和田 篤君の逝去を悼む
5組 重松輝彦
去る8月12日、山崎 坦君から、和田 篤君が昨日急逝したとの知らせを貰い驚愕した次第である。
私は4月23日、秋葉原の三井記念病院の眼科で君と会っている。あの時、私は3カ月ぶりに視力と眼圧の測定とを受けていたが、君の名前を呼ぶ拡声機の声を耳にした。早速、指定の診察室の前に行き、君の坐っている姿を発見した。そこで君の隣りに坐り、君の診察の順番が来るまで雑談を交わした。
その内容は、
(1)奥様は元気であること。奥様が以前いっだったか急性肺炎に罹られたとき、君がいたく心配されたことを思い出し て、私が質問したことに対する君の回答。
(2)片方の限は依然として具合が悪いこと。
(3)最近、脱腸を手術したが、今日はその経過を診てもらうため、眼の診察が終り次第、内科へ行くこと。とにかく眼 科での診察待ちの短い時間であったが、このほかに君は、「今でも12月クラブの麻雀会に出席している」と付け
加えた。
思えば、吾々は、昭和11年(1936年)春、新築後間もない小平学舎に相見え、同じ5組に編入された。さらに昭和14年(1939年)本科に入ると同時に、同じく中山ゼミで鍛えられることになった。
さて、改めて東京商科大学卒業記念帖・昭和16年12月、を取り出した。亦楽会諸兄の写真の下欄に卒業生各人の一言(ヒトコト)が載っている。君は斯う書いている。
「一橋6年の学園生活は何と云つても温室の生活だった。之からは嵐も吹かう。雨にも遭はう。途中で立枯れる事なき様、心の用意が肝心だ。前途の光明を求めて現在の苦しみを楽しまん。」(仮名使い原文のまま)
君のいう温室の生活は昭和16年(1941年)10月で終ってしまい、大東亜戦争の影響を最初に受けることになった。即ち10月には「12月繰り上げ卒業」が決まり、卒論提出、卒業試験、兵隊検査、と矢継ぎ早に鮨詰めされ、12月末には卒業となった。
君は海軍短期現役主計科士官に合格して、海軍経理学校に入校した。爾後、君の前途には数々の嵐が訪れたであろうが、君は立枯れなかった。
時には「キスカ島守備隊救出作戦」のごとく天佑によると思われるような目覚しい成果にしても、すべては君をはじめ関係者の絶え間のない努力や訓練の賜物であろう。
この話を君は卒業40周年記念文集の中に発表しているが、私は12月クラブの日帰り旅行のときバスの中で君が話してくれたときの様子が忘れられない。軽巡洋艦と駆逐艦という軽快に動き廻れる軍艦ばかりで編成された十数隻の艦隊が濃霧と風波の中、目的地に着いた時には、図上で予測した位置とわずか1浬(1852米)しか違っていなかったという旧海軍の航海術の優秀性、その艦隊がキスカ島の手前にある米軍基地の眼前を通り抜ける時の緊張感、その艦隊が数千名の我が軍守備隊をまるまる無傷で救出し撤退した後の藻抜けの殻になったキスカ島に米軍が大規模な艦砲射撃を加えた上で上陸作戦を敢行したという後日談など感銘の深いものがある。
君は戦争が終ってからも、引き続き、海外在留邦人の内地引き揚げ輸送業務に従事していた。12月クラブ会員でも君のお世話になった人がいると聴いている。いまは故人になった7組の魚本藤吉郎はその一人である。
君の実父山口海軍少将、また君が名跡を継がれた父君和田海軍少将、共に海軍の将官であられたので君は根っからの海軍魂の持主でもあった。海軍の人達は相互扶助の精神に富んでいると云はれる。
君も友人の面倒を良く見た。会の幹事のあるなしに拘らず仲間の動静に気を配り、ニュースがあると関係者に連賂してくれた。
カナダ在の張漢卿君についても時宜に応じて連絡してくれた。
また西川元彦君(7組)が梟(フクロウ)に興味を持っていることまで教えてくれたのも君であった。
中山ゼミの同期生の集まりを適時アドバイスしてくれたのも君であった。
鳴呼悲しい哉 君は逝く
祈る奥様のご健康