大東亜戦争の末期も迫っていた昭和19年12月27日のこと、私は当時、シンガポ−ルのチャンギ−にあった馬来俘虜収容所の副官をしていた。この収容所は日本が、捕虜に関するジュネ−ブ条約締結に伴い設けた施設で、天皇陛下直属で陸軍大臣直轄し、現地南方総軍に区処せしめていたというのが建前であったが、南方総軍は既にシンガポ−ル死守玉砕を覚悟し、その準備に追われていた。この収容所に転用されていた刑務所は、英国の植民地時代に建設され東洋一の大規模を誇る施設で当時未だ約4万8千人の白人捕虜のキャンプになっていたので、その食糧確保も容易ならずで大変な苦労の最中であった。
「副官殿、友人の海軍将校さんが御面会です」との知らせで出てみると、思いもかけない天谷幸和海軍主計少佐が立っていた。「俺は明日28日、日本に帰還する事になったので別れの挨拶に来たよ、それに君に頼みたい事もあったのでな」との話で、聞いたのは、帰国命令と共に彼は現地華僑の娘さんと任地クアラルンプ−ルの教会で結婚式を挙げ、後事を当時クアラルンプ−ルに派遣されていた商大の東亜経済研究所の赤松要教授一行の山田英雄氏(昭和16年前期卒)に託したが、彼は民間人で心許ない立場の人でもあるので、何かの時には軍人の君にも面倒を頼んで置こうと思って来たのだと言うことであった。その相手の新妻はマレ−第一の森林王と言われる成功者の華僑の娘で、家族は皆、日本軍の進攻近しとのことで既に印度のニュ−デリ−に避難をしたが、其の娘さん丈は抗日の固まり?で敢えて独り英軍の病院の従軍看護婦を志願して、現地に踏み止まったが、日本軍占領下での生活の為、日本海軍の現地での物資調達に応ぜざるを得なくなり、出入り商人として調達官の天谷君と会っている間に仲良くなってしまったのだとの話であった。抗日で日本人嫌いで固まっていた気性の劇しい娘が、海軍の出入り商人として憎い日本軍の購買官の人間味溢れる公正な仕事振りにすっかり惚れ込んだと言う事は天谷君の戦死後、彼の勤務地であったクアラルンプ−ル情報で知り得た事である。彼が其の結婚相手に対する愛情の深さは、日本への出発前日にわざわざ私を訪ねて後事を託した事でも充分察せられるし、其の仕事振りは占領軍の購買官として何等威張る処もなく、公正な物であった事に頑なな反日感情も消え去った経緯がよく判るっとの現地情報であった。彼からは直接そんな話もなく,簡単に新妻の後事を頼んだ後、洗濯済の使い古しのシミのついたパンツとズックを餞別代わりに使えたら使って呉れと残してくれ、彼をセレタ−の軍港迄送って別れたのが最後になって仕舞った。まさか其の翌日、彼が海南島の上空で米軍の戦闘機に撃墜されるとは夢にも思わなかった丈に大変なショックであった。何かの時には小生に連絡をと言い残して出発した彼の周到さには、ほとほと感心せざるを得ない思いで其のニュ-スを聞いた事を今も昨日の事であったような鮮やかさで思い出している。真面目人間の彼の人生唯一最後のロマンスが戦争と共に消えてしまった事が何より残念でならない。
私の生ある限り、日々、彼の冥福、を祈り続けるのみである。
終
*天谷君は、たしか、高等文官試験・外交官試験に合格していた。誠,将来有望な青年であった。
和田君は記事にある事情にもかかわらず、戦犯にかかることはなかった。
両君の人間性は、一橋人の誇りというべきか。(編者 註)