石油と共に生きて50年の星霜回顧
                                     5組 山崎 坦
 第1章 回顧
 
 粉雪の吹き込む煉瓦造り兵舎の3階、板の間にベッドはなくて、床に直に敷かれたマットレスに寝かされた。
 1942年2月1日。
 我々同期生は、繰上げ卒業、その大多数が,兵役、出征、死線を越えるという同し様な経験を共有している。
 生き長らえて、今茲に投稿出来ることは誠に幸せである。
 
 戦地の日干し煉瓦の望楼のある塹壕にいた頃、警備隊長の私に内地のさむらいの父から届いた葉書には、
 日替わりに「孫子の兵法」が書かれていた。
 中国から復員帰国上陸Lた日本の鹿児島、桜島は緑滴っており、破れた水道管から溢れ出ている清水は、
 なんとそのまま飲むことが出来た。
 東京は焼け野原であったが、わが家は焼け残っていた。
 粉雪の舞う1946年1月29日、廊下の奥の暗がりから現れた痩せ細った古武士の趣の父親に抱擁された
 経験は一生に一度のものであった。父に従って現れた痩せた母ともども倅の生還が祝福された。
 会社のビルは進駐軍に占領されており、やがてわが家も占領された。
 
 そんな時期に、私の帰還を待っていたような、生まれたときから、ずっと一緒に暮らしていたような感じで、
 父の竹馬の友の娘と結婚した。
 もう五十二年にもなる。
 
 やがて会社がGHQに解散させられて、二百ほどの小会社に分解した。その中の一つの小さな会社で、
 明日の糧が獲得出来るかと、しょっちゅう心配しながら奮闘努力した。
 休みになるとリュックを背負って食糧の買い出しに出かけた。
 
 仕事の種子が何もなかった頃、英字新聞で、米軍が横浜でマニラロープやUSED GUNNY BAGを
 入札調達することを知り、電話帳でメーカーを調べて、無競争でこれらの仕事を獲得した。
 その節は下田友吉君に大変お世話になった。  所謂、朝鮮特需であった。
 
 やがて小会社は再参の合併を重ねて旧会社に復活した。
 漸く、まともな体勢で尤もらLい仕事にはいるのには、若干の日時を要した。扱い商品は石油、
 それからの一生、石油とつきあうことになった。
 
 折りしもエネルギーは、固体から流体に、石炭から石油へ、と革命的に移行した。
 1960年、産業は高度成長(所得倍増)時代に入った。
 61年、北極、欧州経由クウェイト・サウジアラビヤ中立地帯沖合いカフジ油田を訪問。基地、
 蒲鉾兵舎型宿舎で故松本信喜君と密かにビールを酌み交わした。

 アラビヤ石油(山下太郎社長) 現地の鉱業所長、故山内肇氏から頂いた第一号井のコア(深度5,476ft.、
 1960年)は私の大切な宝物で、プラスティックに埋め込んで飾ってある。
 
 私にはも一つ宝物がある。当時カナダ大使舘の商務官パイパスさんと石油情報の交換をしていた。
 57年カナダカップ・ゴルフトーナメントが日本(霞ケ関カントリー・クラブ)で開催されることになり、カナダ
 大使館により前夜祭レセプションが催された。
 
 私も招待されたのでゴルフの神様サムスニードの著書 「ナチュラルゴルフ」を求め、
 携えてパーティーに出席した。
 中村寅さんやゲーリープレイヤーなどの中にスニードを見つけてサインを貰ったと言うわけである。
 為書きに「BETTER GOLFを」と書いてくれたが、上達はしなかった。
 もう41年以上もゴルフをやっていたことになる、が。
 レセプションのインビティションカード、トーナメントの入場券胸章、 当時の新聞か挿んである
 「ナチュラルゴルフ」1冊が私にとっては宝物なのである。
 
 仕事では石油会社、ガス会社、化学会社、電力会社に原油を輸入した。
 
 海軍兵学校のあった江田島と同じ島の南の部分は能美島とよばれるが、そこの鹿川と言うところに
 タンクヤードかあり、ここまで大型タンカーで輸入した石油を関西の発電所に配送する仕事は1962年
 頃から延々と現在でも継続されている。
 
