(昭和60年発行 随筆集「旅想」より)
十二月クラブ
7組 菅井 淑行
「十二月クラブ」と云う名前の会がある。
太平洋戦争の勃発した昭和十六年十二月に旧制東京商大(現在の一橋大学)学部を巣立った同窓生の会である。
遠い明治・大正の時代は、いざ知らず、昭和の世代においては、十二月に学校を出ると云うことはかつてなかったことである。これは、当時兵員等の充足を迫られていた東条英機内閣が行った大学・高専専門学校学生の三ケ月繰上卒業措置によるものである。 この措置が、どの程度効果があったかは分らないが兎も角、十二月卒業ほ実現し、ぼくらは国立の土地にわかれを告げることになった。
十二月の卒業が珍らしいことに加え、「クラブ」と云う名のクラス会もあまり見受けない。それでもホスト・クラブなどの疑をかけられたこともなく、また政治団体と間違えて献金をして呉れるような特志家も今までのところ現もれていない。
この会の発足経緯については、初代幹事長をつとめた日米興産且ミ長の中村達夫君あたりが一番詳しい筈であるが、従前、高等商業及び大学予科各クラス在にあった出身別クラス会を統合してつくったものである。十二月クラブの「十二月」ほ勿論卒業の月に因んだものである。
手前味噌かも知れないが、十二月クラブほ商法講習所・東京高等商業学校当時から東京商科大学の時代を経て、現在の一橋大学にいたるオール一橋の同窓生の会である「如水会」の中でも著しく目立つ存在となっている。
母枚への数々の奉仕ほ云う迄もないことであるが、会自体の活動としても、毎月十二日に開催される月例会のほか新年会、忘年会、旅行会、研究・同好会と多彩である。時には記念文集、アルパム、バッジの作製まで行う程である。
これ丈のことを継続してやって行くには、会の組織が強固でなければならない。十二月クラブでは、幹事長のほか、各組から平等に選出された十敷名の幹事が責任をもって会の運営に当っている。
この会の著しい特徴の一つに、月例会におけるゲスト・スピーカーの制度がある。制度などと云うと大げさかも知れないが、月例会の当番に当ったクラスでは、必ずゲストのスピーカーを見つけてくることにしている。これは外部の人と限らない。会員でも差支えない。今までのところでは外部の人の方が多い。 .
相撲協会の春日野理事長、ドクトル・チエコさん、政治評論家の戸川猪佐武さん、元文部大臣の永井道堆さん、経済評論家の中村孝士さん、日本興業銀行の頭取をやっておられた財界ご意見番の中山素平さんなどもゲスト・スピーカーを引き受けて下さった。大平正芳元首相もご多忙な時間を割いて釆て下きった。大平さんには先輩の誼みで十二月クラブの名誉会員にもなって頂いたが、業半ばで倒れられたのは残念でならない。
会員では当時ソ連大使をしていた魚本藤吉郎君、国連大使をしていた西堀正弘君、日本アマゾンアルミ兜寰ミ長の翠川鉄雄君等のスピーチは珍らしい内容でためになった。ぼくも東京都で予算の仕事に関係していた頃、後にアメリカ銀行の副頭取をやられた渡辺公徳君(C・1・C・ジサパン社長)だか、当時十二月クラブの幹事長だった片柳梁太郎君(ゼネラル海運社長)だかの云いつけで都財政のことをしゃベった経験がある。
スピーカーの話ほもちろん有益であるが、一度丈困ったことがある。麻雀連盟の某九段の話をきいた時である。ぽくは、昔から下手な僻に麻雀が大好きなので、一言も聞き漏らすまいと熱心に傾聴した。そして数日後、「ぱくほとてもうまくなった。何しろプロの高段者の講議を受けたのだから。」などと広音して役所の仲間達との一戦に臨んだのだが、結果は、それ迄に無いような惨敗という哀れさ.何事も人の話をきいた丈での付け刃では駄目なことがよく分った次第である。
十二月クラブのもう一つの特色は家族ぐるみの参加である。旅行会、大学の文化祭などの場合は云う迄もなく、最近でほ月例会への夫人連の出席も見られるようになった。これはお互のためにもよいことで、さらに多くの女性の方々が参加し易いように、幹事諸君が知恵を出L合って頂きたいものである.
いま、十二月クラブでは、来るペき二十一世紀に如何に対応すペきかについて検討を行っている。大きな目標をかかげた小委員会であるが、会員の誰でもが出席して自由に発言し得る仕組みとなっている。
学塔を去って四十余年。何と云っても肉体の衰いはかくしきれない年齢となりつつある。しかし精神の方は昔に変らない若々しいを持って、世のため尽して行こうとしているのが十二月クラブの姿である。