっくりそのまま受け継いだ希有の例であり、他の大学のような変革時の混乱と、大学としての一体感の喪失を経験せずに済んだのである。故中山伊知郎元学長は、その当時、大学昇格の時に主として高商時代の同窓生の強硬なる意見で、複線型教育制度をとつた《先人の明》を称えたそうである。

(旧制の高等専門学校、高等学校のOBが現在でも、この学制改革で《母校を失った悲しみと嘆き》を洩らしているのに比し、わが同窓生と、その同窓生の絶えざる母校支援の恩恵を受けている母校教官・学生は、その幸福を噛み締めると共に、改めて母校の歴史と先輩方の先見の明に敬意を表すべきではないだろうか。)

 この学制改革の時に、東京商科大学の名称に拘ったり、社会科学総合大学の候補名を上げる一橋人が多数あったのは、旧制の帝国大学が学部毎にバラバラの伝統と学風の相違を持ち、学部間の対立抗争さえある弊害を熟知していた一橋人が、その弊害を学園に持ち込みたくない、社会科学では、商業学、経済学、法学、社会学などと分類は出来ても、それらを総合的に研究もし、講義も行うのでなければ、学問の進歩もなければ、有為の人材を輩出できない、との一橋の学問、教育の理念に基づくものであったことは、現在でも銘記しておくべきことと思う。

 この学制改革により、昭和24年以降、新制大学の学生募集一本に集約され、一橋の教育理念の一つであった複線型は消滅したが、全学生は、前期教養課程として小平の旧予科のキャンパスで二年間修学することになった。

 小生は、昭和28年の入学であるから、旧制の大学生がすべて卒業された直後で、予科のことを聞くことは稀であった。しかし、学園史などを調べてみると、一橋大学の前期は、カリキュラム、教官の配置などは、予科、専門部の伝統を受け継いだもののように見受けられる。ただ、予科でも必修で予科生が苦痛であったという書道、算盤、商業作文(英文や候文?)などの科目はなく、所在地も小平であったから、どちらかと言えば予科の雰囲気を残していたのではないかと思う。

 また、小生はサッカー部員であったから国立の後期進学後も、毎日小平のグラウンドに通い、卒業後も、海外在住時期を除き毎年二・三回はOBとして小平を訪れているし、現役学生部員との接触を保って来たので、その見聞からすれば、小平の雰囲気は、二・三年前、前期(教養課程)の校舎の国立東地区への移転までは、基本的には新制大学発足時から変化はなかったように思う。カリキュラムは時代の変遷に応じた若干の変化はあったのだろうが、語学や後期(旧制では本科とか学部)への準備のための各概論の講義は変わっていない。

 施設面では、一橋寮、学生食堂の改築、有備館(柔道、剣道場)屋内体育館の焼失による移設、水泳プールの移設はあったものの、予科の校舎、講堂、図書館、階段教室は建設時のものでグラウンドを含め小平キャンパスの基本的配置は、予科キャンパス建設時と変わっていなかった。

 

 昨年、如水会の一橋大学創立百二十五年記念事業募金の大部分の事業費を投じて、この講堂、図書館、階段教室と、その裏側にあった如意団道場、予科教官官舎などをつぶし、その跡地に「如水スポーツプラザ」が建設された訳である。

 前期(旧予科)の校舎、一橋寮などその他の施設は、まだ以前まま残っている。現在、校舎の各教室は、国立の図書館書庫の大改築のため、改築完了までの蔵書の一時的書庫として利用されている。

 

 今回、大学側から提示された構想は、この校舎をつぶした後の小平キャンパスを如何にするかのものであるが、上記に縷々述べた先人の後輩学生の教育本位に考えられた偉大な構想から見て、今回構想は、その延長線上にあると言えるだろうかと疑問をもつものである。

 戦前の一橋の歴史を繰り返し聞かされて育ち、母校キャンパスと後輩学生をこよなく愛し、募金活動にも快く応じてきた先輩会員は如何思われているのだろうか。

 

2)サッカー部OBとしての思い

 そもそも、小平キャンパスは、大正9年の血気盛んな予科第一期生が入学早々に狭い神田の学校用地では求むべくもない予科の学寮やグラウンドの用地を他に求めたことに由来する。まず、学校側にグラウンド用地として郊外の石神井に約6000坪を確保してもらった。大震災で神田の校舎が全焼すると、予科発足時から本科、高商、専門部からの分立気分の強かった予科生のために、大学はこのグラウンド用地を拡大し(24,000坪)予科の仮校舎も、予科生用学寮も建設したのである。これが、今は碑しか残っていない「石神井の予科」である。