 やかて石油化学会社の原料を調達する仕事に従事することになったが、その時、第1次石油危機に
 直面した。 ロンドンへ行ってシェルや1CIと情報交換し、次に原油を穫得Lようと、リヤド(サウジアラビヤ
 首都)に飛び、公団のアリレザ氏(後に外務次官)に会って交渉し、シンガポールに寄ってシェルに製油
 を委託する計画であった。 しかし、これは成功しなかった。
 なにしろ、サウジは 「石油を武器として使う」というのだし、OPECは販売カルテルを結んで、数量制限
 をして価格を引き上げるという、宣戦布告であった。
 こちらはお願いの姿勢で4倍価格の原油を掴まされ、 
 しかもその価格を製品に転嫁することが許されぬと言うかたちになった。
 
 日本は周章狼眼してあの体たらくだったことは、ご記憶に新たと思う。
 
 石油価格4倍増はいわば増税4兆5干億円であり、デフレ効果となった.。
 GNP成長率はマイナスとなり、時の大蔵大臣大平さんが赤字国債10兆円を発行して、景気を立て直した。
 此のパフォーマンスは世界で最良のものであった。
 やがて大平さんは年々増大する赤字による財政硬直化を恐れて、此の赤字を挽回しようと、
 欧米では既に採用さ れていた「ー般消費税」導入を計られたが、
 解らず屋の社会党おばたりあん議員多数当選によって、これが潰されたことはご記憶にあると思う。
 大平さんは、日本人には「説明すれば解って貰える」と絶叫しつつ急逝された。
 
 対抗策協議のためのデイスカルデスタン提唱によるサミットの開催は、今年で24回になった。
 キッシンジャーによるIEAの設立 即 石油輸入国によるパイイング・カルテル、北海油田開発、
 新油田の開発、LNGの導入、新エネルギーの採用(含む原発)、
 エネルギーの節約、効率の向上等各種の工夫により需給バランスは今や原油供給過剰気味、
 価格低廉時代にある。
 
 一方経済成長に比例して環境汚染が拡大し、化学工場には百億円もする排煙脱硫装置を設置したこと
 もあった。 今又CO2やダイオキシンが問題になっている。(1986年にはチェルノブイリ原発事故があった。)
 
 バブルの時代は財政建て直しの好機であったはずだ。
 ブレーキの踏み違いで「山高ければ谷深し」の例えの通りバブルの反動はひどい物となった。
 製造業もブレーキを踏むべき処、アクセルを踏んだのではないだろうか、供給過剰である。
 ゴミは溜まるばかりだし、
 CO2も1997年京都会議の議定書によると1988年頃のエネルギー消費のかたちに戻さねばならぬ。
 これからの10年で過去の10年前の空気に戻して行かなければならない感じで、
 それでやっとバブルが消えることになるのだろうか。
 
 日本人の精神状態もバブルになっているのではないかと心配だ。
 日本は日露戦争以後、勝って兜の緒を締めることを忘れ、過ちを繰り返して来た。
 特に最近、総ての面で、より真面目に、思慮深く、やって行かねばならぬのではないかとの感が深い。
 私の回顧の感懐としては、ブレーキをかけるべさ時にもっと頑張らねばならなかったとの後悔であるが、
 大勢には如何ともしがたかったという事である。
 
 亡き母には、ストレスを感しるたびに、助けけられた。「あなた、なるようにしかなりませんよ」と。息子が
 懸命に努力をしているのを承知の上でストレスを癒してくれた。
 お陰様で、どうやら胃潰瘍も直って、 ながもちしている。
  
   第2章 エネルギ−考

  石油業務に関係してきたので、エネルギーには色々考えさせられる。
  
  人間は150万年ほど前から、既に火を扱っていたようだ。
  メソポタミヤにはパンを焼いた形跡がある。灯をともしたランプもある。(灯の話は何れ別途に)
  メソポタミヤとはギリシャ語で二つの河の間の土地を意味するが、チグリス、ユーフラテス両河の間の地で、
  現存のイラク(旧トルコ領)であり、北部には有名なキルクーク油田がある千年来燃える土地があると
  言われるが、湾岸戦争の時クウェイト油田の燃え上がった図が思い起こされる。

  隣接するペルシャ(現イラン)にはゾロアスター教(拝火教)があった。
  ペルシャの古都イスファハンに近いヤズド(砂模の星と呼ばれる)モバラケ村こは
  沈黙の塔という日干し煉瓦で造られたゾロアスター教の葬祭場が残っていて、
  二十年ほど前までは、その屋上で鳥葬が行われたということである。魂は鳥によって天に昇る。
  