 わがサッカー部は大正10年に創立され、この予科グラウンドが、昭和8年小平の校舎とキャンパスが完成するまでホームグラウンドであった。即ち、わがサッカー部や他の運動部が予科キャンパスを作ったと言えるのである。石神井の予科が閉鎖され、小平に移っても《運動場がキャンパスの主役》であったことは、建設時の図面でおわかりの通りである。

 また、大学を国立、小平に移すために、土地交換をやってのけ神田の20倍以上の学校用地を確保した佐野学長が、この移転を、神田の地に限りない愛着をもっていた学生に納得させた説明が一橋新聞に残っているが、「狭い校舎の中だけでは将来日本の有為の人材は育たない。広々としたキャンパスで心身を鍛練することが商大学生の教育の最大の目的である」の趣旨が冒頭に述べられ、一にも二にも体育重視を強調されている。立派な校舎、講堂、図書館だけでなく、理想的な運動場を得て、理想の学園が実現したのである。各運動部員が積極的に、当時としては極めて長い通学時間となったとなった新キャンパスへ、全学生を引っ張って行ったからこそ、移転が成功したのだと思う。

 また、この国立、小平への移転に当時の運動部学生も応え、ラグビー、ホッケー、サッカー、その他運動部が、大戦勃発まで揃って《黄金時代》を築いたのである。

 

 今回公表された構想、小平のキャンパスの略図を見て、我々サッカー部OBが吃驚仰天

したのは、小平の主役たる運動場を殆どつぶし多目的グランドなる訳のわからぬものに押し込めてしまうような計画がなされていることを知ったからである。

 わが一橋のサッカー部は、上記商大予科一期生の故松本正雄さん(最高裁判事、籠城事件の時には少壮弁護士として逮捕学生の救出に活躍)や故高橋朝次郎さん(如水会理事長、キリンビール社長)等が創立に参加されたもので、これら大先輩は学生時代グラウンドの確保に努力されたこともあり、生涯をかけてサッカー部後輩の育成にご尽力なされた。

 サッカー部のグラウンドは一貫して予科、前期のキャンパスに所在し、本科、学部、後期の部員も石神井、小平に通い、OBになってもここを魂のより所として通っているのである。亡くなられた松本さんも、多忙の中、たまの休日に何度もグラウンドを訪れられ後輩の練習を見守っておられた。小平のサッカー部のグラウンドは、単に現役学生の鍛練の場であるばかりでなく、我々サッカー部OBの酉松会員にとっての聖地なのである。

 

 わが大学のグラウンドは、建物敷地用の空地ではないのである。教室、講堂、図書館などと両輪をなす重要な教育用の施設なのである。

 しかも、このグラウンドはホッケーのグラウンドとともに、国公立大学大会、大学リーグ戦をはじめ他の大学との公式試合にも使用され、共用グラウンドしか持ち得ない他の大学の学生の教育目的も果たしているのである。

 このような意味を持つグラウンドをつぶし、母校サッカー部を消滅させるような企てを我々酉松会会員は断じて許す訳には行かぬのである。

 

 この思いは、小平に根拠を持ったの運動部のOBの如水会会員にはよくおわかりいただけると思う。

 また、88歳まで酉松会会長を務められた故松本正雄さんは、母校建学の精神を最もよく体現された人の一人として、学校側に対しては母校法学部後輩への支援、如水会に対しては、既に昭和9年に理事を務められ、戦後も評議会議長、常務理事としてご貢献され、特に、同期生の高橋、茂木両理事長を支援して如水会館改築など数々の事業を成し遂げられた方で、多くの会員もご存じと思う。

 この松本さんが我々に常に説かれていた「建学の精神」が籠もる小平の運動場、グラウンドについて、全如水会会員の理解を得たいと思う。

 

 今回構想の計画者は、大学生教育の何たるかを知り、わが国立の東、西、小平のキャンパス成立の歴史を確かめた上で立案しているのであろうか。

 

3)学寮の教育的意義と小生の思い

 青少年の教育に一時的に集団生活を経験させることの効果の大なることは、古今東西の識者の説くところで、学校制度はここから生まれた。しかし、教場だけの集団生活ではこの効果は薄く、毎日の全生活を集団の中で過ごし、発育の相互作用を期待すことの重要性の認識から、日本では古くから各地に若衆宿の伝統があった。西欧の修道院生活に端を発する大学の学寮、コンドミニアムもこの重要性の認識からである。これは軍隊の秩序と規律維持だけの目的の駐屯地宿舎とは、全く異なるものである。

 教育の近代化を考えた明治政府は、このような考え方から、文部省管轄下の旧制の中学校に寄宿舎を設け、高等学校に全寮制の学生寮を設置した。概して言えば、中学校寄宿舎の成功例が少ないのに比し、旧制高校の学寮が、戦後半世紀経過する現在でも、その有意義性が語り継がれ、寮歌祭が盛況をほこっているのは、どの学寮も学生の自治寮の制度を取ったからに外ならない。多くの中学校の寄宿舎が自然消滅に至ったのは、年齢の問題や生徒の出身地域が限定されていることだけの問題ではなく、軍隊宿舎的規律維持だけの誤れる寄宿舎監督管理制度を取ったからと思われる。

 

 わが一橋には、東京高商時代は学校敷地の狭隘さから学生寮はなかったようである。大学が国立、石神井、小平の用地を確保してから、漸く本格的学生寮が完成されたようである。国立東地区の専門部に「中和寮」、小平予科に「一橋寮」、国立西地区に、大戦末期に旧学生集会所を改装した「如水寮」が、我々が入学した戦後にも存在した。石神井時代の予科には十三室と図書室の学寮があって、「籠城事件」の時の学生決起の出発点になったようである。

 「中和寮」の命名が渋沢栄一翁によるもの、「如水寮」の命名が元如水会理事長の江口定條氏によるものでも分かる通り、当時の識者も学生寮の重要性を認識していたし、教官・学生は、勿論教育上の重要性を自覚し、当時の学生はこの地区に獲得された自治寮の生活で一橋精神に触れ、切磋琢磨していたと思われる。

 故茂木啓三郎元理事長の懐旧談によれば、予科入学当初、学寮が欲しくてあちこち探し、嘉納治五郎氏所有の大きな家(柔道の道場でもあろうか)を見つけ契約寸前まで遭ぎ着けたが、嘉納家の元陸軍少将の執事の反対で破談となり、この執事を学校に呼び皆の前で平謝りさせたとのことで、そのように、当時の学生の学寮への思いは深かったようである。それら一橋人の思いが籠もって上記の三つの寮が出来上がったものと見てよい。

 

 小生は学生時代、前期は一橋寮で、後期は中和寮で4年間の寮生活を送った。当時は戦後で食料はじめあらゆる物資が乏しい時代で、空っ腹を抱えての生活ではあったが、友人たちと全生活をさらけ出して青春を謳歌した。特に小平では、「・・・橋人倦まず築き行く、自由の砦、自治の城」「・・・自由は死を以て守るべし」などの先輩寮生方の残された寮歌を高歌放吟し、ストームをやったり、武蔵野の《命の森》を逍遥しては元気をつけていた。その元気の良さで、寮生は小平の主役で大学の前期祭などの諸行事もリードしていた。その寮の仲間には、最近元気の良いことで評判の石原東京都知事や、高橋如水会副理事長などもおられたし、ここで、小生にとっては現在では何よりの財産であり、何でも腹蔵なく言い合える多くの親友を獲得した。 ただ、当時は一学年の学生数が予科時代の倍以上であり、寮の収容能力に限度があって入寮資格が地方出身者で経済的に困窮している者となっていた。希望しても、経済的に余裕があるという理由だけで入寮出来なかった地方出身の同級生や、東京近辺に自宅のあった同級生は、学寮の経験が出来なかったことを今でも残念がっている。

 

 一橋寮は、現在は我々の学生時代のものから改築されていて、個室式になっているらしい。小生は小平に行く度に、懐かしさから寮を覗いてみるのだが、ヒョロヒョロとした寮生らしき者を見かけ全く活気が感じられない。幽霊屋敷を覗いているような感じであった。 われわれの頃にはまだいくらか残っていた予科や旧制高校の学生寮の雰囲気はいつのまにかなくなっているようである。これは寮生が段々に伝統を引き継いで行くこと怠っていたことによるのかも知れないが、寮の部屋の設計からしても、大学側の学生寮に対する考え方の変化が大きいのではないかと思われてならない。寮を重要な教育の場と認識せず、単に貧乏学生のための宿舎提供ぐらいにしか考えなくなったのか、昭和40年代に東大駒場寮などが、一部極端な学生の巣窟になったことから、それ以来、学生寮を危険視したり、健全な学生を信頼しなくなったことによるのではないかと思われてならない。

 

 今回公表された構想によると、一橋寮は予科時代からの場所に存続するとはいえ、校舎をつぶした後に建設予定の構築物からすれば日陰者の扱いである。小平の一方の主役であった寮をこのような扱いをするのでは「建学の精神」を無視した構想と言わざるを得ない。