  ここより北のトルコにはアララット山(5,165m)があり、「ノアの箱舟」の漂着地と言われる。
  更に北には、雪を頂いて峨峨として聳えるコーカサス連峰があり、その中のエルブルース山は5,642m
  もある。その山脈の裾は東に伸び、カスピ海に突き出している岬のバクー大油田となる。

  旧ソ連、アゼルパイジャン共和国の首都がバクーで、
  此の油田は第一次大戦の頃には世界の産油をアメリカと二分した。かのノーベル兄弟も関係Lていた。
  
  カスピ海の石油埋蔵量はサウジアラビヤの3分の2あると言われ、今や開発ブームとなっている。 

  この辺から南へ南へと石油を掘り当てて、イラク、イラン、クウェイト、サウジアラビヤ、
  ペルシャ湾、アラビヤ半島の南端のオマ一ンまで所謂中東産油国となった。
  
  メソポタミヤは、古代文明発祥の地、と言われるように歴史は古い。

  古代ギリシャの哲人たちは既に1000km余りも離れたギリシャから
  前述のような中東事情を承知していて彼らの世界観やエネルギー観に
  これらの事情を織り込んでいたように考えられる。
  このような考え方が現代にも通ずると思う。
  
  人は誕生に当たって、億の中から競争に泳ぎ勝って生を受けた。
  生まれた時から競争しなければならない性を背負っている。
  子等にバトンタッチして種の保存を果たして土に帰る。
  
  しかし6500万年前に恐竜が1億年ほどの生命を終えて絶滅したように、人類の生命も永遠ではなかろう。
  
  科学が進むにつれて随分色々なことが解ってきたが、先ず人類、生物は如何にして誕生したのか?
  此の問いに対する答えは解明されつつあるようなものの、究極解らないというのが本当の所だろう。
  だから解答は神話になってしまうのではないか。最近の映画にも、現代の神話のようなものが沢山ある。
  想像のおはなし、お伽噺、イソップの寓話など誠に尤もらしい神話かある。
  
  古代ギリシャのソフイストの長老プロタゴラスはソクラテスに次のような物語をしたとプラトンが書いている。
  天地が創造されてから、次に生物を創ったのはエピメテウス(エピ=後で メテウス=考える 即ち後悔)
  という神で、この神が、生物が種の保存か出来るように、それぞれに相応しい装備を調え、能力を分かち
  与えていった。
  ある種には速さを与えない代わりに強さを授け、弱いものには速さを装備し、
  小さいものには翼を使って逃げられるようにしたり、地下のすみかを与えたりした。
  この装備能力分配のやり方は成る程と思われる案配で延々と続くのであるが、
  決して如何なる種も滅びて消えることのないようにと配慮されたのである。
  
  エビメテウスはもろもろの能力を動物達のためにすっかり使い尽くしてしまったが、まだ人間の種がなんの
  装備も与えられぬままで残されていた。 
  エビメテウスか困惑しているところへ、兄のプロメテウス(プロ=予め メテウス=考える 即ち先見の明)が
  検査にやってきた。
  
  プロメテウスは、人間のためにどのような保全手段を見いだLてやったものか困り抜いたあげく、
  ついにヘパイストスとアテナのところから、技術的な知恵を火とともに盗み出して人間に贈った。
  
  ここから先は人間に関して更により重要な「徳」(つつしみといましめ)の話に入って行くのだが、
  火の問題に関しては悲劇作家アイスキュロスが「縛られたプロメーテウス」で、話を続けて行く。
  プロメテウスは、ヘパイストスの特権である火を盗んで、人間どもにむざむざ、やった。
  
  正当以上のもてなしを与えた償いに、ゼウスに罰せられることになる。
  プロメテウスはあまりにも人間を愛しすぎた、
  ゼウスは人間を滅ぼすつもりであり、他の神々もプロメテウス以外はたれも反対しなかった。
  
  プロメテウスはゼウスにより罰せられる。
  コーカサスの岩山に縛られ磔にされ、鷲に毎日肝臓を啄ましめられた。肝臓は夜の内にまた生え出た。
  成る程、肝臓は「沈黙の臓器」といわれ一部切り取っても再生するそうである。
  古代ギリシャ人は既にこのことを知っていたわけである。
  
  この寓話は、誠に含蓄するところ豊富であると思う。
  
  もう一度「エネルギー考」前半を読み返して頂けたらお解り頂けると思うのだが。:I*************:I