 

 かって一橋寮の全盛をほこった昭和10年代には、予科入学第一年は出身が東京であっても全員が入寮し、部屋長と呼ばれたの上級生寮生の指導を受け、一橋精神の何たるかを学んだとのことである。専門部の中和寮でもほぼ同様であったと推測される。寮生が、切磋琢磨して心身を鍛え上げ、全学のリード役を果たしてきたことが、現在の如水会の纏まりの良さにつながっている。この教育的意義の大きさは誰も否定出来ないところであろう。

 もし、大学側が一橋精神の意義を認識し、その精神からたゆまぬ支援を続行してきた先人への敬意を表すのであれば、その精神の教育の場であった一橋寮を現在の入学者数に応じた拡充をして、新入生の全寮制度の創設と寮舎の建設を、他の大学にさきかげて構想すれば、校舎は国立に移転したとしても小平には活気が戻るし、移転後急激にさびれたと言われる小平の門前町の活況もとりもどせると思う。このような構想があれば文部省の官僚が小平のキャンパスに他の機関を持ち込もうとする余地はなくなるであろう。

 

 これは、現在国立東地区にあって大学院生の宿舎として利用されている「中和寮」の建物をつぶし、ここから出る大学院生を収容する宿舎を小平に建設することや、留学生のための宿舎を建設することとは全く異なる構想である。

 我々の頃の「中和寮」は後期学生のために(当時の学生の経済的理由によって)利用された。現在国立には、後期学生のための学寮は存在しない。学生も大学もその存在意義を認めなくなったからだと思われる。そうだとすれば、既に十分に社会認識を備え、自活能力のある研究者としての道を歩んでいる大学院生に学寮を提供する意義を、大学が認めるということは理解しがたい。優秀な研究者への援助が必要というのであれば、研究実績の評価褒賞制度を作るなど、別途の方策を構想すべきであろう。

 一橋の学風を慕って海外から来る留学生については、戦前もそうであったように一般学生と全く同様の措置をとることが礼儀である。学寮入寮希望者には一橋寮を拡充して全く同一の生活をして貰えば良いし、卒業後は、戦前の留学生と同様如水会会員になってもらえば良いのであって、奨学金はそれぞれの留学生の努力によって獲得するものであるから、それ以外は、留学生だけの宿舎や寮を建設するなどの特別扱いをする必要は全くないのである。それが真の国際化なのである。

 如水会が大金を投じて建設した「如水スポーツプラザ」は、小平市民への開放もあるとは言え、第一義は後輩学生の健全な心身の発達を願ってのことと思う。上記のように新たな学寮を創成して、未成年期から成年期にかけての多数の寮生に使用されてこそ、その目的が初めて生きてくるというものである。

 もし、スポーツプラザが後輩学生には何の役にも立たず、将来如水会員にもならいような人達が住むマンションやアパートの住民の用途に供されることにでもなれば、如水会員の失望を買い、長年の大学と如水会との好関係にも亀裂が生ずることは必定で、将来大学・如水会双方とも共倒れになりかねない、と憂慮するものである。

 

 小平のキャンパスの土地が国有地であり、国家機関である一橋大学に民有地のような使用処分の絶対権限のある《所有権》なるものが適用されないのは自明の理である。同じく国家機関である大蔵省や文部省にも同様絶対権限の所有権があるわけではない。従って、

一橋大学の国立・小平キャンパス使用に関する発言権を含む権限は、大蔵省、文部省の権限と何らの優劣はない。否、教育に関する問題については、長年このキャンパスを使用してきて、その意義を最も熟知している一橋大学の権限が第一であるべきである。大学は上記1)に示した先人の理念と構想力に思いを致し、教育の荒廃、学生の元気の無さ等、現在の状況の変化に対応した構想を打ち出すべきであろう。

 

 以上、わが母校の沿革を引用し、グラウンドと学寮の教育上の重要性について小生の思いを述べてきたが、今回会報に示された構想は、《国際化》なる美しい言葉で飾られていても、図面を見た限りでは、小平キャンパスのこまぎれ利用を図る小役人の発想に過ぎないように見えてならないのである。

 小生は、一橋大学、あるいは如水会のような関係者のみがよければ良いという狭い了見でも、昔のものが全て良いという旧守の考えでは決してないが、日本の、教育の在り方、社会の在り方を考えて、一橋の先人たち示した日本のリード役を果たすという構想でなければ、同窓生一同の賛同は得られないだろうと思うものである。

                                以上。

                                               (平成12年3月23日 記述)